ii.
奏は目を細めて、それを見た。
どんな醜悪なものが出てくるかと身構えていたが、予想に反して普通の人間の姿だった。それも外見だけなら、むしろ普通より見栄えがするといっていい。端正な顔立ちの、三十代半ばほどに見える男だった。
シャツにジャケット、ジーンズという服装で、ラフな割りに洗練された雰囲気だ。人の世界に慣れているらしい。上背は奏と同じくらいだが、細身の彼とは違い、やけに頑強そうな体つきをしている。単純な腕力だけでも負けそうだ、と奏は思った。
男が微かに笑った。軽い足どりで踏み出す。
奏はすばやく九字を唱えた。蜘蛛の巣のように張り巡らされた忌まわしい気配がふっと散った。男の前に電流のようなものが走る。男がうるさそうに顔を顰めた。が、それだけだった。平然と前に進み続ける。まずいな、と思った。自分の力が相手に遠く及ばないことを改めて悟ったのだ。
「動くな」
男がいった。その言葉だけで、奏は身体の自由を奪われた。
「術者か」
男はしげしげと奏を見た。
「こんなところに現れるとはな」
奏は黙ったまま相手を見返した。これはいったいどんな種類の魔物だろうか、と考える。力は相当強いようだ。見た目に違う、おぞましげな気配も伝わってくる。本来ならば、闇の世界の奥深くに棲み、人よりも生命力がありエネルギーの高い魔物を主食とする類のように思われた。こんなものが、何だって人の世界をうろついたりしているのだろう。
男が近づき、奏は反射的に後退しようとした。身体は動かない。男がまた笑った。
「それで」という。「どうするつもりだ」
奏は溜息をついた。
「どうというか、できれば彼女は助けたいかな」
倒れている女子大生に目をやった。男がどのような魔物でも、このままでは彼女はよくない目に遭う。それだけは確かだ。放っておくわけにはいかないだろう。
男は、これ見よがしに片眉をつり上げた。
「助ける。おまえがか。どうやってだ。手出しできるほど力があるようには見えないが」
男のいうことは、ほぼ当たっていた。奏の力だけで男をこの場から消し去ることは、確かに無理だった。しかし奏は霊符を持っていた。兄の慧がつくったものだ。使えば、一時的に男の力を抑え込むことができるだろう。その隙に彼女を連れて逃げることは可能だ。
ただ問題もあった。二人が逃げた後のことだ。男が腹立ち紛れに他のものを襲ってしまうかもしれない。それでは駄目だ。どうするかな、と思う。彼女だけ逃がして自分はここに留まる、という手もある。一人で行けそうなら、その方がいいかもしれない。だけど彼女は、あの状態で起き上がって走れるだろうか。
「なぜ黙っている。策がないのか」
男が更に近づいた。
「検討中さ」
「いい度胸だ。それとも、単に状況をよく理解していないだけか」
「そういうわけじゃない。力はおまえの方がずっと強い。よくわかってるよ。おまえは何が望みなんだ。闇の生き物が、こんなところまで来て何をしている」
「知りたいか。そうだな。教えてやってもいいぞ」
どういうわけか男は、ひどく興味をひかれたらしい顔になっていた。遠慮のない目つきで奏を眺め回す。奏は無言で相手の次の言葉を待った。
「おまえが、あの女の代わりになるというのならな」
「代わり?」
思わぬ提案に、少し驚く。
「女を助けたいんだろう。おまえが大人しくここに残るというのなら、女は解放してやってもいい」
「本当に」
「そうだ。おまえ次第だな」