xvii.
家に入った慧の背後で、扉は再び閉じられた。慧がちらっと後ろを振り返る。その様子から奏は、また扉を開くには少々手間がかかるらしいと察した。兄の力を持ってしても男の結界は強力なようだ。
慧は玄関を背にして立ち、奏と男を見る。奏の姿に僅かに眉を顰めた以外は、何の感情も窺えない顔つきだった。男の方は、怒気を孕んだ目を慧に向けていた。
「あの霊符の術者か」
低く押し殺した声にも怒りが滲んでいる。
「よくここがわかったな」
「弟がだいぶ世話になったようですね」
慧はいいながら、一歩前に出た。男が僅かに後退する。
「まだ遊び足りないかもしれませんが、そろそろ返してもらいますよ」
男は慧を見据えた。慧は動じるふうもない。もう一歩前に出た。
「弟とはだいぶ毛色が違うようだな」
「どうでしょう。何にしても、あなたの結界は確かに強力だ。あいつを探すのにも手間取ったし、入口もまた閉ざされてしまって、すぐには開けられそうにない」
「それで、どうするつもりだ」
「どうしようかと、今考えているところです」
「生意気な口をきくところだけは、そっくりだ」
男が微かに笑った。
「弟は、人間どもと魔物とどちらが正しいかわからない、などと呑気なことをいっていたが、おまえは違うらしいな。血のにおいがするぞ、おまえ。魔物の血のにおい。それも、かなりの量だ」
男の言葉に奏は驚いた。子供の頃、兄から感じたものを思い出す。知らぬ間に男の拘束を撥ね除け、身を起こしていた。
「おまえの兄は、相当闇の世界のものを殺しているな。こいつも殺しが好きなのか」
慧を見たまま、男が奏にいう。
「やめろ」
奏は男にいった。昔の話だ。兄がこんなことで揺らぐはずもない。わかっていながら奏は動揺した。そんなことまで感じられるのか、と改めて男の力に戦慄する。
慧は全く表情を変えず、黙って男を見ていた。男は奏のうろたえぶりを見て、妙に合点がいったらしい顔になった。奏の腕を掴んで立ち上がらせる。後ろから奏を捉えて首にナイフを押し当てた。
一瞬のうちに血のにおいに包まれ、奏は身を硬くした。犠牲者たちの悲鳴と痛みが襲ってくる。堪えながら立つ目の前に、傷つき倒れる慧の姿が浮かんだ。奏は息を呑んだ。男の想像だ、と思う。それでも慄きをとめられなかった。
「どうやら、本気で怯えているらしい。早速おまえのそういう姿が見られたか。つまり、おまえを狂わせるには、あの術者を殺せばいいというわけだ」
「おまえに兄さんは殺せない」
奏はいった。声が微かに震えた。
兄と男、二人の力を比べれば、おそらく兄の方が少し勝っている、と奏には感じられていた。しかし、ここは男の家だ。兄にとっては相手のテリトリーということになる。それは明らかに不利だった。
しかも男は楽しみを邪魔されて怒り、一層邪気が増している。兄は兄で、一見したところではわからないのだが、幾分憔悴しているようでもあった。夜中、奏を探していたせいかもしれない。
その弟は、こうしてまともに動くことさえできず人質同然だ。どう考えても兄に有利とはいえない状況なのだ。