xv.
男が近づいてくるのを、奏はただ見ているしかなかった。身体がひどく重い。立っているのが精一杯だ。今ので相当消耗したのだろう。身体だけではない。意識もまだ朦朧としていた。
「ならば、直接手を下すしかないな」
男が奏に触れた。途端に奏は床にくずおれた。
「今度は浄化は無理だぞ」
男はすかさず伸しかかってきた。奏は相手を押し退けようとしたが、力が入らず腕を上げることさえできない。完全に押さえ込まれて、抜け出すことも叶わなくなった。
「どいてくれ──まだ──崩壊してない」
抵抗することもできないまま、やっといった。
「次の──楽しみには──早いよ」
「まだそんな口がきけたか」
男は冷たく笑った。
「他にもいいたいことがあるなら、いっていいぞ。じきにまともな話はできなくなるだろうからな」
既に声は出なくなりかかっていた。強く伝わってくる男の興奮に身体中を抑え込まれていた。これもまたひどいな、と思う。全身に鳥肌が立っていた。
こんな類の喜びを見ることになるとは、さすがに思っていなかった。血のにおいを甘く感じ、悲痛な叫びに高ぶり、他者の苦痛を吸うほどに活気を増す凶暴な喜びが、奏の意識と身体を支配しつつあった。
苦痛に喘き、吐き気を感じながらも、男の感情に取り込まれそうになる。今までこの世界で自分は、何を美しいと思い、何を幸せと感じていたのだろう。思い返そうとしてみても、何ひとつ浮かんでこなかった。
当たり前だったはずの世界は消え去ろうとしていた。もう自分自身ではなくなってしまったのかもしれないな、と思う。そもそも自分というものが何だったのかも、よくわからなくなっていた。
いっそ進んで男に同調すれば苦痛は軽減するだろうか、とも考えた。そうかもしれなかった。だがもちろん、その後に待っているのは本物の崩壊だ。こんなものに共鳴して、ただで済むはずがない。
不意に慧の顔が浮かんできて、男に攫われそうだった意識が辛うじて奏の元に留まった。兄はきっと自分を心配しているだろう。せめて最後に会いたかったな、と思う。もう近くまで来ているかもしれないのに。
男の笑いが意識の中に広がった。そろそろ限界だろう、と聞えた。声に出していったのか、思っただけなのかはわからなかった。あるいは奏自身の思考だったのもしれない。まったく判別できなくなっていた。すべての境界が失せつつあるらしかった。男は奏のТシャツの裾をたくし上げようとしている。
「──残念だな」
奏は出ない声を絞り出した。
「どうせ犠牲になるなら──おまえが生きていくためならよかったのに──楽しみのためだけじゃ──ちょっと浮かばれない気がするよ」
男が手をとめた。呆れたらしい様子が伝わってきた。
「そんなことをいう力がまだ残っていたか。大した精神力──というよりも、愚かなやつだ。襲われて殺されることも容認するというのか」
「そういうわけじゃないけど──闇の生き物と人間と──どっちが正しいということはないから──仕方のないことだってあるかもしれない」
奏の言葉に男は驚いたらしかった。身体を包んでいた興奮が急速に冷める。僅かばかりだが楽になって、奏は小さく息をついた。