xiv.
殴られたかと思うほどの衝撃があって、思わず上げかけた声は途中で消えた。何か起こったのか、よくわからなかった。何かが強引に意識の中に入り込もうとしていた。
何か──いったい、これは何だろう。
朦朧となりつつも、奏は懸命に相手を探った。人の感情ではあるらしいが、残されただけのものにしてはやけに生々しかった。まるで今ここに存在する生き物のような激しさだ。明確な意志を持ち、相手を破壊しようとしている強い想い。これは憎しみだ、と奏は気づいた。
そうか、と思った。これは本来、あの男に対するものだ。
犠牲者たちの憎しみや恨みや怒り。男に触れられたときには、苦痛や恐怖の陰に隠れてよく見えなかったものだ。誰もが怖ろしすぎて、そんな感情を表に出すことはできなかったのだろう。男はそれをも感じとって味わい、蒐集していた。そしてこうやって他のものを襲うのに利用しているのだ。
凄まじいな、と奏は思った。呪いといってもいいその想いの塊は、今や目に触れるものすべてを破壊しようとしていた。男に操られてというよりも、それは形を変えた復讐だった。誰かを、いや、できることなら世界のすべてを、自分と同じ目に遭わせたいと願っている。
中身が読めなくても、こんなものに包まれたら大抵の人間は自分を見失ってしまうだろう。憎しみに取り込まれて誰かを攻撃したくなるか、衝撃に耐え切れず破壊されるか──。
奏自身も、かなり危険なところまで来ている気がした。怨嗟の声が暴力的に内面を侵食し、意識を押し流そうとしていた。逆らったところで無駄だ、と嘲笑うような囁きも聞えてくる。
確かにそうかもしれない。頭をもたげようとする諦めの想いを無理矢理抑え込み、何とか意識を繋ぎとめた。一旦流され出したら、二度と元には戻れないだろう。
男が声を立てて笑った。ひどく楽しげだった。意識の中で憎しみが叫び声をあげた。強い衝撃が走り、奏は呻いた。呪いの想いが爆発したように広がり出す。おまえも苦しめばいい、と声がする。そうして、死ねばいい。
駄目だよ、と奏は思った。こんなことしてちゃ駄目だ。
自身を呑み込もうとするうねりの奥に、更なる想いが見えていた。怒りとも悲しみともつかない感情だ。身を切るような想いだ。こうでもしなければ、やり場のないこの怒りを、苦しみを、いったいどうしたらいいのか。たくさんの声がそういっていた。
それぞれがどんな目に遭ったのかまでは、はっきりとはわからない。だが彼らが体験した想いは奏も知っていた。
怖かったんだろ。苦しかったんだ。奏は彼らにいう。わかるよ。おれも直接見た。だけど、それはもう済んだことなんだ。何かを呪っても憎んでも、もう取り返せない。あいつに囚われていたって、ただ苦しいだけだ。操られて人を襲っても何も変わらないんだ。おまえたちは過去の声なんだから。消えろとはいわないけど、せめて元の姿に戻れ。ちゃんと聞こえるよ。残ってる想いも読める。だからってどうにもならないかもしれないけど、おれは忘れないから──。
意識の奥深くまで入り込んでいたものが突然消えた。身体が少しだけ楽になった。それでも動くことはできない。奏は呆然と立ち尽くした。黒い霧は消えたらしかった。あの声たちと呪いの想いも消えたのだろうか。いったい何が起きたのか、またしても奏にはよくわからなかった。
驚いた様子で奏をみつめる男の目に、やがて忌々しげな色が浮かんだ。
「浄化したのか。おまえ、案外危険なやつだったな」