xii.
再び、おぞましいほどの苦痛と恐怖が奏の中に流れ込んできた。濃い血のにおいがして、このナイフで大勢のものが傷つけられ殺されたのだとわかった。身体中を激しい痛みが貫いていく。まるで奏自身がずたずたに切り裂かれているかのようだった。
血のにおいにむせ返り、吐き気に襲われた。冷たい汗が流れ、全身が震え出す。とても立っていられない。男の高揚が伝わってきて、吐き気は更に増した。
身体の力が抜けかけたところで、漸く解放された。奏は壁に凭れかかったまま、床へと座り込んだ。男が満足そうに見下ろす。
「どうした。今度は反撃しないのか」
奏は目を閉じた。ナイフが離れても身体の痛みは簡単には去らなかった。震えもとまらない。口元に手を当てて吐き気を堪えた。
「何とかいったらどうだ」
声が近づき、奏は目を開いた。再び細い刃を突きつけられ、身を強張らせる。たじろぐ姿に男が笑いを漏らした。
「急に大人しくなったな。さすがに堪えたか。それとも、もう気がふれたか」
奏は顔を上げ、男を見た。
「まだだよ。たぶんね」
「軽口を叩く余裕は残っているらしいな」
「けど、次の手はもうない」
相手は呆れた顔になった。
「正直なことだ。で、どうする」
「どうしたらいいか困ってるところさ。そっちこそ、どうしたいんだ。もしかして、そろそろ終わりにするつもりか」
「終わりだと」
男はゆっくりナイフを仕舞った。いきなり奏の襟元を捉えて床に引き倒す。そのまま馬乗りになって、裂けたТシャツを更に開いた。胸元の傷を指でなぞられ、奏は顔を顰めた。
「安心しろ。そう簡単には殺さない。おまえはなかなかの逸品だ。それに相応しい扱いをしてやらないとな」
男の手が喉元を滑り、頤へとかかった。
褒められているらしいが全然嬉しくないな、と奏は思った。相応しい扱い、というのがどういうものか、男の考えが伝わってくる。
奏は男の肘を掴んだ。これ以上男に触れたくはないが、やむを得ない。そのまま肘を強く引いた。腕が伸び、バランスを崩しかけた相手を横様に蹴る。男の身体が脇へと飛んだ。
奏は反動で身を起こす。男は無様に床に転げたりはせず、受身の体勢から優雅にさえ見える動きで立ち上がった。軽く服の埃を払う。
その隙に奏は、身体を引きずるようにしてキッチンを抜け出した。逃げる当てはまったくないが、少しでも男から離れていたかった。外に出られぬと知りつつ玄関まで行く。脅しつけるように高く足音を立て、男が追ってきた。
「まったく油断のならない坊やだ」
「逃げても構わないっていったろ。油断する方が悪い」
「おまえほど遊びがいのあるやつは初めてだ。あれだけ震え上がっておきながら、また逃げ出しては生意気なことをいう。能力者というのは並の精神力ではないらしいな」
「普通より少し、怖ろしいものを見慣れてるだけさ。それでも、おまえのそんな楽しみにはつきあいたくないな。とても身がもたないよ」
「見えたのか。おまえは本当におもしろい。そういう特別な相手用の特別な持て成しだ。そこまでしてやろうというものには滅多にお目にかかれん。逃げて貰っては困るぞ」
男が迫り、奏は玄関の扉に背を押しつけた。
どうやら本当に自力では逃げ出せそうになかった。兄は今どうしているだろう。奏の気配は見つけにくくても、先ほど使った霊符の気配は伝わったのではないか。
もう少し粘らなくては、と思う。いずれにして時間が必要だった。ナイフのダメージからも、まだ回復し切っていない。