『人は死してなお 他者の記憶の中に生きるという』
『人は二度 死ぬという』
という台詞をきいて、タイトルにしようか悩んだ……
“死”を恐るるは恥ではない
なれど“不死”を望むは恥と知れ
人の再生はいつだろう
新たな命を授かる時か?
それとも生まれ出でる時か?
魂は輪廻再生の理に触れるだろう
それが人だろうと、動物だろうと、植物だろうと
そして同じように、命の、魂の再生は“生”を失う時ではないだろうか
生きるという“業”を負い、鎖につながれ、ある種の使役として縛られる
『命は尊いものだ』と言われ、“死”を拒絶し、否定される
そんな“生”から解放されるのが、魂の再生に当たるのではないのだろうかと、ぼくは思う
生霊も死霊も、本人の意思ではなく、その人物を知る者の思念の塊なのではないだろうか
「助けてくれ」と言っている気がする
「また会いたい」と思ってくれているだろう
そう想う人がいるからこそ、感じる人がいるのではないだろうか
その現われに葬儀があるのだと、ぼくは思う
生前、どれほどの人の記憶に、その人は存在するのだろう
参列する人の数だけ、もしくはそれ以上の人の心に刻み込まれているのだとしたら……
それは悲しいことではない
喜ばれることではないかもしれないが、悲しみに暮れることは当人に失礼ではないだろうか
……けれど……だけれど、悲しめないぼくは、どうすればいいのだろう……?
知人のお葬式に行ってきました。
とてもきれいな死に顔で、眠っているように、という表現がぴったりな気がしました。
けれどそれがとても怖かったです。
言いようのない怖さを紛らわそうと、以前連ねた言葉をなぞって呟く。
人はいつしか死んでしまうものなのですね。
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2013/07/11 に短編として投稿していたモノです。移転させました。
(短編として投稿していた方は消去しました。)