犬っころ、頷いた
「ぼ、坊ちゃん……」
屋敷で一番の古株の侍女が静かに後ろで呟いたのを聞いたとき、僕はすぐに反応することができなかった。その言葉は僕に向けられていなかったような気がして。
振り向いた僕は、彼女の視線が僕に向けられていないことを確認した。
では、彼女は何を見て「坊ちゃん」と呼んだのか。
僕たちは正門の付近を散歩していたのだ。つまり、正門にいる誰か。
そうなるとその誰かというのは、そりゃあ。
「……入れていただけないだろうか」
きっとその人が、ミハエル・コリンズなのだ。
騎士の装束に身を包んだ本物の彼は、どこか「父上」に似ている気がした。そりゃそうだ。彼は父上の息子なのだから。ほんものの、むすこなのだから。
いや、感傷に浸っている場合ではない。門番は返答に戸惑っており、ここは領主の息子たる自分が出ていく番だろう。幸いにもシロも一緒だ。何かされても抵抗することができよう。
「父からどなたが今日屋敷を訪ねる旨を聞かされていない。お名前を訪ねてもよろしいか」
お前の名前は、すでに僕のものなのだけれども。
二人いる門番の一人には屋敷内にこの出来事を伝えるように言った。判断は父上に任せた方がいいからだ。
彼は一瞬口を開いた。声は聞こえなかったが、口の動きは「ばあや」と言葉を紡いでいた気がする。
「自分は、騎士のミバセーダ・ミムスと申します。この度は私用によって参った次第でございます」
僕はその答えに少しだけ驚いた。孤独な環境によって喜怒哀楽の感情が薄れた僕にとって、久しぶりに心が動いたと言ってもいい出来事だった。
彼は本名を名乗らなかった。つまりそれは偽名なのだ。
そして僕は、彼の顔を見たときから覚えていた既視感がなんなのであるかに気付いた。この名前も聞いたことがある。この人、イズ、の同僚みたいな人だったような……・。
連絡もなしに屋敷に訪問されても困る。だが、彼の現在の身分は騎士だ。邪険に突っぱねることはできない。
「ばあや」
僕は古株の侍女に呼びかけた。チラりと本物、ミバを見れば、無表情や真剣な顔とは違う、だが落ち着いた表情をしていた。きっと、自分以外の人間が彼女を「ばあや」と呼ぶことに違和感を覚えたのだろう。
「この方を談話室に通してくれ。あとは父上に任せる」
「わかりました」
彼女は僕に深く礼をし、ミカの方へと向き直った。その顔は、どこかうれしそうであった。
「では」
その場をシロと離れつつ、ミカの顔を見てみた。その顔も、どこかうれしそうであった。
僕は疎外感を感じていた。理由は自ずともわかる。
「シロ」
その一言でシロは理解してくれた。サッとシロの背中に乗り、裏手へ回って自室に帰る。
父上に呼ばれたのは、その三十分後であった。
「この通りだ」
父上は僕をミカに見せるために呼んだようであった。会話と雰囲気から察するに、僕がミハエル・コリンズと名乗っていることであろう。
「だからお前はもうミハエルじゃない」
ミバは黙っていた。
僕は。
僕は、その言葉にどこか安心していた。よかった、舞踏会に参加していて。よかった、僕の顔がすでに割れていて。そうでなかったら。もし、まだ誰にも知られていない段階だったら。
僕はきっと、処分されたいたのだから。村に戻ることもできずに、ここで、命を。
僕の胸に広がっていたのは安心感だった。
だけど、まだ一つ不安点があった。
「今更戻ってきて、何の用だ」
それだ。彼は、何故今更戻ってきたのか。そして、彼は僕の顔を知っているはずだ。魔女として王宮に呼ばれた、僕の。