犬っころ、過ぎた
村から抜け出したいなんて、この口から言ったことはない。
けれどやはり、どこかにその気持ちを隠していたような気がする。
だが、今となればやはり住み慣れた、友達のいる村の方がよかった気もすれば、働かなくていい代わりに学べるこの環境もいい気がする。
「おはよう、ミハエル」
「おはようございます、父上」
僕は一体誰なのだろう。
ミハエル・コリンズと名乗り、日々自分を磨き、狼乗りのミハエルというあだ名を貰った、何か。
「今日の調子はどうかね」
「良好です。お気遣いありがとうございます」
僕はまるで、生まれてからミハエルだったように行動している。
いや、そうじゃない。僕は一応生まれてからのミハエル・コリンズであり、父上に命を握られている以上、この先一生はミハエル・コリンズであった。
僕がミハエル・コリンズとなってから、一年が経とうとしていた。
流石というのはうぬぼれかもしれないが、『村』生まれのおかげか何から何まで知識の吸収が早く、尚且つ自分はミハエルという自己暗示がうまかったようで、半年でミハエル化は終了した。
口調も、思想も、何から何まで。思想は頑張って洗脳されないようにしましたけど。
この半年間に行ったのは、コリンズ家で行った仮面舞踏会ぐらいだ。
自分は女として華奢な方ではないが、かといって男のような体格をしているわけでもない。
顔も整っている方らしいのだが、なんとなく男のように見えるだけで、バリバリ男というわけにもいかない。
胸は遺伝的なおかげか、男装としては幸いだがほとんどないに等しいのだが、だからと言って喉仏があるわけでもない。
体系は服でごまかせるとしても、やはりごまかせないものは多く、普通の舞踏会は行くことができなかった。
そのため、コリンズ家主催の仮面舞踏会を行い、「病気が治ったので表舞台に出れるようになったミハエル・コリンズ」の舞踏会デビューとなった。
服装としては着こんで体格を偽造し、マフラーを巻きつけることでのどぼとけの有無を見えなくした。そしてなんと化粧をして、男らしい顔に。仮面をするので必要ないのではないかと思ったのだが、その理由は後々わかった。
最初から仮面を付けて舞踏会をするのではなく、最初は客から少し離れたところで仮面を取って挨拶することになっていたのだ。
少々弱弱しい声。がっちりとは言えない体つき。確かに病み上がりらしい。
その後は仮面舞踏会が盛大に進められ、コリンズ家はしっかりとミハエルの存在を顕示できたのだ。
父上の望みは果たされたが、だからといって僕が用無しになったわけではない。
僕の義務はただ一つ。他の家に求められたときに、存在を見せるだけ。
狼乗りのミハエルというあだ名は、僕の意図するものではない。
友達がシロだけになってしまった僕は、毎日のようにシロと敷地内を遊んでいただけなのだ。
父上はどうやら『ミハエル』が怪我して使い物にならなくなるのを心配していたらしいが、それぐらいで大けがするやつじゃないのであしからず。
シロに乗って散歩というよりは散走していたところを、我が家を訪ねてきた貴族とその令嬢に目撃されたのだ。
その令嬢は以前仮面舞踏会に来ていたらしく、あのような弱弱しかったミハエルがこのように颯爽と狼の上に載って走っていたのに驚いたらしい。
僕の知らぬ間に令嬢は噂を広げ、父上が気付いた時には僕は狼乗りのミハエルおいうあだ名を与えられていた。
「ねえ、シロ」
シロは僕を見つめ返す。
「僕は誰なんだろうね」
シロは答えない。
当たり前だ。シロは言葉を理解さえできるが、言葉を発するすべは持たない。
「シロが僕をここに連れてきてくれたよね」
一年前、逃げ出したあの時に。
「そもそもなんで逃げ出したんだっけ」
逃げ出して得なんてあったのだろうか。そんなの、僕に知るすべはない。世界中のすべての出来事にかかわれるわけではないのだから。
「あのままあそこにいたのと、こうなったの、どっちがいい方なんだろうね」
シロが僕にすり寄る。
「いや、シロの選択が間違っていると思っているわけじゃないさ」
ねえ、シロ。僕たちが出会ったのは一年前だけど。
「お前には何故か大きな信頼感を抱いてるからね」
そういえば。
「あの時、女王は僕のことを魔女だとか言っていたよね」
よくわからない。けど、何故だろう。魔女という言葉を聞くと、『村』のみんなを思い出す。
「みんな元気かなー?」
僕のこと、心配してくれてるかな。
そういえば一年前は妊娠していた女王ももう出産したな。これで国は世継ぎもできたし安泰ってやつだ。
「僕、いつまでこうしてるんだろうね」
そりゃあ、おめえ、死ぬまでだろうよ。
「ねえ、シロ」
僕、こんな人生を送るために生まれてきたの?
口から出かかった言葉無理やり押し戻した。それは、僕の聞いていい質問じゃない。『村』出身が、『村』の外で過ごせているだけきっと幸せなのだから。
「シロは僕と一生一緒だよ」
シロは僕の目を見ながら頷いた。