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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。

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夜会で夫の愛人を刺そうとした伯爵夫人。でも不思議なことに、その場の全員が犯人を庇いました

掲載日:2026/05/04

 今日は特別な夜だった。

 春の夜会──王都に住まう貴族たちが招かれる、年に数度の大きな催しだ。

 有名な楽団が耳障りの良い曲を奏で、それに合わせるかのように紳士淑女が踊ったり、会話に興じる。

 私は夫の腕に手を添えながら、少し深めの息を吐く。


「レミ、疲れてる?」


 夫が小声で尋ねてくる。

 夫であるライド・オルネイト子爵は、こういう場でやけに目ざとい。

 私がポーカーフェイスを気取っていても靴が少し当たっていることや、喉が乾いていることにすぐ気づく。


「ほんの少しだけ」

「よし、次の曲は休もう。飲み物を取ってくるよ」

「あなたは、踊りたいのでは?」

「妻が疲れているのに踊りたいとは思わないな。まともな神経なら、罪悪感で楽しめないだろう?」


 ライドは当たり前のように笑った。

 結婚して三年が経つ。

 私たちは、仲のいい夫婦だと思う。

 激しい恋物語のような燃え上がりはない。

 けれど、朝食の席で同じジャムを選んだり、帰宅した相手に自然と目を向けたり、夜会で疲れた方を先に座らせたりする。

 そういう小さな積み重ねの気遣いが、私にはすごく心地よかった。

 だからこそ──

 私はあの人の顔を見たとき、胸の奥にモヤモヤが張り付いた感覚になる。


「……ミレーヌ様」


 大広間の入口近くに、一人の夫人が立っている。

 ウィルディ伯爵夫人だ。

 親しい、というほどではない。

 何度か茶会で言葉を交わしたことがある程度。

 けれど、彼女の印象はなかなかに強い。

 いつも控えめで、声を荒らげることがなく、夫の隣にいるときは必ず一歩下がる。

 笑うときも遠慮がちで、自分の話よりも相手の話を聞く人だ。

 そしてここ半年ほど、社交界でひどく噂されている人でもある。

 夫のウィルディ伯爵が……若い令嬢を連れ歩いているから。

 相手は、リリシア・モイーズ伯爵令嬢。

 明るい金髪に宝石のような青い瞳で、可憐にも清楚にも見える。

 だが、彼女の評判は決して清廉ではなかった。

 私は一月ほど前、別の夫人から相談を受けている。

 その夫人は、まだ結婚して一年にもならない若い方だった。

 彼女は青ざめた顔で、私に小さな手紙を見せた。

 差出人はリリシア・モイーズ。

 宛名は、その夫人の夫だ。

 内容は……まあ、ひどいものだった。

 

『奥様には内緒で、少しだけお会いしたい。あなたのような方に守られたら、わたくしはきっと幸せです』

 

 こんな文言だった。

 その夫人は泣いていた。

 夫が本気で相手にしたわけではなく、遊びだろう。

 でも、若い妻にとっては十分すぎるほど残酷だった。

 リリシア嬢は、そういうことをする。

 既婚男性に近づき、相手の妻を傷つけ、それでも自分は悪くないという顔をする。

 そして今、一番目立つ被害者がミレーヌ様だった。


「ねえライド」

「どうした?」

「あそこに、ウィルディ伯爵夫人がいらっしゃるわ」


 ライドが視線を向ける。

 ミレーヌ様は、大広間の端に立っていた。

 薄紫のドレスは控えめだけど上品で、よく似合っている。

 けれど、明らかに顔色が悪い。

 その理由は簡単だ。

 少し離れた場所で、ウィルディ伯爵がリリシア嬢を伴って入ってきたから。

 夫が妻ではない令嬢を連れて、王宮の夜会へやって来る。

 その事実だけで、周囲の空気がわずかに歪む。

 しかもリリシア嬢は、伯爵の腕に自分の手を絡めていた。

 汚れの一点もない白いドレス。無垢を装うような、もしくは無実を主張するような。

 伯爵はそんな彼女を見つめて、甘ったるく微笑んでいる。

 その少し先に自分の妻がいることなど、見えていないかのようだった。

 ……違う。

 見えていないのではない。

 見ていながら、見ないふりをしているのだ。


「……ああいう男、最低だな」


 珍しくライドの声音が低かった。

 私は返事をしなかった。

 最近。

 その言葉は、とても正しい。

 目も当てあてられない状況だけれど、それでも夜会は続く。

 貴族たちは、醜聞を好む。

 しかし、自分が巻き込まれることは嫌う。

 だから皆、見て見ぬふりをする。


 あら困ったことだわ。

 まあ奥様がお気の毒です。

 でもご夫婦のことですもの。


 そんな毒にも薬にもならない言葉で、自分の安全な場所を確保する。

 私も、きっとその一人だ。

 何度も噂を聞いた。

 別の夫人から相談も受けた。

 リリシア嬢がどういう人間なのか、ある程度知っていた。

 けれど、何もしなかった。

 本当はなにかできたかもしれないのに。


「ミレーヌ様、お久しぶりですわね」


 リリシア嬢が、わざわざミレーヌ様の前へ歩いていった。

 この異常事態に大広間のざわめきが少し薄くなる。

 当然のように皆、見ていた。

 見ていないふりをしながら、しっかりと目は向けている。


「今夜もお美しいです。……でも、少しお疲れのようですわ」


 リリシア嬢は微笑んだ。

 人の心を踏みにじる者ほど、綺麗に笑ったりできるから厄介だ。


「旦那様をあまり困らせてはいけませんわ。大人の男性には、安らげる場所が必要ですもの」


 一方的な物言いに、ミレーヌ様の指先が震える。

 ウィルディ伯爵が顔をしかめた。


「リリシア、やめなさい。ミレーヌがまた勘違いする」


 また勘違いする。

 その言葉はきっと、本人とっては逆鱗に触れるものだったのだろう。

 ミレーヌ様の表情が変わった。

 何かが吹っ切れたような顔だった。


「勘違い……?」


 小さな声だ。

 けれど、妙にはっきりと聞こえた。


「わたくしが、勘違いをしていると?」

「そうだろう。お前は昔から思い込みが激しい。リリシアは私を理解してくれる、ただそれだけだ」

「ええ、そうですわ。わたくし、伯爵様のお心を癒やして差し上げたいだけですの」


 リリシア嬢が、伯爵の腕にさらに寄り添う。

 そしてミレーヌ様が笑った。

 いや笑ったというには怖すぎる。

 完全に壊れた顔に見える。


「あら、そう」


 次の瞬間だ。

 ミレーヌ様の手が、ドレスの内側へ伸びる。

 短剣の刃がシャンデリアの光を鈍く反射する。

 誰かが悲鳴を上げると同時、ミレーヌ様はリリシア嬢へ向かって踏み出した。


「あなたさえいなければ──!」


 刃は、リリシアに届かなかった。

 たまたま近くにいた騎士が、すぐにミレーヌ様の手首を押さえたからだ。

 短剣が床に落ち、硬い音が響いた。

 まさかの事態に、大広間が凍りつく。

 リリシア嬢は真っ青な顔で伯爵にしがみつく。


「こ、殺されるところでしたわ……!」


 ウィルディ伯爵が叫ぶ。


「ミレーヌ! お前は何をしたのかわかっているのか!?」


 ミレーヌ様は騎士に押さえられたまま、肩で大きく息をしていた。

 髪が乱れ、顔は涙で濡れている。

 いつもの上品で静かな夫人の面影はない。

 苦しみと悲しみに悩み続けた果ての姿に私には見えて、胸が強く締め付けられた。


「嫉妬で人を刺そうとするなんて!」

「恐ろしい女だ」

「伯爵夫人として、ありえませんわね……」


 周囲からミレーヌ様を非難する声が上がっていく。

 最初は小さかったが、伝播して大きく広がっていく。

 犯人は彼女。

 悪いのも彼女。

 それは、間違いではない。

 ミレーヌ様は罪を犯した。

 どれほど追い詰められていても、刃を向けていい理由にはならない。

 だけど──

 私は床に落ちた短剣を見て、次にリリシア嬢を確認する。 

 伯爵の胸に顔を埋めて泣く姿は、まるで物語の被害者のようだった。

 けれど、その指先はしっかりと伯爵の衣を掴んでいる。

 そして伯爵は、妻ではなく愛人を抱いていた。

 妻が騎士に取り押さえられているのに。

 どう考えたっておかしい。

 あの男もあの女も、妻であるミレーヌ様をなんだと思っているのだろう?

 そうやって、何度その心を踏み躙ってきたのだろう?


「ひどい……わたくし、何も悪いことなどしておりませんのに……」


 リリシア嬢が鼻を啜り、震える声で言った。

 庇護欲を掻き立てるような女の声も入っている。

 それを耳にした瞬間、私の中の何かが静かに切れた。


「本当にそうでしょうか?」


 自分が思ったより、声はよく通った。

 ライドが驚いて私を見る。

 周囲の視線も、こちらへ向く。

 私は一歩前に出る。


「あの、オルネイト子爵夫人?」


 誰かが私の名を呼んだ。

 私は無視してリリシア嬢を睨む。


「本当に、何も悪いことをしていないのですか?」


 リリシア嬢の涙が、一瞬だけ止まった。


「な、何をおっしゃいますの……?」

「ミレーヌ様が刃を向けたことは罪です。そこは否定しませんわ。けれど、奥様だけを罪人にして終わらせるには、この場には目撃者が多すぎるのではありませんか」


 広間が静まり返った。

 ウィルディ伯爵が眉を吊り上げる。


「オルネイト子爵夫人。君は何を言っている? これは我が家の問題だ」

「王宮の夜会で殺人未遂が起きた時点で、もうウィルディ家だけの問題ではありませんわ」

「黙れ。私の妻がリリシアを殺そうとした。それがすべてだ!」

「本当に、それがすべてですか? あなたは今、ご自分の妻が取り押さえられているのに、愛人と噂される令嬢を抱いていらっしゃる」


 私が淡々と告げると、伯爵の顔がみるみるうちに赤くなっていく。


「リリシアは愛人ではない!」

「では、なぜ奥様ではなく、その方を連れて夜会に?」

「リリシアは私の理解者だ!」

「理解者……?」


 私はその言葉を繰り返した。

 あまりにも意味不明で、都合の良すぎる言葉に吐き気を催す。


「なんとも便利な言葉ですわね。自分たちはミレーヌ様の心を何一つ理解しないのに、自分にだけは理解者を求める。そして本質的には何一つ理解できていなそうな、頭がお花畑の女を理解者として認定する」


 リリシア嬢の顔が引きつる。


「ひどいですわ……! わたくし、ただ彼をお支えしたくて……。それにちゃんと理解だって、していますのよ」

「何人、理解者がいるのですか?」

「……はい?」

「だから、あなたには何人の理解者──という名目の男性がいるのですか?」

 

 リリシアは意味がわからないといった風に、伯爵の顔を見る。

 それから私をキッと睨みつけてきた。


「そんなの一人に決まっているではありませんか! 」

「ではなぜ先月、別の既婚男性にも同じようなお手紙を?」


 ここで、空気が大きく変わった。

 どよめきも起きているし、リリシア嬢の目が丸く見開かれた。

 私は淡々と続ける。


「実は私、その方の奥様から相談を受けました。手紙の差出人はあなた。内容は、奥様には内緒でお会いしたい、あなたに守られたい、というものでしたわ」

「ちがっ、それは……!」

「誤解とでも? しっかりあなたの名前が書かれておりましたが?」


 私は集まった人たちを眺める。

 今日は王家も有力貴族も集まっているが、誰もが口を挟んではこない。

 私の次の言葉を待っているようだった。 

 だから、本音を語らせてもらう。


「最近、便利な言葉が多いですわね。理解者。誤解。真実の愛。どれも、妻を傷つけるときに使うには都合がよさそうです。逆を想像してみてください。ミレーヌ様が別の男を連れてきて、彼が理解者なんですと伯爵に伝えたら? あまりにも誠意の欠けた行為です」


 誰かが、ふっと息を漏らした。

 笑ったのではない。

 たぶん、堪えていた怒りが漏れたのだ。


「実はわたしも、見ましたのよ」


 声を上げたのは、少し年上の伯爵夫人だった。

 彼女は扇を閉じ、リリシア嬢を睨んでいた。


「二月前の茶会で、リリシア嬢はわたくしの夫に近づいておりました。『奥様はお強い方ですもの。少しぐらい、旦那様が息抜きをしても許してくださいますわ』と」

「あの、わたくしも経験があります」


 今度は別の夫人が言った。


「うちの夫にも手紙が届きました。夫はすぐにわたくしに見せましたから、大事にはなりませんでしたけれど」

「私の弟にも来ていました」

「うちの義兄にも」

 

 次々と声が上がっていく。

 見境なしに送っているのかと思いきや、誘われたり手紙が送られた人には共通点があり、一人がそれを指摘する。


「もしや彼女、既婚者ばかり選んでいるのではありませんこと?」


 ざわめきの質が変わっていき、場の雰囲気も最初の頃とは明らかに変わってきた。

 さっきまでミレーヌ様を責めていた声が、今度はリリシア嬢へ向いたのだ。

 まずいと思ったようで、彼女は泣きながら訴える。


「違います! 皆様、誤解ですわ! わたくしはただ、優しくしてくださった方に感謝を……!」

「感謝のお手紙に『奥様には内緒で』とは書きませんわ!」


 今度は若い侯爵夫人がキツく言い放った。


「それに、あなたはミレーヌ様のことを笑っていましたわね」


 リリシア嬢がぎょっとして固まる。

 侯爵夫人は続ける。


「化粧室の前で聞きましたよ。『離縁もできない飾り妻』『家のためだけに置かれているお気の毒な方』と。あれは誰のことでしたの?」

「それは……その……」

「よろしいでしょうか。私も違う内容ですが、聞きました」


 今度は王妃付きの侍女まで声を上げた。

 本来なら、侍女が貴族の会話に口を挟むことはない。

 だが、その場にはすでに王と王妃がいた。

 いつからか、壇上に立っていたのだ。

 特に王妃陛下の表情は温度がなく、目が罪人を捌くときのそれだ。

 侍女は王妃に一礼してから言う。


「リリシア様は先ほど、控えの間近くでウィルディ伯爵夫人に向かって『伯爵様はわたくしといる時だけ笑顔になる』とおっしゃっていました」


 これを聞いたミレーヌ様の肩が震えた。

 騎士に押さえられたまま、彼女は床を見つめている。

 もう暴れる様子はない。

 ただ、声も出さずに泣いていた。

 きっと、その時の屈辱が脳裏に蘇ってきたのだろう。


「なんてことだ……。ミレーヌ、顔を上げるんだ」


 ウィルディ伯爵がようやく妻を見た。

 けれど、その声にあるのは心配ではない。

 苛立ちと、面倒を起こされたという怒りだった。


「お前が大人しくしていれば、こんなことにはならなかったんだ」


 この男にはまともな心がないのか?

 私が怒ろうとしたとき、王妃陛下の扇がパシン! と鋭い音を立てて閉じられた。


「大人しく?」


 広間全体が恐怖で震えた気がした。

 王妃陛下はゆっくりと階段を下りてくる。

 当然、誰も声を出さない。

 王妃陛下はウィルディ伯爵の前で足を止める。


「あなたは今、ご自分の妻に向かって、大人しくしていればよかったとおっしゃいましたか」


 ウィルディ伯爵の顔から血の気が引いていく。


「王妃陛下、これは、二人の問題でして……」

「王宮の夜会で、妻ではない令嬢を伴い、妻を侮辱し、その妻が追い詰められて刃を抜いた。それでも、まだ夫婦間のことだと?」

「しかし、ミレーヌがリリシアを刺そうとしたのは事実です!」

「ええ。事実です」


 王妃陛下はミレーヌ様に目を向ける。


「刃を向けた罪は消えません。どれほど苦しんでいても、それは許されることではありませんのよ」


 ミレーヌ様が小さく頷いた。


「……はい。申し訳ございません……」


 王妃陛下はしばらく無言になった。

 その後、視線がウィルディ伯爵へ戻る。


「そうは言え、彼女だけを罰すれば済むほど、王家の目は節穴ではありません」


 伯爵が生唾を呑んだ。


「妻の持参金で家を保ち、妻の実家の信用を使い、妻に領地経営と社交を任せ、その上で若い令嬢を連れ歩く。あなたは妻を伴侶ではなく、道具として扱ったのですか」

「決してそんなつもりは……!」

「結果だけ見れば、そのようにしか見えませんが」


 王妃陛下の声は静かで、だからこそ恐ろしい。


「結婚は、恋だけで成り立つものではありません。家と家の契約であり、責任です。貴族であるならなおさらです。それを理解できぬ者が、理解者などと軽々しく口にするものではありません」


 ここで、王も参加してくる。


「ウィルディ伯爵」

「はっ」

「王宮の出入りを当面禁ずる。役職については追って沙汰を下す。覚悟せよ。また伯爵家には、夫人の持参金および私財の保全を命じる」


 ウィルディ伯爵が膝から崩れかける。


「へ、陛下……! それはあまりにも……!」

「それから、モイーズ伯爵令嬢」


 王の目がリリシア嬢へ向く。

 彼女は伯爵の腕から離れ、震えながら膝をついた。


「わたくしは被害者です……。殺されかけたのです!」

「確かに。だが、複数の既婚男性に対し、不適切な接触を図った疑いがある。今後の社交全般の出入りを禁じ、王宮が預かる証言と手紙を確認する。モイーズ伯爵家にも監督責任を問う」

「そんな……!」


 リリシア嬢が両手で顔を覆う。

 ウィルディ伯爵が呆然と彼女を見る。


「リリシア……複数の既婚男性の話、あれは本当なのか?」


 リリシア嬢の肩がびくりと跳ねた。


「違います……わたくしはあなた様だけを……」

「では、この手紙は何ですの?」


 若い夫人が一通の手紙を掲げた。


「こちらもありますわ」

「うちにも」

「筆跡は同じに見えますわね」


 次々に差し出される手紙に私は驚く。

 いくらなんでも、こんなに多くの人が手紙を持って夜会に来るのは不自然だ。


「もしかして皆さん、今日の夜会で彼女を問い詰めるつもりだったのでしょうか」


 私の発言は当たっていたようで、彼女たちは怒りの形相でリリシア嬢を見つめる。

 リリシア嬢の顔色はもはや真っ白だ。

 ウィルディ伯爵の顔は、逆に真っ赤くなった。


「やっぱり、他にも男がいたのか!?」


 その声は、あまりにも滑稽だった。

 自分は堂々と妻を裏切っていた。

 なのに、自分が裏切られたことには傷つくのかと。

 唯一の味方を失いたくないリリシア嬢は首を振る。


「あれは優しくしていただいたお礼で、それでその……」

「だとしても、随分と宛先が多いのですね」


 私が突っ込むが、もう誰も笑わなかった。

 呆れているし、軽蔑もしている。

 そしてわかりきっていることがある。

 リリシア・モイーズ伯爵令嬢は、この夜を境に社交界から消える。

 ウィルディ伯爵もまた、ただでは済まない。

 問題はミレーヌ様のこと。


「ウィルディ伯爵夫人」


 王妃陛下に呼ばれたミレーヌ様は、騎士に支えられながら立ち上がる。


「あなたは夫に刃を向けた。その罪は認めますね」

「……はい、認めます」

「よろしい。では、あなたには一年間の社交停止を命じます。その間、実家にて療養なさい。離縁については、王家の監督のもと、あなたに不利な条件とならぬよう進めます」


 ミレーヌ様の口がぽかんと開く。


「王妃、陛下……。それは一体……」

「あなたを無罪にはできません」

「はい……」

「ですが、あなた一人に罪を押しつけることも許しません」


 その言葉に温情を感じ取ったミレーヌ様は崩れるように泣いた。

 でも今度は、さっきの屈辱と悔しさとは違う種類の涙だ。

 救われた人間の涙。

 私はそれを見て、ようやく安堵の息を吐いた。

 ミレーヌ様の傷は、すぐには癒えない。

 刃を抜いた記憶も消えない。

 社交界はまた新しい噂をするだろう。

 それでも今夜、少なくとも彼女一人だけが悪者にされることはなかった。

 私は、それだけでよかった。

 声をあげたのは正解だった。


 夜会はその後、当然ながらお開きとなった。

 ウィルディ伯爵は王宮の者に連れて行かれ、リリシア嬢も泣き叫びながら別室へ運ばれる。

 ミレーヌ様は、王妃陛下の侍女に付き添われて大広間を出ていった。

 すれ違う一瞬、ミレーヌ様が私を見た。

 泣き腫らした目で、ほんの少しだけ頭を下げてくる。

 私も頭を下げ返す。

 それだけだった。

 私たちは親友ではない。

 彼女の苦しみをすべて知っていたわけでもない。

 でも、少しだけ内情を知っていた。

 知っていたのに黙っていた。

 だから、今夜は黙っていられなかった。


 王宮を出るころには、夜風が強くなっていた。

 馬車を待つ間、ライドが私の肩に外套を掛けてくれる。


「寒いだろう」

「助かります」

「今日は怒った女性が多かったけれど、君が一番怖かった」

「それ褒めているの?」

「もちろん、褒め言葉さ。君が一番、闘っていた気がする」


 ライドは真面目な顔で頷いた。

 それから私の手を握ってくる。


「ただ、念のために聞きたい」

「どうぞ」

「僕が浮気したら、君も短剣を持つ?」


 意外な質問に少し面くらう。

 ライドは冗談のように言ったが、目は少しだけ本気だった。

 私は微笑む。


「私は持たないわ」

「ふう……それはよかった」

「まず証拠を集めるの」

「うん?」

「相手の名前、実家、手紙、贈り物、目撃証言。全部揃える」

「……うん」

「その上で王妃陛下、あなたの上司、取引先、親族、相手のご実家に順番にお知らせするかしら」

「なるほど、それは短剣より嫌だな……」


 たじたじになる夫の腕に私は手を添える。


「妻を裏切るというのは、そのくらい高くつくものですから」


 ライドは困ったように笑った。

 それから私の手を取って、手袋越しに口づける。


「なら僕は一生、君に高くつく男だと思われないようにするよ」

「期待しているわね」

「本当に怖いな」

「怖いなら、今後距離を取ってみる?」

「いや、実は頼もしいと思っている」


 そう言って、ライドは楽しそうに笑う。

 ようやく馬車が到着した。

 私たちは並んで乗り込んだ。

 窓の外では、王宮の灯りが遠ざかっていく。

 それにしても今夜は不思議な事件だった。

 普通なら、ミレーヌ様はその場で断罪されて終わるはずだった。

 でも周りはみんな、犯人である奥様を庇った。

 理由は簡単だ。

 彼女より先に裁かれるべき者が、あの夜会場にはいたから。


「あー、でも僕も優秀なのかもな」

「急にどうしたの? 妻に褒めて欲しい気分にでもなった?」

「まあね」

「いいのよ。なにを褒めればいいかしら。毎朝、私を起こさないように静かにベッドから出るところとか?」

「それもいいけど、手紙に気づかせなかった件とか」


 手紙?

 話の意図が見えなくて私は首を傾げた。

 その態度が予想通りだったのか、ライドは嬉々として話す。


「あそこにいた夫人たちは、みんな手紙を持参していた。でも君は持ってこなかった」


 持ってこないも何も、リリシア嬢からの手紙なんて私は所持していなかった。


「君があの夫人たちより劣るなんてことはない。それでも君は手紙の存在すら、知らなかった」

「……つまり、あなたにも届いていたと?」

「届いていたし直接誘われもした。僕の場合は秒で断って、手紙も破り捨てて燃やした。愛する妻に余計な心労をかけたくなくてね。優秀だろう?」

「……そういうことにしておくわね」

 

 ライドが少年のようなドヤ顔をするので、私は顔を反対側に向けて頬を緩めた。


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― 新着の感想 ―
自分の審美眼を持たない女の末路…ですかね。 人のものを欲しがって本人にマウントを取らないと、自己を確立できず良いものを持った気がしないタイプの。
たぶん王妃様の実家関係や友人関係辺りにも手紙きている人が複数いてすでに耳に入っていたのかなぁ。社交の乱れが酷くなりすぎると国の政治にも支障が出てくるからそろそろ何とかしようと思っていたのかも。渡りに船…
>あなたは夫に刃を向けた。その罪は認めますね ミレーヌが刺そうとしたのは愛人の方では? アチコチ粉かけて結局略奪女は何がしたかったのか…。
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