聖騎士は泥を啜らない
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ああ、なんてことだ。この村もまた、深淵なる闇に飲み込まれている。
私の名はアレン。主なる神より、この曇りなき眼と、至高の能力である真実の羅針盤を授かった聖騎士である。私の役目は単純だ。この羅針盤が指し示す悪を、私の聖剣で光に還すこと。ただそれだけだ。
馬の蹄が立てる乾いた音が、静まり返った村に響く。
隣で馬の手綱を引く従者のレオンが、情けないほどに顔を青ざめさせていた。彼はいい奴だが、いかんせん能力が日を灯す程度の貧弱な魔法しか使えない。本質が見えないのも無理はないことだ。
「……アレン様、本当に行くのですか。私には、ただの静かな農村に見えます。人々は怯えているようですが、それは……」
「レオン、目に見えるものに惑わされるな。私の羅針盤を見ろ。針が激しく振れている。ここは真っ黒だ」
私の視界の中、空中に浮かぶ黄金の羅針盤は、狂ったように北西の古い教会を指していた。あそこには、この村を毒している元凶――魔女がいる。
村の入り口を通りかかると、痩せこけた村人たちが、私たちを怯えた目で見つめてきた。
いや、違う。私の能力が教えてくれる。彼らの瞳の奥にあるのは恐怖ではない。あれは、魔女に精神を汚染された者が抱く、聖なる光への拒絶だ。彼らの周囲には、どす黒い霧のような魔力がねっとりとまとわりついている。
「ひっ、騎士様、どうか……どうかお助けを……食べるものが、もう何もなく……」
一人の老人が、泥に塗れた手を私に伸ばしてきた。
その瞬間、私の羅針盤が真っ赤に発火した。判定は猛毒の汚染者。この老人の血管には、すでに人間のものではない汚泥が流れているのだ。
「下がれ、この汚らわしいモノめ!」
私は反射的に聖剣の鞘で老人の手を払いのけた。老人は地面に転がり、無様に呻き声を上げる。
「アレン様! 何をなさるんですか! 彼はただの老人です! お腹を空かせて……」
レオンが馬から飛び降り、老人を抱き起こす。レオンはまだ若い。魔物の擬態がいかに精巧かを知らないのだ。
「甘いぞ、レオン。そいつの体内からは、ドロドロとした負のエネルギーが溢れ出している。放っておけば、お前まで闇に染まる。さあ、行くぞ。本丸は教会の地下だ」
私は馬を走らせた。背後で村人たちが叫んでいる。悲鳴? 違う、あれは魔物の咆哮だ。私の耳には、彼らの言葉が「グギギ……」「光を……消せ……」という呪詛に変換されて聞こえていた。
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教会への道すがら、私はいくつもの「悲劇」を目にした。
道端で泣いている子供がいた。だが羅針盤によれば、それは幼子の皮を被った吸血鬼の幼生だ。庭先で祈りを捧げている婦人がいた。だが私には、彼女が自らの指を噛み切り、その血で邪神の紋章を描いているのがはっきりと見えた。
「なんて酷い……。これほどまでに侵食が進んでいるとは」
私は胸を痛めた。私は慈悲深い男だ。できれば誰も殺したくはない。しかし、彼らはすでに魂を奪われた抜け殻なのだ。壊れた器に価値はない。新しい水を注ぐためには、一度粉々に砕かねばならないのだ。
教会の扉の前に立つ。
ここには、この村で最も濃い闇が凝縮されていた。
「レオン、準備はいいか。これから救済を始める」
「救済……。アレン様、待ってください。話し合えばわかるはずです。村長さんは病気を治してほしいと言っているだけで……」
レオンの声は震えていた。可哀想に。彼は私の背後に見える黄金のオーラが見えていないのだ。私は彼を守らねばならない。それが先輩としての、そして聖騎士としての義務だ。
私は教会の重い扉を、全力の蹴りで吹き飛ばした。
ズドォォォン! という景気のいい音と共に、埃が舞う。
そこには、一人の女がいた。
白いドレスを着て、傷ついた子供たちを介抱している。見た目は聖女のように見えるだろう。しかし、私の真実の羅針盤は嘘をつかない。
判定。深淵の魔女。
その脅威度は、この国を一つ滅ぼすに等しい。
彼女の背後には、禍々しい漆黒の翼が何枚も重なり合って生えている。その翼から滴り落ちる黒い液体が、床に伏せる子供たちの口へと流れ込んでいた。
「騎士様、止まってください! この子たちは流行病で苦しんでいるだけなのです! 私が作った薬を……」
女が叫ぶ。だが、彼女が手に持っている小瓶から立ち上るのは、癒やしの薬草などではない。それは、吸い込めば魂が腐り落ちるような、毒々しい紫色の瘴気だ。
「問答無用! 奥義、聖域の審判!」
私は光の魔法を放った。いや、それはもはや魔法というより、純粋な神の怒りの体現だ。
教会のステンドグラスが内側から弾け飛び、魔女の叫び声が響く。
「熱い! 止めて、お願い! 子供たちが……!」
魔女が炎に包まれながら私に這い寄ってくる。その姿は、醜悪な蜘蛛のように歪んで見えた。
私は聖剣を抜き放ち、一閃した。
「救済完了だ」
魔女の首が飛び、その体から溢れ出したのは――赤い血ではなかった。それは、私の目にはドロリとした黒いヘドロに見えた。それが床に広がり、周囲の子供たち(という名の魔物の雛)を飲み込んでいく。
「ああ……ああああ……!」
レオンが膝をつき、絶叫した。
「アレン様……あなたには、何が見えているんですか……。あれは、隣の村から薬を運んできた……聖職者の娘さんですよ……。子供たちは、みんな昨日から何も食べていないだけで……」
レオンは錯乱している。無理もない。魔女の死の間際の呪いを受けたのだろう。私は優しく彼の肩を叩いた。
「安心しろ、レオン。すべて終わった。この村の闇は、今私がすべて断ち切った」
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教会の地下には、食料庫と称された「生贄の貯蔵庫」があった。
そこにあった小麦粉の袋を切り裂くと、中からは黒い虫が湧き出してきた。……いや、レオンにはこれが白い粉に見えているらしい。幻覚とは恐ろしいものだ。
私は松明を掲げ、この忌まわしい場所に火を放った。
「すべてを焼き尽くし、更地にする。それが最も慈悲深い浄化の方法だ」
教会の外に出ると、村人たちが鍬や鎌を持って集まっていた。
彼らの顔は怒りに歪んでいる。いや、あれは魔導が解けかけたことによる禁断症状だ。彼らは私を殺そうと襲いかかってくる。
「アレン様、逃げましょう! もう手遅れです!」
レオンが叫ぶが、私は逃げない。聖騎士は泥を啜らないのだ。
私は剣を振るうたびに、彼らの不浄な魂が解放されていくのを感じた。
一人、また一人。
彼らが地面に倒れるたび、私の羅針盤は「清算完了」という光を放つ。
「ああ、なんと素晴らしい気分だ。救済とは、これほどまでに心を満たすものだったか」
返り血を浴びた私のマントは、返り血で真っ赤に染まっているはずだ。だが、私の目には、それが神後光を浴びて純白に輝いているようにしか見えなかった。
一刻ほど経っただろうか。
村を覆っていた不浄な気配は消え去った。
残ったのは、轟々と燃え盛る炎の音と、崩れ落ちる家々の音だけだ。
「終わったな」
私は一息つき、血の付いた剣を村人の服――いや、魔物の死骸の一部で拭った。
ふと足元を見ると、一冊の日記帳が落ちていた。
それは先ほどの魔女が持っていたものだろう。
私はそれを拾い上げ、ページをめくった。
私の目には、そこには「世界を呪う呪文」や「悪魔との契約書」がびっしりと書かれているのが見える。
だが、レオンが横から覗き込み、かすれた声でそれを読み上げた。
「……六月三日。今日も村の子供たちは元気がない。王都に救援を求めたけれど、騎士様は来てくれない。でも、隣の村のアンナさんが薬を届けてくれた。きっと、神様は見捨てていないんだわ……」
レオンの声は震え、やがて嗚咽に変わった。
「アレン様……これのどこが……どこが呪文なんですか……! これはただの日記だ! 彼女は、最後まで……!」
私はレオンの肩を抱き寄せ、優しく諭した。
「レオン、認知の歪みは怖いな。魔女の魔力は死してなお、お前の正気を蝕んでいる。そこに書かれているのは、赤子を贄に捧げる手順だ。ほら、よく見てみろ。文字がうごめいているだろう?」
レオンは私の顔を見て、ヒッ、と短い悲鳴を上げた。
彼は這うようにして私から距離を取り、そのまま森の奥へと走り去ってしまった。
「レオン! どこへ行く! まだ浄化が終わっていないぞ!」
呼びかけたが、返事はない。
やれやれ、彼もまた、闇に当てられてしまったか。後で連れ戻して、教会の地下で聖水を浴びせてやらねばなるまい。
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私は一人、燃える村の中央に立っていた。
ふと、自分のステータスを確認したくなった。
聖騎士にのみ許された特権。神から与えられた己の立ち位置を確認する行為だ。
私は空中に指を走らせ、不可視の画面を呼び出す。
そこには、私にしか見えない黄金の文字が躍っていた。
固有能力:真実の羅針盤
効果:使用者の主観的な願望を、絶対的な真実として視覚化する。殺害対象を「悪」と認識させることで、精神的負荷をゼロにする。
称号:狂信的な虐殺者
現在の正気度:ゼロパーセント
私はそれを見て、満足げに頷いた。
「やはりな。私の正気度は満点だ。完璧に澄み渡っているということだろう」
読み間違いではない。私にとって、ゼロとは「一点の曇りもない無垢な状態」を意味する。
そして「虐殺者」という称号もそうだ。これは「悪を根絶やしにする者」という最大の賛辞に他ならない。
私は馬に跨り、次の目的地へと目を向けた。
羅針盤の針は、すでに北を指している。あちらには、この国で最も栄華を極めた王都がある。
「王都か……。あそこには、贅を尽くし、民の苦しみを顧みない『悪』が山ほどいるに違いない。よし、レオンを回収したら、次に向かうとしよう」
私は懐から一枚の鏡を取り出し、自分の顔を映してみた。
鏡の中の私は、後光に包まれた気高い聖騎士の姿……のはずだった。
だが、一瞬だけ。
ほんの一瞬だけ、鏡の中に映ったのは――。
顔半分が焼け爛れ、目が血走った、狂った獣のような男の姿。
周囲に積み上がった死体の山を「美しい花畑」だと思い込み、泥水を「聖なる酒」だと言って啜る、救いようのない怪物の姿。
私は笑って鏡を仕舞った。
「鏡まで魔女に呪われていたか。やれやれ、これだから闇の眷属は困る」
私は馬の腹を蹴った。
背後で、かつて村だった場所が大きな音を立てて崩れ落ちる。
煙は空高く舞い上がり、まるで天へと昇る祈りのように見えた。
私は聖騎士アレン。
この狂った世界で唯一、真実を見ることができる選ばれし者。
「さあ、行こう。次の救済が私を待っている」
馬の蹄音は軽やかだった。
私の歌う讃美歌が、死の静寂に包まれた森に、いつまでも、いつまでも響き渡っていた。
(完)
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