第7話 今川義元、起つ
「おのれ、おのれ、おのれー!」
今川家の屋敷の奥から怒声が響き渡る。
信長の三河への強襲の報を聞いた義元は悔しさを露わにする。
すだれの奥におり、表情をうかがい知ることは出来ない。
しかし、仕草から苛立ちを隠せていないことが側近にもわかった。
「殿、いかがいたしましょうか?」
怒りでピリピリする空気の中、側近の雪斎は義元にお伺いをたてる。
「このままではすまさん。
上洛の準備を急がせよ。
その途中であいつから、尾張を奪う。
この俺が直々に捻りつぶしてあげるわ」
「はっ。
それでは、準備に取り掛かります」
雪斎は義元の部屋からそそくさと出ていき準備を始めた。
その後も義元は怒りが収まらず。いつまでも憤っているのだった。
――――
一方そのころ、兵衛たちの部隊はと言うと……
いったん、砦防衛の任務から離れていた。
またすぐに招集がかかることを前提に、各々で好きに過ごしていいとのことだった。
兵衛は特にやることが思いつかず、家でのんびりと過ごしていた。
覇洵はと言うと、信長の言葉を思い出していた。
『あいつとは誰の事だ……
面目?
なんのことだ』
独りで考えているようだったが、兵衛にはその声が筒抜けだった。
「のぅ、覇洵様。
あの時、御屋形様と何を話されたんじゃ?」
『お前は聞こえてなかったのか?
まぁ、大したことじゃない』
あの場で兵衛は起きかけていたため、聞こえているものと思っていた覇洵。
どうやら、兵衛はしっかりと信長が言ったことは聞こえていなかったらしい。
それなら、覇洵は胸の内に留めておこうと思っていた。
「そうだとしても……
あの場はワシの恰好でおったんだからのぅ。
なんか御屋形様に粗相をしておったらと思うと気が気でなくて……」
兵衛は何を話したかより、信長への態度、接し方が良くなかったのではとの疑念があった。
覇洵の態度なら信長の逆鱗に触れかねないと思っていた。
『大丈夫だよ。
あいつはオレだということは分かってるようだった。
何を言おうと、お前のせいにはならんよ』
覇洵は信長の口ぶりからして、神憑きだとわかっているのかもしれない。
そうでなければあの場で首を撥ねようとするだろう。
「そういうものかのぅ。
急に呼び出されて、打首にでもならなければいいがのぅ」
『そんな、心配しすぎだって』
兵衛も覇洵は神様だし、態度も言葉も大きくても仕方ないとは思っていた。
ただ、兵衛の体を使っていることで、周りに変な誤解を招くのではないかと心配していた。
「ワシと覇洵様が違うと御屋形様が認識されておられるならいいのですが……」
――
しばしの休息ののち、再度信長からの招集がかかった。
どうやら義元が上洛に向けて尾張に兵を向けているとのことだった。
織田家では連日軍議が開かれるものの、信長は具体的な策を話さなかった。
家臣から籠城の進言もあったが、取り合わなかった。
一方、義元は一歩一歩着実に進軍をする。
大軍を率いて駿府城をたち、沓掛城へ入った。
そして一息つく間もなく、次の指示を出していた。
「元康と泰朝を呼べ」
「はっ」
しばらくすると、二人が甲冑姿のまま義元の下へ来た。
義元の前に来ると座り、深くお辞儀をする。
「お呼びでしょうか、殿」
二人が顔をあげ、義元の顔を伺おうとする。
しかし、相変わらず義元の姿はすだれの奥にある。
「うむ。
二人には先陣を切ってもらう。
泰朝は鷲津砦を、元康には丸根砦を落としてまいれ」
淡々とした口調で二人に指示をだす。
「はっ」
さらに深くお辞儀をした二人は、さっと立ち上がり部屋を出ていった。
「待っていないさい、信長の奴め
あたいが、直々に見定めてやる。
ハッハッハッハッハッハッハッ」
すだれの奥で高笑いをする義元の甲高い声が外まで響いた。
「なぁ、元康。
殿はずっと姿を見せないな」
「そうですね。
移動中もずっと籠の中ですし、城の中でもすだれの奥のまま。
なぜ姿を隠されているのか、よくわからないですな」
義元の笑い声を外で聞いた元康と泰朝は首を捻りつつも、砦への出陣の準備に向かっていった。
数日後――
相変わらず織田家は軍議を開いているものの、信長は一向に動こうとはしない。
家臣からの進言を待っているようであり、興味もないようにも見えた。
家臣も動かない信長を見て半ば諦めているものと考えていた。
その頃、兵衛たちはと言うと……
戦の準備をしてはいるものの、声がかからずヤキモキしていた。
ただヤキモキしていたのは覇洵の方だった。
『あいつ、全然動かないな。
義元って奴が、大軍を率いてこっちに来ているってのに』
「そうですな。
だいぶ前にお呼びがかかったのですがの。
待機と言って城の前でどのくらいが経ちますかの」
『あいつも決めかねているのかもな。
なら、オレも軍議へ参加するぞ。
兵衛、行くぞ!』
「いや、ワシらは呼ばれておりませんから」
『大人しくなっていられるか!』
「覇洵様の気持ちもよくわかりますが、ここは待ちましょう」
意識を飛ばさぬように、入れ替わらぬようにと必死になる兵衛だった。
そこからさらに数日が経った。
連日の軍議も何も決まらないことへのいらだちがあり、家臣たちも意欲が削がれていた。
信長は変わらず家臣のあれやこれやの議論だけを聞いていた。
家臣の意見がまとまりかけたかと思うと、一言でひっくり返す。
結局何も決まらずに時だけが過ぎていった。
翌日--
明け方に信長の下に一報が入った。
「御屋形様!
丸根砦、鷲津砦の両砦が今川軍に攻撃されているとのことです」
伝令が息を切らし、状況を伝える。
信長は報せを聞くなり、唇の端を吊り上げた。
ぞくりと背筋を走る快感を噛み締めるように、静かに笑い出した。
「くっくっくっくっくっ」
織田軍は今川軍の攻勢に必死に抵抗しているようだが、そう長くも持つまい。
義元を怒らせたのだ。
でも義元の本気と戦えると思うと信長は笑いが止まらなくなった。
「はっはっはっはっは」
大きな声で笑った後に、大声で叫ぶ。
「時は来た!
今から出陣じゃ!」
その報を聞いた兵衛たちの部隊も急いで、戦への準備を進めた。
そして闇が白に変わる頃、城を手勢と共に出立した。
今回は兵衛たちの部隊も信長の部隊と一緒に行動することになった。
「御屋形様直々の部隊の近くにいるなんて……
ワシは天にも上る気持ちじゃ」
『ふん。
信長なぞ、オレにかかれば赤子も当然。
俺がお前に憑いていることの方が名誉だぞ』
「そうですな。
覇洵様のそばにいられることも、誠に嬉しい限りですわ」
『そうだろ、そうだろ』
近くと言っても信長がすぐそこにいる訳ではない。
兵衛たちの部隊はその前方、所謂先陣を任されていた。
『それにしても信長の野郎、後ろでふんぞり返っての出陣か。
前線に来てこそ大将ってもんだろうが』
自分たちの扱いの差に覇洵は憤っている。
「でも、それは当たり前のことじゃがの。
ワシらは足軽風情ですから、前線で体張らねば。
御屋形様はそれを指示する立場ですからの」
『俺は神だっていうの』
「それは誰も信じませんからの」
覇洵はグチグチと文句を言うも、兵衛はそれを程よく聞き流しながら、進軍をしていた。
そして、熱田神宮に辿りついた織田の軍勢は、そこで一休みをとることになった。
休息をしていると
「おい、兵衛
なんだか御屋形様が話があるとのことだ。
行ってまいれ」
「はい。承知しました」
信長の下へ向かう途中、兵衛は
「何か悪いことでもしたかの」
とびくびくしていた。
覇洵は
『たぶん、オレのことを呼んだんだよ。
お前のことじゃねえよ』
と意気揚々にしていた。
そして、信長の前に到着し、膝まづく。
「ワシに何か御用でしょうか?」
信長は兵衛の顔を見るとニヤリと笑いつつ、周囲の人払いを命じた。
「さてと、ここは堅苦しいことは止めして……
おい、兵衛とやら。
ではなくて、憑いている者よ。
お前に話がある」
信長は鋭い眼光で兵衛を見やり、今にも殺しそうな殺気を放っていた。
「ひぃっ……」
兵衛の背筋を、冷たい何かが這い上がっていく。
信長の眼は、まるで心の奥底まで見透かすようだった。
『……これは、冗談じゃねえな』
と呟いた覇洵の声に、普段にはない静謐な力が宿っていた。