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Issue#02 I UNDERTALE CHAPTER 2

https://www.pixiv.net/novel/show.php?id=25490740(本家)

https://www.pixiv.net/novel/show.php?id=24843658(4,5p目にキャラクターのコンセプトアートあり)

https://www.pixiv.net/artworks/132158061(さなの顔 別のキャラだけど大体これ)

CHAPTER 2



日本と北朝鮮の突発的な軍事危機は、数日間にわたる混乱ののち、ひとまず終息へと向かった。

きっかけは、北朝鮮のキョン将軍が極秘裏に日本へ亡命し、記者会見で今回の一連の事態――空縁州へのミサイル着弾の真相や、

その背後で暗躍していた超常的存在、すなわち「シャカゾンビ」の関与――を証言したことにあった。

加えて、中国政府が迅速に和平仲介へと乗り出し、3者間の停戦交渉が実現したことで、大規模な衝突は最悪の段階を回避したのである。


世論は当初、戦後の日本にもたらされた未曾有の混乱と並行して、

ヒーロー「オールラウンダー」の縁者である吉濱家の少女たちによる戦闘介入、

および潜水艦発射型核ミサイルによるEMP高高度爆発という彼女たちの“独断”について、賛否が真っ二つに割れた。


国会審議やメディアの討論番組では、

「民間人による武力介入の是非」「それは正当防衛か越権行為か」「EMPがもたらした甚大な被害」などが連日取り上げられ、激論が交わされた。


事実、EMPはきわめて大規模な電子障害を引き起こした。日本海沿岸の各都市ではインフラが一時的に麻痺し、

交通管制・電力供給・通信・金融システムのダウンで数100万人規模に影響が出た。

また中国沿岸部や朝鮮半島の港湾・軍港施設も軒並み機能不全に陥り、民間・商業・軍事合わせてその被害額は日本国内だけで推定5兆円以上、

完全復旧には半年から1年を要するとの見通しも発表された。


しかし、防衛省や公安による内部調査が進むうち、従来から「シャカゾンビ」の脅威を単なる過去の産物扱いし、

最新の諜報情報すら現場に共有していなかった組織の杜撰さが明るみに出ていった。さらに、

事件直前に「オールラウンダー」が防衛省に対し行った危機警告に対する、事務次官の高圧的な対応――「民間人が国家安全保障に口出しするな」と一蹴した一連のやり取り――が、

関係者のリークによってSNS上で瞬く間に拡散され、世論は急速に、吉濱家側へと同情的に傾いていった。


もし、これが世界で初めての「超人介入事件」であったなら、事態の帰結は全く別のものになっただろう。

しかし、既にヒーローの慈善活動やヴィランによる大規模破壊行為が繰り返し報道されているこの時代、

国民の多くは「非常時の越権行為」をある種の現実感として受け入れつつあった。


最終的に、少女たちは数日間の身柄拘束の末に釈放され、これまでの軋轢も、大統領直々の吉濱家への表敬訪問という形で公式な和解へと昇華された。この一連の経過は、政府の公式発表としては「超法規的措置下での事情聴取および安全確保のための一時隔離」と説明された。吉濱家の面々は、事態の解決にあたっての"民間の特別協力者"として以後待遇され、無事社会復帰を果たすこととなった。


そして、ある日の朝……。


冬縛うぃんたーほーるど女子学園、高等部。その教室は、凛とした10月の光で満たされている。

アシュリーは自席に腰を下ろしており、そこに、登校してきたクラスメイトたちが輪を描くように集まった姿はさながら、

彼女を中心に咲き誇るにぎやかな花束のような光景だった。


手にしていたスマートフォンは横に構えられ、画面にはおとといのインタビュー映像が再生されている。


「……予想よりずっといいとこだったよ。ぶっちゃけホテルだった。最初は臭い飯か、バリカンで坊主か、ってビビってたけど、

ま、ワンちゃんが予防接種に連れてかれる時みたいな絶望感はなかったな。

刑務官にケツ見せて『はい次!』ってなるとか、マグショットでバッチリ決めるとか、そういう“お約束”がなかったのがちょっと寂しいくらい。

次おんなじ理由で捕まるヤツには、その辺のエンタメ要素も追加してくれるといいかもな!」


再生の終わりを見届けると、アシュリーはさりげなく、画面に映る「高評価」のボタンをひと押しした。

その瞬間、教室の後方で、動画の余韻に乗った美しい女子たちが一斉に沸き立ち、歓声を上げる。


「アシュリー、この時すごく堂々としてた!」

「コメントが絶妙すぎて鳥肌立ったわ……!」

「どんな質問にもブレてなかったし、マジでカッコよかった!」


「なあ、見たことあるか?人間のこんな晴れ晴れした顔。すばらしいだろ?まるで国宝だ」

その歓声の中心で、アシュリーは調子よく問いかける。


「え? それ、けっこう毎日してない?」

「嘘だろ? それならこの学校、世界遺産でいいって話になるんだけど」

いつもなら流されてしまいそうな彼女のキザな一言にも、今日は自然と笑い声と拍手が湧き上がった。


ふと気づけば、もともとの取り巻きだけでなく、登校してきたばかりの同級生たちも次々と声をかけてくる。


「……お疲れさま!」

「ニュース見てたよ、艦載カメラの映像!あーれ、すぅ~~~っごかった!」

「やっぱりアシュリーはアシュリーだったね!」


興奮を隠せぬまま駆け寄ってくる声の中には、冗談とも本気ともつかぬ、こんな問いかけも混じっていた。

「今もミサイル落とせる?」


そのときは、アシュリーも肩の力を抜いて、気さくに笑う。

「うーん、それはおとといのあそこで聞いてほしかったな。まあ、用意してくれたら」


「……うちらはずっと応援してたから!」

「ほんと大変だったね……でも、最後までカッコよかった!」


普段はあまり話しかけてこないような子ですら、心からのねぎらいの言葉を贈ってくる。

その響きはすべて顔なじみからのもののはずなのに――この朝ばかりは、アシュリーの耳にどこか新鮮で、柔らかな音色として届いた。


思わず顔が熱くなってきて、赤毛の少女はくすぐったそうに笑う。


「なに、やれることをやっただけだよ」

照れ隠しのようにそう口にすると、教室の窓外、遠くかすむ青空をどこか満足げに見上げた。


そんなところに……。


「……”オッさん”来てるよ!」

と、クラスメイトの1人が、アシュリーに声をかけた。


「なんだよ、せっかく全員まとめてアフターまで行けそうなムードだったのに……」


集団のひとりにそっと背を押され、アシュリーはしぶしぶ歩き出す。

教室のドアの向こうには、つい先ほど、ほとんど全校共通となっているあだ名で呼ばれた人物――おせち――が半身を覗かせていた。


カボチャみたいなふくらみを持つ髪型と、丸みを帯びた顔のきっちり半分。そしてドア枠にそっと添えられた手。

廊下から差し込む光を背に、その姿には薄く、まるで鬼嫁が嫉心を含ませて立つかのような影が落ちていた。


──一方そのころ。別の教室。


さなにとって、カードゲームはたしかに第1の趣味ではあった。だが、それは彼女の全存在を賭けられるような没入対象ではなかった。


なぜなら、彼女には予知能力があるからだ。


人と対戦するとき、さなはその力を極力封じ、「常人のプレイヤー」として勝負に臨むよう心がけている。

だが、意識的に力を抑えるという行為は、結局のところ「手加減をした状態」に他ならない。

それが、はたして本当にスポーツマンシップに則った「正々堂々」と言えるのか、

そうした根源的なジレンマが、彼女のような超人の場合、いつも心の底にくすぶることになるのだ。


さらに厄介なのは、対戦相手やギャラリーが、さなの能力の存在を知っている場合だ。

能力を封じて勝ち敗けを繰り返していても、周囲には疑念が生じる。


「本当に楽しんでいるのか?」

「結果を操作してるんじゃないか?」

「結局負けそうになったら能力を解禁するのでは?」


そんな空気が、いつしかじわじわと場の端々に滲んでくる。

そうした懸念が積もるにつれ、カードゲームは次第に、彼女にとって素直に熱中できない遊びと化していった。


だが――そんな彼女の思いを理解してくれる存在もいた。


クラスメイトのハヤカワ・シノという少女。市内にあるTCGショップ《シャカパチ堂》のオーナーの娘で、

彼女はいつも、さなの心がけに敬意を払ってくれる。そして、まったく変わらぬ笑顔で、楽しくカードをめくってくれる。


彼女のお団子ヘア――姫カットにされたその前髪には独特の癖があり、右から左へと一定の傾斜を描いてななめに落ちていく。

首筋まで流れる鬢の毛と、ひと続きになった前髪の全体像を正面から見ると、輪郭はまるで彫刻刀の斜刀を思わせる鋭角的な形をなしている。


眉はややみじかく整えられ、額の左寄りにかかる髪に半ば隠されたその得意げな眼差しは、眉幅とちょうど同じくらいの大きさをしており、そこに、

厚めにしなだれかかったまつ毛とつぶらなピンクの虹彩が宿っている。

髪は青黒く、艶めいた光沢を湛えており、ところどころオレンジのメッシュが入っている。その内側には、どこか南洋の海を思わせる澄んだ水色が明々と冴え返っている。


体つきは、手足のすらりとした長さをのぞけば全体に華奢で小ぶりなものだ。均整の取れた線は、繊細さと軽やかさを併せ持っていた。


「……『ツンドラのチンパンジー』に『双頭グレイブ』をアタッチ。フェイス取りま~す!」

さなが、実に小慣れた様子で、カードを繰り出しながら、一連の用語を重ねていくと、


「残念、壊せま~す!『接収令』、はいドーン!」

かくもギャルっぽい見た目ではあるが、内面はあくまでオタクの王道を行く女子ハヤカワは、まったく同じ調子で、そう返す。


「……あっ、それ、私の構成にピン刺ししてるってこと!? 採用率低いカードでメタるのずるくない?」

「メタってませ~ん! “双グレ”は昨日の拡張でコンボ始動のキーになったから、今その対策の試運転なんで~す!

あっそうか!サーニャはこないだまでお勤めだったからまだ買えてないか~!……か~っ!」

扇のように手札を広げたまま、もう片方の手で額を押さえ、シノはわざとらしく唸ってみせた。


ゲームがひと段落し、

「……今日予約したボックス引き取りに行くから、それでわたしも新環境ばっちりだし!」

すこしムキになってさなが言うと、


「あっ、それ――」

シノは急に声色を変える。

「ん?」


さなの疑問の声が、教室の空気に溶けきるのを見計らって、シノは「ちょっと待ってて」と悪戯っぽく笑う。

彼女は、膝上に置いたスポーツタイプのスクールバッグを手繰り寄せた。

その動きに合わせて、ミニスカートのチェック柄が自然と布地ごと引き寄せられ、

白い太ももの素肌が、付け根近くまで露出する――けれど、彼女はそれに頓着することなく、

バッグを腹部まで抱え上げると、あらたまった手つきでジッパーに指をかけ、静かに開いていった。教科書や

ティーンズ向けのコスメがひしめく、いかにも女子高生らしい混沌の中から、彼女は比較的大ぶりな箱をひとつ取り出し、机の上にすっと差しだしてみせた。


「――」


さなは息をのむ。その箱には、《クロスゲート・レジェンズ》――この世界で今、最も熱を帯びているトレーディングカードゲームのタイトルロゴが、

燦然たる箔押しで刻まれており、

しかもそれは、《黎明のインヴォーク》つまり最新弾エキスパンションの、まだ封も切られていないボックスだった。


「……これ、プレゼント」

シノはふたたび言葉を切り出した。

「何の?」

「世界を救ってもらったお礼、かな。……えっと、案外、引っかからずに言えちゃったね。『世界救う』なんてさ、そんなこと、初めて言ったのに」

「私も、初めて聞いた――」


そのすこしだけ気恥ずかしいやり取りの間を経て、


「――でも……いや、だったらさ、これはやっぱり受け取れないよ。安心して、今日ちゃんとお店まで買いに行くから」

さなは、心からの笑顔で首を横に振った。その態度には、やさしさと共に、揺るぎない芯が通っていた。


「だーめ! それじゃ私の気が済まないの!」

すると、シノはむくれるように唇を尖らせる。

「対価がほしくてやったわけじゃないから。本当に、ありがと」


「……そう言うと思ってたよ」

シノはふっと息を吐くと、今度はさなの目をまっすぐに見つめた。その瞳には、いつもの冗談めかした光はなく、真剣

な色が浮かんでいる。


「これね、お店のじゃなくて、私のお小遣いで買ったの。……アシュがインタビューで言ってたでしょ。

『できるかもしれない人が、やれることをやっただけ』って。だったら、私も同じだよ。『ありがとう』って気持ちを、

サーニャに1番伝えられそうな人が、それをやればいいと思ったの……」


「……もし、それでも気持ちの上で受け取れないって言うなら……これは、こんな変な私といつも遊んでくれることとか、

そういう普段の感謝を込めた個人的なプレゼント。……それでもダメなら、もう、カレシからのプレゼントってことでヨロシク!」


途端にシノはぎゅっと目を閉じ、あとはもう天にすべてを委ねるような心持ちで、ボックスをさらにぐいとさなの前へ突き出した。


感情の起伏と、言葉にこめられた熱に振り回されて、めまぐるしく変わる友の表情を、いつの間にかさなは、まるで発表会の舞台を見守る親のように、

じんわりとした真摯なまなざしで見透かすようになっていた。

嘘偽りのない真心と友情を、どうにかして齟齬なく伝えようと、あくせく努力するこの生き物のことが、なんだか、たまらなく愛おしく思えてきたのである。

そして、根気よく注がれつづける喜悦の湯は、どんな説得にも動くつもりはなかった孤高の氷塊さえ、いつか必ず動かす力を持っていた。


「シノっぴ――」

気づけば、口も身体も、もう勝手に動いていた。


「――」


「――ありがとっ!」

さなは机越しに身を乗り出し、ほとんど飛びつくようにしてシノに抱きついていた。

「ありがと!」と持ち前の幼い声で何度も繰り返しながら、その柔らかな頬に、潰れるほど頬を押しつける。


「……サンキュー!カレピ爆誕~!」

「へいへい、お安いご用よ、カノジョさん!」

シノは照れくさそうに、それでもしっかりと抱きしめ返してくれた。

まるで香りを確かめるように、さなの白い髪にしっかり、ぽつんとした小ぶりの鼻先を寄せる。


「……あっ、でも、予約してる分はちゃんと買いに行くからね!」

すこしだけ顔を離して、さなは淡くうるんだ瞳で念を押した。

「あはは、それはもちろん!シャカパチ堂を毎度ごひいきに~♪」

シノが照れ隠し気味のセールストーンで返したその瞬間、

ふたりのあいだに、からりと明るい笑い声が咲いた。


しかしややあって、

「うーん……」

さなはふいに目線を天井へ向け、口をきゅっとへの字に曲げて顎に指を当て、考え込むような仕草をみせる。


「ん、どした~?気ぃ変わったのはナシね?」

シノが笑いながら首を傾げる。


だが、次に返ってきたのはすこしだけ真面目な声の、思いもよらぬ答えだった。

「カレピってさ……」

「うん?」


「それ浮気になっちゃってシノっぴに悪いかも。よく考えたらもう3人いるし」


「えっ……」

1拍おいて、シノは絶句したように目を丸くする。ほんの短い沈黙――しかしそれは驚きと同時に、「さなの”天然”がまたきたか」という

慣れの混じった反応でもあった。


「……あの3人のこと?」

シノは半分呆れながらも、それ以上つっこまず、わざと軽い声で聞き返す。


「うん!」

さなは、屈託のない満面の笑みで即答した。


なら納得――といった安堵の色を顔に浮かべながら、

「ああ、たしかにそれならもう先約だわ。んでもさ、だったらカノジョはいいでしょ?そっちはフリーっしょぉ~?」

シノは肩をすくめ、冗談めかした顔を作りながらも、猫撫でする声の中に、恋文の端のたまらずねじれる筆跡のようにどこか真剣な力を忍ばせていた。

それは、いま得たばかりの特別な承認によって――それが、たとえじゃれ合いの最中に出たものであろうと――嘘偽りなく

ほころんでしまった自分の心を、どうにかしてそのままの形で綺麗に保存しておきたいと思う、いかにも乙女らしい願望から発せられた工夫の声だった。


するとさなは、一瞬だけきょとんとしてから、

「問題なーし!」

顔を太陽のように緩ませた。


あくまで、2人のあいだに流れるこの空気は、幾度となく交わしてきたやりとりの積み重ねがつくる、成熟したリズムの上にあった。

だからこそ、主としてはさなの天然ボケによって、歯切れが悪く終わりがちになる掛け合いさえ、

いずれ必ず笑いに変わることを、ふたりはよく知っていた。


……まさにそうした時、さなは、すでに集まっていた2人の”カレピ”に声をかけられ――


そしてはちるは、クラス中を包む凱旋ムードに乗せられ、片腕ずつでクラスメイトをひょいと軽々と担ぎ上げるパフォーマンスを披露し、

周囲から盛大な拍手と、花の雨が降るかのような祝福を浴びていた、そのそばから3人の姉妹に呼び出され、


やがて4人は、連れ立って屋上へと向かうことになった。


屋上へと通じる階段の踊り場には、夜の余韻の静謐が色濃くたたずんでいた。

柔らかな陽光が、最上階の石床にゆるやかな縁を描き、その先、塔屋の壁に嵌め込まれた四角いガラス越しには、

日の出以来まったく揺らぐことのない、どこまでも透徹した蒼天が広がっていた。


扉が押し開かれ、4人は順に屋上へと歩み出た。

無人のその空間には、風が一定の速度で巡り続けており、朝露の匂いと、遠く運動場から届く声が、

ほどよい成分となってそこには溶け込んでいた。


吉濱家の少女たちは、たがいに言葉を交わさぬまま、屋上中央の開けた一角に向かい合って立つ。

チェックのリボンにプリーツスカート、黒のブレザーといった、慎みと愛らしさを適度に織り交ぜた名門校の制服の裾を、

かすかな風が撫でていく。


校舎の下からは、なごやかな喧騒が細く立ち上り、静けさの輪郭をやんわりと包んでいた。


この場所に集った4人のあいだには、語らずとも通じ合う、静かな連帯の気配が漂っている。

それぞれの胸の奥に、この朝を迎えるまでに味わった、ごくささやかで、けれども確かな「痛み」が、ずっと横たわっていたからだ。


「やっぱ――あの話だよな?」

最初に口を開いたのは、アシュリーだった。


その問いかけに、さながすぐさま応じる。

「うん……」


はちるは言葉を返さず、ただ小さくうなずいた。

おせちもまた沈黙のまま、視線を合わせて応じ、髪を風にたゆたわせている。


しばらくのあいだ、場を満たしていたのは、ただ風の通り抜ける音だけだった。

やがて、その風がにわかに速度を増すとき、4人のあいだには、目に見えぬ呼吸の変化が生まれた。

そのごく軽い高まりは、沈黙の奥に潜む意志の、吐露されるべき刻限を、明確に告げていた。


「よし、じゃあ――」


……前日の光景を、おせちはいまでも鮮明に思い起こせる。


学校から帰宅し、靴を脱いで板張りの廊下を進んでいたその日。

ふだんは生活の気配すら希薄な、屋敷の奥棟のほうから、何者かの気配がほのかに漂ってきた。

外廊下を、招かれた家のように気を付けて渡っていくと、うすく開いた障子越しに、黄昏の光が床へ斜めに差す部屋があり、

そこから、背広を着た男がひとり、足早に立ち去っていくのが見えた。


おせちは、すれ違いざまにその男と目を合わせ、ごく浅く頭を下げた。

男もまた無言で応じると、歩を玄関のほうへと向けかけたが、

なぜかそのまま屋敷を出ることなく、縁側の柱の陰に身を寄せて立ち止まり、

絢爛たる外庭の池を、気まずげで、取り付く島もない面持ちのまま、

じっと、長いあいだ見つめ続けた。


庭園の池には、すでに夜間照明が行き渡り、風に誘われたさざ波の音が、夕と宵の狭間にある独特の静けさに

絶え間なく溶け込んでいる。

水面に映る彼の影は、その胸中の揺らぎまでも余すことなく映し取るかのように、右へ左へと、とめどなく揺れ続けていた。


この、やたらきちんとした格好の男性の態度に一抹の違和感を覚えつつ、おせちは夕映えに照らされた部屋の中へと歩を進めた。


……そこは応接間であり、書院造の風格がしずかに漂う、整頓の効いた空間だった。壁際には控えめな床の間と品ある違い棚が据えられ、

牧谿の真筆たる掛け軸が、長く伸びる陰影を畳の上にはっきりと落としている。そのかたわらには、

宋代の水墨に見られるような柔和で余情を含んだ筆致とお似合いの、品のいい花々が、画の婦人のごとき佇まいで活けられていた。


精緻な組子障子から射す淡色の光は、その意匠に沿って畳に模様を描き、

部屋の中央には、磨き上げられた黒檀の文机が、どっかりと据え置かれている。

開け放たれた縁側から吹き込む風が、畳の香をすくい上げながら、ゆるやかに室内を巡っていた。


その座卓の、入って左手にあたる場所に母の吉濱尊が正座しており、両手で包み込んだ湯呑を口に運んでいた。

片眼だけを開いたその幼い顔が、立ち尽くす娘をじっと見つめている。


「外の人は?」

と、おせちが口を開く。


尊は湯呑を静かに卓へ戻し、視線を背後の花器へと移す。その仕草に揺らぎはなく、

「外務省の方じゃ」

続く声音にも一切の波がない。


「なんで追い出したの?」

おせちは、尊の正面へと進み出て、右手で体を支える横座りになりながら、机の縁に、反対の手を猫の手にして掛け、まっすぐに母の顔を見つめた。


「仕事の依頼などという不届きなモノをお前たちに持ってきたからじゃ」


「それは……多分、簡単な内容じゃないと思うけど、別に受けてもいいんじゃないの?」

おせちは声を抑えながらも、まっすぐに尊へ問いかける。


すると尊は、わずかに目を見開き、意外そうに身を乗り出して応じた。

「おせち、お前のような口の達者なやつがわからんか?これはな、将来有望な芽の囲い込みよ。

先日の1件で縁が生まれたことによってな、向こうはお前たちを、すこしずつ慣れさせていくつもりなんじゃ」


「……慣れさせる?何に?」

おせちは眉根を寄せ、問い返す。


「……政府公認のヒーローという立場よ。

そういう言葉は聞こえはいいがな、そんなもの、政治家にいいように使われるヤクザと本質は何も変わらぬ!」


尊の声音は、縁側の照明が本格的に白い羽根を伸ばしはじめるなか、

濃くなっていく夜の気配とともに、池の水音の底へと険しく染み込んでいった。


そして――。


居住まいを、芝居めくほどきちんと正した尊は、いよいよ厳然たる口調で、娘に訓を垂れていく。


「よいか、おせち。超人というものは、自分の特別な力で世の中を直接動かそうなどとけして考えてはならん。

その力は、人々が己の意志で決断することを“補ける”ため――あるいは、社会が破綻の瀬戸際にあるときに、

かろうじてその崩壊を食い止めるためだけに用いるものじゃ。


それ以外のことは、おしなべて世間様の判断に委ねよ。


……さもなくば、その強大な力は、あまりにもたやすく、この世界を支配する手段へと転じてしまう。


つまり――超人というのはな、ただそうであるというだけで、『1票の権利を持つただの市民』よりも大きな立場でまつりごとに関わるべきではないのじゃ。

これは基本的な心構えとして覚えておくがよい。

そしてな、政府から頼みごとをされるなどという状況は、まさにその原則を崩す最悪の1歩目。悪魔の誘いっ……!


いっぺんでもその気持ちよさを味わってしまえば――あとはもう、ズブズブのズブになるぞ!!」


一家の長のまなざしには、過去にその末路を目撃してきた者の静かな恐れが浮かんでいた。


熱弁を真摯に受け止めて、しばらく沈黙しおせちだったが、やがて言葉を選ぶように、低い声でこう返す。

「でももう来ちゃった話だよ。1回だけなら……向こうもこっちを頼ってるんだし」


すなわち、おせちは最後まで義侠の念を捨てきれなかったのである。


「ダメじゃ。1度でも前例を作れば、むこうはそれを突破口にする。

正式な契約を交わす前なら依頼を受ける義理などないし、どんな時でも、

請け負う側には断る権利があるのじゃ。――とにかく、そういう甘い顔をしては絶対にいかん!」

尊は即座に言葉を挟み、きっぱりとその思いを跳ねのけた。


するとその時、

「……横暴だ!我々には自決権がある!」

応接間を満たしていた、車が長いトンネルを抜けるあいだのような圧迫感を破るようにして

奥の襖が勢いよく引き払われる。


戸口に立っていたのは、可憐さを強調した意匠が、本人の風格とはやや不釣り合いなようにも見えるブレザー制服の裾をわずかに乱したアシュリーだった。

彼女は一瞬の迷いも見せず、毅然とした足取りでその場に踏み入ってくる。


そのすぐ後ろからは、同じ制服をパンフレットのモデル以上に端正に着こなしたさなが顔を覗かせ、

「そーだそーだ!」

と、遠慮がちに拳を掲げながら声を重ねた。


「お前たち……!」

尊は思わず息を呑み、その場の空気が一瞬にして張り詰めた。


そこへさらに、はちるが例の役人を連れて姿を現すと、室内の緊張はさらに一段階高まることになる。


「……ママ、この人、まだ何か言いたいことがあるみたいだよ?」


役人は、はちるにうながされるまま、座布団の上におずおずと膝をつき直し、

両手を揃えて膝上に置くと、一同を見渡した。

机の下、緊張のあまり握られた拳がかすかに震えているのが、その所作からも明らかだった。


吉濱尊は、娘たちの存在をひとまず黙殺するように湯呑に口をつけ、しばし無言の間を置いてから、

「申し訳ありませんが、今宵はこれにてお引き取り願います。

わしは大事な娘が不当な理由で何日も拘束されたこともあって、ただでさえ気が立っております。

もはやそちらご公儀と関わる気持ちは、露ほどもございませぬ」

と、毅然たる声音で告げた。


役人は、萎縮した面持ちのまま、なぜかポケットからマグロの寿司を直に取り出し、

ひと口でそのまま口に運んだ。室内には、酢飯と魚の香りが、ほのかに漂いはじめていた。


「あの……ご無礼を承知のうえで、しばらくお話を拝聴させていただいておりましたが――」

寿司を咀嚼した彼は、額を指でなぞり、逡巡と困惑の入り混じった表情を浮かべつつ、なおも引き下がろうとはしない。


「――実は僭越ながら、先ほどこちらからご説明申し上げた内容と、吉濱様ご一家においてご認識いただいている点とに、少々食い違いがあるように拝察いたします。


まず第一に、我々日本国政府は、本件に関してあくまで“仲介”の立場でございます。

ご依頼の趣旨といたしましては、護衛の要請に加え、関連情報の共有も含まれております。


そして実際のご依頼主は、ウルジクスタン共和国の要人――カリム・トゥラベコフ氏でございます。

ここまでお耳に入れさせていただければ、おおよそのご事情もご推察いただけるかと存じますが――」


「なんと――!」

尊は、この日になって初めて……という調子の声を上げた。

「ウルジクスタン」という国名が口にされた、その刹那、彼女は反射的に、抑えがたい反応を示していたのである。


「――同氏は、“シャカゾンビ”と名乗る者より脅迫を受けており、ご自身の身の安全について深く憂慮されております。

それゆえ本件は、単なるご協力のお願いだけではなく、その背景を正式にご報告差し上げるための来訪でございます……」


「でも、シャカゾンビは、このあいだ私たちが倒したよ?」

はちるが、首をかしげるようにして素直な疑問を口にした。


外務省の役人は正座のまま肩をすぼめ、困ったように小さく頷く。


「……現時点では、まだ確定的な裏付けが取れておりませんが、地底国家『テラリア』の勢力により、

当該人物が回収されたとの報告がございます」


その言葉を最後に、応接間には一瞬、重苦しい沈黙が満ち、戸惑いの気配がゆっくりと広がった。

「……なんか、思ってたのとぜんぜん話が違うけど?」

おせちは冷ややかな視線で母を一瞥し、低くつぶやいた。


「はいクイズ――!こちら、話半ばで万事を”ご推察あそばした”我らが母上様は、一体いつこのお役人殿を門前払いしたのでしょうか?」

アシュリーが場の空気をかきまぜるように、明るく声を張って片手を挙げてみせた。


「護衛任務って言われたあたりじゃない?きっと、勝手にパレードの参加とか大統領演説の警備とか想像したんでしょ」

おせちは、ひとりの人間を完全に見限る時の口ぶりでそう応じる。


尊は気まずそうに湯呑を口元に運び、顔の半分を湯気の向こうへと隠しながら、苦笑まじりに答える。

「いやまあ……その……色々あるじゃろ?なんとかバイアスとか、人間というものには……」


「おい、神!」

アシュリーがついに声を張り、語気を強めて母を叱責する。

「ねえ、母さん?」

おせちは声を低め、ことさらに「かあ」という語を意識的に引き絞って、問い詰めるように呼びかけた。

「お母さん、いつも人の話は最後まで聞けって自分で言ってるぢゃん……」

さなも、ここにあどけない声での追撃を入れ、

「まあ誰にでも間違いはあるよ、ねえママ?」

親孝行のはちるは、穏便な落としどころを用意してやる。


すると、尊は観念したように小さく頭を垂れ、

「……すまぬ」

ついに、謝罪の言葉を口にした。


――ひととき、室内にはなんとも言いがたい空気が蔓延する。


「……まあ、それならば話は別じゃ。シャカゾンビが絡んでいるとなれば、背に腹は代えられぬ。

カリム氏のもとへ赴き、連中の蛮行を――未然に防ぐしかあるまい!」


尊はそう結びながら、先ほどの狼狽をどこか帳消しにするかのごとく表情を引き締め、一同を見渡す。


応接間の空気が、ようやくひと息ぶんほど緩んだのを見て取ると、

役人は机の上にそっと手帳を開き、

「……あの、念のための確認となりますが、今後、政府として“対外的な報告”を行う必要がございますため、

差し支えなければ――みなさまの――その――」

と遠慮がちな声音で確認を促した。


その言葉が、静かに場に溶け込んだところで、おせちの追懐は薄明かりのなかに輪郭を失い、

意識の焦点がゆるやかに遠のいていく。



……深夜のアシュリーは、3人が寝静まった部屋の闇に身を潜め、

ひとり、おとといのインタビュー映像を再生していた。


画面のなかの自分は、明るく、いつもの調子で、あらゆる問いに対し不敵に応じている――

だが、その終わり際、記者がふと口にしたひとことが、心の奥底に小さな影を落とした。


「ところで、あなた方の――」


……過去と現在の自分。そのどちらにも訪れる、一瞬の沈黙。

2日前の彼女は笑顔を保ったまま言葉を探し、結局は話題をそっとすり替えた。

画面がフェードアウトしていくなか、現在のアシュリーの胸の奥には、かすかなざらつきが残る。

世界が黒く沈み、また新たな光景へと切り替わる。



さなは、10月の涼風が吹き抜ける帰り道の路地で、近所の人に声をかけられていた。

「そういえば、さなちゃんたち、ニュースで見たよ!あの……なんていう――」


午後の光が差し、足元にはキンモクセイとギンナンの香りが淡く漂っていた。

さなは、その問いかけに澄んだ微笑みで応じながらも、返すべき言葉が喉元で絡まり、ついには胸の奥にとどまったままになる。

ただ風だけが、場の空気を満たすように緩やかに流れていった。


やがて、その戸惑いの余韻ごと場面は光に溶け、ひとつの共通項を軸にした回想は最後の情景へと移ろっていく。



それは、今朝――ついさきほどの、はちるの姿。

陽光まばゆい教室は、凱旋の熱気に包まれていた。

クラスメイトたちの歓声が飛び交い、祝福と興奮の渦が渾然と渦巻いている。


「結局さ――」


しかし、その何気ないひとことが、教室のざわめきの只中でふと立ち上がり、

はちるの耳元で、時の流れを止めるように残響した。


この鮮やかな光景すら、やがて背景のなかへと溶けていき、薄れながら静かに幕を下ろす。



こうして、人々からの無邪気な問いかけと、それにうまく応じきれなかったことによって積もった苦い感覚とを胸に抱きながら、

吉濱家の姉妹たちは、それぞれの時間を過ごしていた。


その「名もなき戸惑い」が4人の少女と、この物語を、朝の屋上へと自然に導いたのである。


……校舎に満ちるざわめきのはるか上、

屋上のコンクリートには、4つの影が向かい合って立ち、かすかな頼りなさを孕んだ輪を描いていた。


おせちは、ゆっくりと背筋を正し、真正面を見定めて、口を開く。


「……チーム名を、今から決めよう」


そのひと言が落ちた瞬間、場の空気に、後には引けぬ決断の雰囲気がたしかに加わる。


屋上のフェンス越しに広がる空――朝という時間帯のありがたい温もりを、押しつけがましいほどに施してきたあの空は、

以後、ばかによそよそしい態度を露わにした。


彼女たちの小さな肩に、これから選ぶべき言葉と未来の、そのすべての重みを委ねては助けもせず、ただ、青みの最も

濃い部分へと、心なし色彩の潮を引いてしまったかのように思われる世界の果てから、その選択の行方をじっと見つめているだけに

なったのである。


4人のあいだには、言葉にされぬ昂ぶりと、どこか浮足立つような期待とが交差する。


「ウチも……それ、考えてたよ」

はちるがぽつりと口にし、さなも静かに同調する。


「正直、こんなにいろんな人に聞かれるとは思わなかった」

おせちの顔に、さっと陰が差す。


「だよな」

アシュリーが苦笑を浮かべながら応じた。


「でも、どういう基準で決めればいんだろ……」

さなは胸元のデッキケースを、まるでロザリオのように無意識に撫でながら、戸惑いを口ににじませる。


「たとえば、四字熟語とか?」

はちるがやや茶化すように言うと、

「いや、それは国語の成績が上がるだけだろ――」

アシュリーが即座にツッコミを入れ、場の空気がわずかに緩んだ。


「……まあ、いろいろあるだろ。それぞれ考えてきたアイディア。

全員、ここ数日で何度も聞かれて、そのたびにちょっとずつプレッシャー感じてたはずだし」

そしてそう言葉を継ぐと、


はちるは、

「やっぱり何かの名前に寄せるとか?それとも英語でいく?」

少し明るく流れを変える。


「かっこよければ、何でもいんじゃない?あとは、なるべく人とかぶらないやつ!」

さながおどけたように手を挙げてみせた。


「……じゃあ順番に案を出してこう。採用・不採用、好き勝手に投げ合ってさ」

おせちがまとめると、指先で軽く空中に円を描いた。


「……吉濱ユナイテッドFC!」


最初に名乗りを上げたのは、やはりアシュリーだった。

朝市の競りのような張りのある声で、堂々とその名を叩きつける。


「なし!」

するとおせちが即断する。


「ナシ!」

はちるも腕で大きくバツ印を作る。


「それ、よわそ……。J3からJFLに即降格しそ……」

さなは眉をひそめ、さらに追い打ちをかけた。


その評判の悪さに、アシュリーはさすがに顔をしかめる。


ついで、はちるがパッと手を挙げ、無邪気な声を弾ませた。

「ペパロニクアットロがいいな!4種類のチーズって意味で!」


「あっ、それってエルレガーデンじゃん……。なら私はバンプ・オブ・チキン!これも4人組!」

さなが即座に参戦し、指で“4”のサインを作って見せる。


「音楽で攻めるの?」

と大げさに驚きながら、はちるもさなの動きを真似して、両手で“4”の形を作った。


「……4人組なら、マーベレッツでどうだ?」

アシュリーが便乗すると、


「それ、途中で脱退者出るやつだからダメ」

おせちは容赦なく切り落とす。


「じゃあ、何ならアリなんだよ?」

アシュリーのツッコミに、


おせちは妙に真顔で1拍置きながら、

「サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド」

とだけ抑揚のない早口で言い切る。


その瞬間、アシュリーが噴き出し、首を横に振った。


「長すぎ!」

さなも即座に声を上げる。


「それならママの名前、オノ・ヨーコにしなきゃ!」

はちるがぼそりと続け、みんなが一瞬笑いに包まれる。


「じゃあ……デズリー!」

おせちは淡々と新しい案を出す。


「ならレス・バクスターは?」

はちるも負けじと提案。


「ゲッツ・ジルベルト!」

アシュリーが畳みかける。


「そのへん、もう完全にチーム名っていうより個人名ぢゃん!」

さなが呆れたように突っ込んだ。


会話の熱量はゆっくりと上がっていく。弱火の笑いが、中火の冗談へと変わり、

いつしか話題は音楽グループ名を挙げる即興ゲームへと変貌していた。


「……うーん、でもやっぱり音楽から離れたほうがよくない?――」

しかしある時、おせちはふと空を仰ぎながら、冷静に言葉を挟む。

「――だって、もし有名になったときに、元ネタの人に会ったらどうするの?気まずすぎでしょ」


それでアシュリーは虚をつかれるも、新たな案をすかさず投げ込む。

「よし、じゃあ“アシュリーヨシハマエクスペリエンス”で決まりだ!」


「それジミヘンドリックスじゃん!」

おせちが間髪入れずにツッコむ。


「う~ん、じゃっ、ティーンエイジミュータントマジシャンガールズ!」

しかし、なおもアシュリーは声を張り上げた。


「あっ悪くはない響き!……いや、悪くはないんだけどね。でもそれ、なんだかすごくまずい感じがするんだ……!」

おせちは名の出典すらもよくわからないまま、なぜか強い危機感を、緑色が自然と浮かぶその不可思議な文字列に覚え、

めずらしく慌てた調子で却下する。


「……グループイノウ?」

その後さなが、唐突にアイディア出しを再開し、

「う~ん……」

「まあ……方向性はそうだよな、異能者の4人組。音楽だけど」

おせちとアシュリーは声を重ねる。


そのとき――場の空気がふっと凪いだ。


そして――

「……じゃあ、じゃあさっ!カルテット・マジコ!」

はちるが小さく跳ねるようにして、無邪気な声とともに、手を高く挙げた。


「――!」

その、普段なら軽く受け流してしまいそうな響きが、この朝はなぜか4人の心に柔らかく着地する。


それでもおせちは、最初あくまで冗談めかしてこう問い返してみせた。

「大丈夫?それ、アンリとジダンに負けない?」

ただその声音には、先ほどまでの警戒や冗談めかしさは薄れ、

むしろどこか乗り気ともとれる色が、無意識に浮かんでいた。


(……「何の話?」と思った人は、2006年ドイツW杯準々決勝、「フランス対ブラジル」を検索してみて!

ロナウジーニョ、アドリアーノ、ロナウド、カカの4人組、“カルテット・マジコ”を擁する優勝候補ブラジルを、

フランスのアンリとジダンが撃破した伝説の試合さ。ちなみにジダンが頭突きしたのはこの大会の決勝だよ!*PIKU)


「でも……いいかも。“魔法の4人組”って、そのまんまだし。ほかのより、ちょっとはピンときたって感じかな」

さなが微笑みながらそう言うと、陽の光を含んだ頬が甘い赤みを帯びる。


アシュリーは腕を組んだまま、ゆっくりと視線を空へと上げた。

「ああ、そうだな。この世界の大事な要素のうち半分からは採用されないなら、もう半分から持ってくればいい。私はそれ、好きだぞ」

(彼女にとっての“フィフティ・フィフティ”とは、音楽とサッカーのことだ)


風が校庭を抜け、制服の袖を揺らす。残る3人も、それぞれに迷いながらも、視線を交わした。


「……絶対いいって!これ、カルテット・マジコ!」

その瞬間を見逃さず、アシュリーはまるで勝利宣言のように声を張り上げる。


「……まだ、アイディア出しの途中でしょ?」

しかし、おせちは困惑したような苦笑を浮かべる。どうやら彼女は、最後まで場の“安全弁”として立ち回るつもりらしい。


「いや、もうこれしかないって。説明はできないけど、運命感じるんだよな~。

それに、今ここで決めないと、また誰かに聞かれて答えに困るぞ?――たぶん、次の休み時間に。さなも気に入ってんだろ?」


「う~ん……。もっとすごい案が出なければ、これでいいと思う」

「ウチも~……うん、もうちょっと粘ってもいいかなって」

さなとはちるは、素直にそう答えるが、その語尾にはどこか踏み切れぬ余白が残る。


その様子を「弱気」と受け取ったアシュリーは、やれやれと肩をすくめた。

「……わかってるか?こういうの、“アイディア出し”って言ってるあいだは、永遠に終わらないんだよ。

どっかで線引きしないと」

そして、そう言いながらスマホのトップ画面、その時刻表示を一瞥し、

ゆるやかに覚悟を固めるような足取りで、フェンス際へと歩いてゆく。


白い柵に手をかけ、熱のこもったまなざしで空の彼方を仰ぐ――“空を見上げる”という行為は、

アシュリーにとって、ときに鳥の本能にも似た衝動を伴うものだった。


……その朝、世界はまさに「秋うらら」の名にふさわしく、やわらかな陽光と、神の全能すら連想させるほどの欠け目なき温もりに包まれていた。

ポニーテールに縛った長い赤毛の少女が、猫のようになめらかに背を伸ばしてフェンスにもたれかかる、その姿を中心として、

校舎の屋上には、“世はおしなべてこともなし”の風景が、淡く澄んだ色調のまま、どこまでも広がっている。


だがその完成された絵図は、3人の胸の奥に、むしろ名状しがたい落ち着かなさとして滞っていく。

それは、経験がそう告げていたからだ。

何も起きぬときこそ、アシュリーの落ち着きは、かえって不穏の兆しとなる。


だからこそ、3人は誰ひとり言葉を交わさず、

まるで水面下で手を取り合う共犯者のように、そっと意思をひとつにした。


「……なんだよその目?――」

訝しんだアシュリーがふと目線を返すと、フェンスの内側の広い空間に、妙な、一触即発の雰囲気が生まれる。

「――もしかしてお前ら、こういうときの私が独断専行するっていう、偏見に基づいて動こうとしたりしてないか?」

彼女は、やけに朗々とした、どのような後ろめたさもない口ぶりで、やさしく問いかけた。


「いやそんなこと……」

おせちは、咄嗟に目線を伏せて言葉を濁す。


「そうか、なら安心だな。…………ちなみに答えは当たりだッ!!」


そのひと言がすべての引き金となった。

アシュリーはフェンスにかけていた腕を引き戻すや否や、重力を振り払うような身ごなしで、屋上の柵を跳び越えた。


「!!」


その動作のさなか、細くしなった両脚――スニーカーのつま先が水平を向き、チェックスカートの裾が空気の流れで複雑に乱れる。

そして次の瞬間、制服の縁が赤い焰へと姿を変え、足元から巻き上がる熱流にあおられながら、炎が一気に彼女の全身を駆け巡った。


屋上付近の空気を全身ごとしたたかに打ちつける――その反動で跳ね上がったかのよう見えた炎の体は、校内に存在する棟々の屋根

を、ひと通り舐め取っていく鮮やかな軌跡を打ち出し、まるでジェットの推進音のような轟きを撒き散らして、高度をまたたく間に引き上げていった。


炎の尾は澄みきった青空にいさましい軌跡を描きながら、雲を越え、そのはるか先へと爆進していく。


教室の窓辺にいた友人たち、グラウンドを歩いていた生徒たち、あるいは遠く小学部、中学部、

大学部のキャンパスを行き交う者までもが、その誇大的な音に気づき、一斉に顔を上げる。

おどろきや歓声、指さし、スマホを掲げての撮影、手を振って送り出す仕草が敷地内に連鎖し、誰もが天頂を

縦断するたったひとつの点――ホットショットの姿を目で追った。


……まさに青天の霹靂と呼ぶべき離陸劇である。それから間もない1年生の学棟では、アシュリーの早退を報告しに行ったおせちが、

逆に彼女のクラス担任から「アシュリーが遅刻の連絡を寄越してきた」と告げられ、思わず立ち止まる――そんな一幕もあった。


1時間目の授業が終わるころには、ホームルーム前の出来事は、もうどこか遠い夢のようだった。

続く休み時間、教室のざわめきは、もはや、アシュリーの出奔とはまるで別の理由によって生まれていた。

それでも、彼女の大胆な「飛び立ち」に心を引きずられるように、3人の姉妹だけは胸の奥に、いまだ消え残る揺らぎを抱えていた。


休み時間が、いつもより長く感じられる。

おせちは机に肘をつき、窓の外の光をぼんやり眺めていたが、ふとポケットの中でスマホが小さく震える。

家族共有のグループSMSに届いていたのは、ただひとつのURL。


「……なんだろ?」

と小声で呟きながら、彼女はそっと画面をタップする。


表示されたのは、ラジオ配信の待機ページ。

友人たちが窓際でふざけ合い、笑い声が教室に弾ける中で、おせちだけが静かにイヤホンを取り出し、耳に差し込む。

耳奥を占めていた外の喧騒が、すこしずつ遠ざかっていく。


ひと呼吸の間を挟んで、陽気なジングルが教室の空気を塗り替える。


「今日は~ですねぇ、特別回になりました!なんとなんと、今テレビでもSNSでも話題沸騰中!

全日本、いや全世界が注目のあの方が飛び入りのゲストでいらっしゃってます!

ではさっそくご登場いただきましょう――“カルテット・マジコ”のホットショット……こと吉濱アシュリーさんです!」


「は~い、どうもどうも!おとといの会見から今日の校舎の屋上を経て、不眠不休でここまで飛んできました、アシュリーでーす!」


「屋上から……?ええと、いろんな意味で噂通りですね(笑)」


「ええ、聞いてて凄いなーカッコイイなーって思う話はだいたい本当だと思ってくれて結構です!……と私は思ってるけど、

実態が追いつくかは今日次第ってことで!

いやー、しかしこのスタジオ、いいですね!ロックンロールのスピリットが壁にまで染みついてるっていうか。

あっ、その50年代のレスポール?まさにロックの象徴って感じ!」


「えっ、わかるんですか!?」


「もちろぉん!たとえば50年代モノってペグがクルーソンタイプでしょ?そういう細かいとこ見逃しませんよ~。

……ま、母が母なもんで、古いものにはつい目が肥えちゃいましてね!」


「そうなんですか!」


「ほんと急にお邪魔しちゃって、お弁当まで出していただいちゃって……VIP待遇で、つい手が震え――いや、やっぱり私なら動じないかな!」


「はは、堂々としてらっしゃいますねぇ。では改めて、4人のチーム名、“カルテット・マジコ”でよろしいんでしょうか?

これまでのインタビューでは、まだ名前は聞いたことなかったような……?」


「……そう!それが今朝決まりたてのブランド名!だからこれからは、“カルテット・マジコ”のホットショットって呼んでください。

いずれは、宛名にそう書くだけでウチに何でも届くようになる予定なんで、皆さんどしどしプレゼントを!」


「あぁ~頼もしい!でも、皆さん学生さんなんですよね?たしかご姉妹で活動されてると……」


「ええ、そうなんです!とはいえ、全員クセがすごくて、私が唯一の“まとも枠”……

いや、むしろ“火消し役”として呼ばれてる気もしますけど!」


「はは、それは大変ですね。ちなみに“マジコ”って“魔法”の意味で?」


「はいその通り!いや~、こっちが聞いてほしいなって思うことを丁寧にひとぉ~つずつ聞いてくれる!まさにプロの仕事って感じ。

魔法、使えるもんはぜんぶ使いますよ!モットーは『世界をちょっとだけ面白く』です!」


「おお~、かっこいいですね!それでは最後に、リスナーの皆さんへ何かメッセージがあれば!」


「“カルテット・マジコ”、まだまだ序章ですから!これからド派手な花火ガンガン打ち上げていくんで、

みんな、今のうちに“推し”決めといてね!あとで“出遅れ勢”って言われても知らないから!」


「……はい、ありがとうございます! 本日の特別ゲスト、“カルテット・マジコ”のホットショット、吉濱アシュリーさんでした!」


「いやいや、まだエンディングには早いですよ?今日ここ、すっかり気に入っちゃったんで――このまま居残りで朝まで語り倒してもいいですか?」


「ええ、実はですね――今日はこのままアシュリーさんにも番組に残っていただいて、リスナーの皆さんからのメッセージ紹介にもご参加いただきます!」


「マジで!?じゃあついでにリクエスト!ギターミュージックもいいけど、実は私、90年代ヒップホップが1番好きなんで、合間合間にちょこっと流してくれたら、今後も専属でゲスト出演しちゃうかも?ほら、番組的にもそういうのって“ウィンウィン”でしょ!?」


「もちろんですとも!アシュリーさんと一緒に、引き続き番組を盛り上げていきますので、どうぞお楽しみに――!」


(ジングルが流れつつフェードアウト)


「これはひどい……」

教室の片隅で放送を聞いていたおせちは、遠いスタジオで人生の絶頂にあるアシュリーとは裏腹に、

ただただ頭を抱えて嘆くしかないのだった。


インターネットで同時配信されているとはいえ、所詮は空縁州のローカル放送に過ぎないはずのラジオ番組。

その電波から転がり出た「カルテット・マジコ」の名は、それにもかかわらず瞬く間に拡散され、

その日のうちに全国ニュースや各種SNSのトレンドを賑わせることとなった。


そしてこの既成事実の波が――まさしくアシュリーの目論見どおり――残る3人の迷いを、否応なく外堀から

きっぱりと埋めてしまうのである。


同じ頃、吉濱家の縁側では、おせちの落胆とまるで呼応するように、尊が独りごちていた。

「これは、あいつ、ついにやりおったな……。やれやれ、あとで叱ってやらんとのう……」


しかし、口元はすぐに緩み、ラジオのスイッチを切る手は慣れた調子で滑らかだった。カセットデッキから抜き取ったテープに、

「アシュリー:ラジオ出演」と静かに記し、それを桐箱へと大事そうに納め、さらに古箪笥の奥深くへとそっとしまい込む――。


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