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Issue#01 I Don't Want to Set the World on Fire CHAPTER 1,2

カルテット・マジコは、

60年代の『マーベルコミック』や、『トランスフォーマー』『G.I.ジョー』『ヒーマン』『タートルズ』といった

80年代のカートゥーンシリーズに強い影響を受けたヒーローノベルです。

現代の創作が、子供向け作品においてさえいつの間にか失ってしまった、

あの時代の、あの国のアニメの“ノリ”を、おそらくいま、世界で一番忠実に再現できている作品かと思います。

本作はとくに、初代タートルズを直接的なリスペクト元としています。あのような話に飢えている方、

そして、コミカルな筋書きの中にブラックジョークや不謹慎ネタ、風刺、その他ポリティカルなキナ臭さが見え隠れする

『サウスパーク』のような物語が好きな方、ぜひ読んでみてください。これからは私があなた方の受け皿になります。

空縁すかいりむ州は白走ほわいとらん市――その郊外に広がる山林の地へ、

わざわざ景勝地の満足を求めて足を運ぶ者はいないだろう。

いや、たしかにその、霞にけぶる海原のうねりを思わせる緑の濃淡の中には、永続性の結束力、

この地球という星そのものの美徳と呼んでもかまわない、しずかな調和の気配を感じとることができるのだが、

ただそれは結局のところ、世の未開拓地がどこであれ大なり小なり宿している魅力をことさらに謳いあげてみたに過ぎないことでもある。


そんな、ごくありふれた林地のただ中には、上空から見たとき、ひときわ鮮やかに開けた一角がある。

まるで、大地にぽつんと浮かぶ10円ハゲさながらのその場所には、

風雅な趣をたたえた建築群がひしめいてた。意匠の妙や配置の絶妙さに目をとめれば、

鋭い者はすぐさまその正体に思い至るかもしれない。――そう、これは寺だ。


鈴鹿・不破・愛発(あらち)の三関以東の地としては珍しく、ここは仏教伝来のごく黎明期に創建された由緒正しい古刹ではあったが、

私有地となってからは寺院としての名も役割も失われ、いまではもっぱら「吉濱さんの家」で通っている。


外観こそ風雨に曝され放題で、ひどくくたびれたこの寺の本堂だが、

その、砂気を帯びた鉄鋲打ち扉の向こうに広がる空間には、建立以来の端正な美観が保たれていた。


そこの床は一面の板張りで、満ちている空気には目をみはるほどの澄明さがある。

やや高い位置に設けられた長方形の窓は、建物の長辺の壁面に等間隔で連なり、

そこから差し込む陽光は、框の真下の白壁にほんのりかかって、柱をなでながら、微妙な角度で室内に降り注ぐ。


その光はまばらで柔らかく、絶えず空気の微粒子に梳かれながらも、

なにかしらの意志に導かれるかのごとく空間を貫き、

ついには板の間に静かな白の斑点となって、ひそやかに、息づくように落ち着いていた。


ひな壇の上にひしめく諸天の小像は、その面貌、身振り、あるいは手に携えたアトリビュートの数々によって、

それぞれの名や神性を、言葉なくとも雄弁に物語っている。これらの像を順に眺めるだけでも、

おそらく20分か30分は、退屈とは無縁なままに時を過ごせるだろう。


とはいえ、彼らはあくまで主役ではない。壇の中央、最も重要なその位置にて、

真鍮の濃いかがやきを放つ本尊の居仏を荘厳するための、引き立て役にすぎないのだ。


仏像群と、それを取り囲む荘厳具の数々――香炉、幢幡、華鬘にいたるまで――

素人目に見てもひととおりが過不足なく揃えられた調度のうつくしさは、

けっして物そのものの豪奢さだけに起因するものではないだろう。


それらすべてが、内陣の柱と欄干とによって形づくられた結界の内部、

すなわち浄なる域に寸分違わず納められ、翻っては、外へとはみ出していかぬことが徹底されていること、

その規律正しさにこそ、この場所の美の本質があるのだ。


たとえば、画用紙に貼られた金箔が、その端を越えてちぢれた輪郭をこぼしてしまうような、雑さや気のゆるみがここにはない。

全体を眺めたときに得られる「整っている」という観念的な美が、

色彩や造形の妙によって感じられる本能的な美の上に、うつくしく塗り重ねられてゆくのだ。


やたらに反射率が高いこの堂の床――寺院というよりはむしろ武道場に類型の多い板張りは、

先に述べた仏像群の荘厳、天井の梁や桁、白漆喰の壁、そして障子の格子までも、

すべてを縦にたわませ、わが身の表面に貪欲に取り込んでいる。

つまり、この床こそが堂内のすべてを一望のもとに取りまとめる、視覚的な総括装置となっているのだ。


では本題に入ろう。1辺が数メートルある立方体の内にだけ宗教の華美が施され、でないところは極端に

がらんとして武張ったこの空間には、じつは、1枚だけ座布団が敷かれそこに着物の女が座していた。


彼女の姿は一見すると子供のようだが、実際のところはどうだろう。

子供――何かの気まぐれで外に出かけていこうものなら、

かならずや服を泥だらけにして戻ってくる……そうした、制御不能な生き物に、

日常的にこのような装束を纏わせておく親がいるとは考えがたい。


しかも、彼女が身につけている着物とは、往時の公家を思わせる、じつに格式あるものなのだ。

その上に重ねられた羽織は、丹後ちりめんで仕立てられ、

焚き染めた白檀の香がほのかに漂ってきそうな、淡く光を散らす白色をしている。

まるでラメを織り込んだ和紙のようなその生地には、ただ袖や裾の縁に近づくにつれ、

オレンジ色の鱗模様が、横線の本数によって徐々に現れてくる仕掛けが施されていた。


白く長く、まっすぐな髪もまた、遠目にもよく手入れが行き届いた上品な仕上がりを見せている。

その髪が額の左右で自然にかき分けられているのは、そこに角があるからだ。

緑、白、桃色――まるで三色団子を思わせる配色の、鋭利な構造の突出だった。


「十二」単とはいかぬまでも、幾重にも着重ねられた衣の袖々が醸し出す段彩の文様は、

色とりどりの水がごとく床へと静かに流れていき、その中心にあって背筋を真っすぐ据えた女の姿は、

まさに、ひとつの完美なる山体としてそこに存在していた。そして、その沈黙の中には常に、思念の霊妙なるゆらめきが含まれていた。


――まもなく我々は、ひとつの気づきを得ることになる。

このままずっと続くかと思われた彼女の瞑想にも、じつは終わりどきがあるのだ。


2本角の淑女は、そういった事実を、ごくわずかな身動きによって、効率的に外界へと示す。


研ぎたての刃物で、横一文字のきざみ目を入れられていく皮のうすい果実のように、

両のまぶたが音もなく半開きにされていったのだ。よく熟した赤い色の瞳が、

事の始まりのみずみずしさを保つがまま中からゆっくりと現れる。


けっして険しくはないが、真剣なことにはかわりないその目つき……!


(――聞くがよい、わが子らよ。

これより我は母ではなく、かつて出雲の地に顕現した神のひと柱――

吉濱尚猛尊よしはまのなおたけりのみこととして、お前たちに命を下す。

ひっじょ~に大切な話があるゆえ、今すぐ本堂に集まるのじゃ。

この声を耳にした以上、遅れることは断じて許さんぞ――!)


鬼女の脳内にひらめいたこの言語性の思念は、ほどなくして公共の念波となり、

寺の境内を、ゆるやかに、けれどもたしかに、円を描くように渡っていった。


――その余韻がまだ堂内に漂ううち、


「なんなの母さん?テレパシーで呼ぶのいつもドキってなるからやめてほしいんだけど……」

「どうした?DAZNの解約ページにようやくたどり着けたのか?」

「あとにならない?お母さん!?いまデッキビルドしてるんだけど!」

「……みんな、ママの話真面目に聞こうって!」


ポップコーンが弾けるように、堂中あちらこちらの障子と扉が立て続けに開き、

追って4人の少女が姿をあらわした。しかもそれは……ほとんど同時と言ってよかった。




カルテット・マジコ




The Most Magically Chaotic Quartet on Earth!




issue01 I Don't Want to Set the World on Fire




CHAPTER 1



物を炒める途中のフライパンを手に現れたということをのぞけば、

もっともありふれた佇まいをしているのは、この娘だろう。


着丈のやたらと長いピンク色のカーディガンを、さながら和羽織のようにスクールブレザーの上から重ね着した

少女の名は「おせち」という。


15〜16歳の少女として、彼女の背格好は標準的だ。

なかでももっとも目を引くのは、そのオレンジ色の髪型だろう。

分類するなら「非常にボリュームのあるくせ毛のボブカット」であり、

前後左右に均等にふくらんだその髪は、彼女の頭部を、まるでカボチャのように印象づけてしまう。


とくに鬢や後ろ髪では、ふさふさと分かれた毛束の先が、どれもやわらかく内へと巻き込み、

その姿は、あたかも3方から髪に指を差されているかのようにも見える。


顔立ちもまた、なかなかに印象深い。眉は太く、瞳は風船を思わせる丸さで大きく、

どちらともがわずかに垂れがちに作られているため、

見る者には、いつもどこかに憂いや恥じらいを湛えているような印象を与える。


とはいえ実際には、その表情に感情が刻々と映し出されることなど、めったにない。

すなわち、人の同情を誘いかねない哀れげな面差しの真相とは、

ひとえに、根っから「イモっぽい」とでも言うほかない、

素朴な容姿に恵まれてしまった――ただそれだけのことなのだ。


だが、だからこそ彼女には、「めんこい」などという、土の匂いをまとう方言産のほめ言葉がよく似合う。

泥くささのなかに息づく健やかな可愛らしさを、何を差し置いても真っ先に伝えてくれるその言葉を、

彼女は、無理なく自身をあらわす宝飾のひとつにすることができたのだ。


2人目の娘「アシュリー」の全身は煌々と燃えさかっており、しかも自在に飛ぶことができた。

堂の出入り口とは反対側の壁――その両隅に設けられた障子戸のうち、

奥側の戸がひとりでに開いたかのように見えた刹那、突入してきたのは、

芯の部分が横に長く、燃焼の勢いおいて並ぶもののない、巨大な火の玉だった。


その火の玉は、ところどころ塗料がこすれたり欠けたりしていながらも、

赤い明朝体で「火気厳禁」と書かれいること自体はたしかな札が、真上にかかった火災報知機の前を、気にも留めず通過し、

さらに進んで、正座する鬼の女の周囲にも焼けただれた螺旋をたちまち積み重ねていく。


「火炎を素材にして塑像された、人間の女の子の姿」という火の玉の正体が誰の目にも明らかになったのは、

それが天井の付近にとどまって、部屋の様子を殿様気分で俯瞰しはじめてからのことだった。


イカ腹に寄った体つきをしたこの少女は、顔立ちもそれにふさわしい童顔でありながら、4人の中で最も強気な目元と眉の角度をしていた。

芯へと近づくにつれて白みを増すオレンジの炎で構成された肉体は、輪郭が絶えずゆらめき、ひし形の火片がそこからちぎれては舞うものの、

基本的には普段の体つきの忠実な写しだった。


つまり彼女は、ある種の変身能力者なのだ。自分では確認しづらいだろう後頭部の髪型まで、ほとんど完全な再現に成功している。

とりわけ主根/側根型の根に例えたくなるほど荒い毛並みのこのポニーテールは、普段から唐辛子を思わせるような赤みを帯びていて、

彼女がただ歩くだけでも、縦揺れする毛先がまるで焔の箒のように通り道を掃いていく――そんな印象さえ周囲の者に与えるのだった。


3人目の少女は、その名を「さな」といった。すでに紹介したアシュリーほど

空を自分の物にできているわけではないが、安定したホバー移動をしていることにはかわりない。

このサイキックの王道をゆく移動法は、本人にとってきわめて日常的な振る舞いだったようで、

身にまとうものも、赤いジャージの上下というまったくの部屋着にすぎない。


だけどもその在り方は、凡俗の印象からはほど遠い。

しっとりとした質感をたたえたミディアムヘアは、水をはね返すことすら忘れた花弁のように、白さのうちにかすかな湿り気をとどめて、

その端正な髪のすぐ下には、何につけても美醜の配分に偏執する神が、その均衡を放棄してまで施したのではないかと思わせるほどの、

息を呑む造形が据えられていた。華美が惜しげもなく注ぎ込まれた、赤の双眸である。

その眼差しには、眉間から流れ込む緊張を、涙嚢から外眼角にかけた儚げな傾斜でそのまま受け流して留めない、絶妙なたれ具合があった。


首から上の印象は、あるいは体にもそのまま適応されるだろう。

能力を行使している時にこそ、彼女の肉体からは、世間の猥雑さと向き合うために誰もが幾ばくかは用意しなければならない、「力み」がすっかり取り払われる。交感神経を働かせるための、何か無視しがたい毒性のある水にかわって、瞳の持つ閑雅な気配が、しずかに、たしかに、茎の末端にまで浸透していくのだ。


肌の色にも、雪を思わせる中に適量の血色が匂いやかに溶かし込まれ、肢体の輪郭には、彫琢された宝石の、鑑賞に向いた静謐さがある。

ならば、造物主が彼女に強いた不完全とはなんだろう?そう、 この「和氏の璧」にも、ひとつだけ瑕があった。

美があまりにも行き届きすぎたその身体は、芸術の域を踏み越え、祈りのように存在としてか細くなっており。

生命という奔流を受け止める容れ物――ときに動き、荒び、燃え上がる器としては、どうしても壊れやすく見えてしまうのである。


最後に名を挙げる「はちる」は、ひときわ異彩を放つ変わり種だ。

というのも、この娘はホモ・サピエンスにすら属さぬ存在――ネコ科の獣人なのだ。

ユキヒョウか、あるいはホワイトタイガーを想わせるその風貌は、

まずもって2足歩行という点をのぞけば、むしろ動物としての面影を随所に濃く留めている。


たとえば、逆巻く毛並みの長髪などがそうだ。ここにはいかにも野性の風味が集結しており、頭髪という、ヒトに特有の部位でありながら、

百獣の王のたてがみを彷彿とさせる気高さや、強情な撥水性が透けて見える。

またその一方で顔立ちはというと、ぬいぐるみやマスコットのように柔らかく、警戒心のない丸みに満ちており、

したがってここも人間的とは言いがたい。


そんな彼女が身につけているのは、ピンクのセーターに無地の白いミニスカートという、飾り気のない普段着だ。

その無邪気な装いのまま、彼女は開き戸を両脚で蹴破る勢いで姿を現した。

高い上枠へと指を引っかけ、段違い平行棒でも渡るかのような身ごなしで勢いよく飛び上がると、

軽やかに空中で1回転――そして肉球のある足裏に介添えされて音もなく、完璧な姿勢で床に着地したのだ。

女の子としてはかなり枠組みの広い体つきのとおり、彼女は自分の体力に絶対の自信を持っているようだった。


……神代の昔、日ノ本の地をはじめ司る立場にあった吉濱尚猛尊は、やがて「吉濱尊よしはまみこと」という通名を得て、

人としての生を歩むこととなった。

その彼女が、ある日、見かけも種族も異なる4人の赤子を同時に引き取ったこと――それは、

神としての役目を終えた後に始まる、もうひとつの物語の端緒だった。


やがてこの4人の少女は、「カルテット・マジコ」という名のヒーローチームとして世にその名を馳せることになる。

つまりこのタイトルは、彼女たち自身が選び取る揺るぎない未来の形なのだ。

今はまだ、世の中の右も左もわからない彼女たちが、幾多の栄光と屈辱に塗れながら、

やがて責任と叡智を兼ね備えた真に偉大なヒーローとなるまでの物語が、いまここから、

この何気ない日常の光景から始まっていく……!


なおも室内を俯瞰していたアシュリーは、やがて興味深げに声を上げた。

「おせち、今日チャーハンなのか?」

天井近くをたゆたう炎の少女がそう問いかけると、名を呼ばれた吉濱おせちは、手にしたフライパンを見つめたまま、沈んだ表情で答えた。

「うん……でも、もういいかな。だいぶ冷めちゃったし……」

聞かれておせちも、自分が手にする黒いものに、覇気のない目をしばらくの間落としてみた。

物を炒める音は、さすがにもう黒い鉄板のどこからもすることがなくなって、ならば、かき混ぜられた米をいたずらに

冷えていかせるだけの器は、自分にとってもうただの重荷でしかない、という事実だけがそこに残されていた。


「なら急げ!」

アシュリーは火の尾を引きながら「ワ」の字に膝を折り、着地しては、背に燃え立つ炎をチェーンソーのように唸らせた。

その音と気迫でもって、おせちに急を促したというわけだ。

「やった、ちょうどいいところにコンロが生えてきた……でも、この患者さん、生き返りますかね?」

フライパンを手にしたおせちは、咄嗟のことでつんのめりそうになるのをかろうじて堪えながら、いそいそと誘いに乗っていく。


「ビビらず思い切ってやれよ!チャーハンはな、でっかい焼きおにぎりみたいにするんだ!

火加減を気にしすぎてビチャビチャになるよりそっちの方が絶対美味しいからな!」

「それ、アシュリーがウェルダン好きなだけでしょ……」

憎まれ口を押収させながらも、おせちはすでに手を動かしていた。再び命を得たフライパンは、

彼女の手元で安堵して揺れ、それから数秒もすれば、少女の表情まで、いつもの穏やかなものへと戻っていった。


「一家の特級厨子、吉濱“おこげ”のアドバイスに間違いはない」

真名ではなく、あくまでジョークの一環だが、

ときどきアシュリーは自分のことを「おせち」になぞらえ「おこげ」と呼ぶ。


「おせちぃ……」

その小さな集まりに、この世に存在するありとあらゆる「飛び方」の中でも、とくに冴えない方のそれをするさなが流れ着いて、

「なに?」

「でもわたし、ピザ頼んじゃった……」

申し訳なさそうなひと言を、無音の着地にそっとつけ加えた。


「えっ、どうして?今日ちゃんと作るってあとで言ったでしょ?」

おせちの返しは、まるで年端もいかない子供の失敗を、やんわり諭す母親のようだ。

「朝にやらないって言ってたことだけ覚えてたんだもん!」

するとさなは、 乳児期の遺物が喉に引っかかったかのような独特の声で精一杯抗弁してみせる。

良心の呵責を拭うために、反射的に責任感を外へ押し出したのだろう。


「じゃあ、仕方ないかぁ。ま、報連相はちゃんとするべきだったね」

しかしおせちには、人生の初日から彼女との付き合いがあるわけで、

だからこそさなのぐずり癖に今更いちいち手こずってみせたりなどしない。


「おいおまえたち、料理は後じゃ!カモン!ハウスハウス!」

本堂の奥まった方角から、吉濱尊の呼びかけが飛んできた。続けざまに響いたのは、

頬を子供のように膨らませながら吹かれた、やや乱暴な指笛の音だ。


「大丈夫だ心配するな、古代インドの考えじゃピザは4頭のでっかい象の下にあって地球を支えてる。つまりなんでも乗る。

チャーハンも乗せればどっちの顔も立つだろ」

アシュリーは、腰を折ったままの姿勢でそう口にし、得意げな笑みを浮かべた。

訴えの無視という処理方法が、娘たちのあいだで暗黙の了解となったらしい。


「そうだね。じゃあ、ほうれん草も乗せておこう」

おせちは淡々とした横顔のまま、余計な言葉は加えずに手元のフライパンを操っている。

火の通った米と具が跳ね、まるで水面から躍り出るイルカのように、軽やかな弧を描いた。

一方、隣にしゃがみ込んださなは、青地に花火模様があしらわれた――いつぞやの祭りで貰ったプラスチックのうちわを手にして、

アシュリーの足元をゆらめく炎に、ささやかな風を送っている。しかしその働きは、全体の火勢にはまるで貢献しない。


「アシュリーがおこげなら、ウチは“おなか”がいい!」

そんなふうに元気よく名乗りを上げたのは、毛並みの整ったお腹を堂々と撫でさすりながら、大股でこちらへ向かってきたはちるである。

「じゃあわたし、“おかし”!」

さなも負けじと叫び、鼻先まで笑顔をこぼしてみせる。

「それ、丁寧語にすればもう何でも通っちゃうよね」

おせちは、調理に集中したまま、ぽつりとそう応じた。

言葉は薄笑いの気配も混じらず、あくまで日常の続きにすぎないという体で――。


「お前たち、話を聞く気はあるんか!?」

尊はふたたび声を荒らげた。言葉だけでは意志が通じぬと見たのか、母は子らの和気藹々とした――しかし、見ようによっては排他的な印象をも与えかねない輪の中へ、早足で切り込んでいこうとする。


だがその直前、はちるがいち早く動き出した。白い尻尾をゆるやかに振りつつ身を翻し、

自然な動きで、尊の進路に己の両腕を落としあてはめたのだ。

「まあまあママ、落ち着いて!」

「……はちるっ、なにをしとるどかんか!!」

尊は、まるで爪を頼みにかかっていくようネコのように身をよじったが、

どうにもならないのは、体格差が生む絶対的なリーチの違いがそこにあるからだ。

「どーどー!どー!」

母の子供じみた衝動に困り顔を浮かべつつも、はちるの態度には一貫して揺らぎがなかった。


「でもさお母さん、そろそろ夕飯時だよ? ご飯食べてからでもいいじゃん。お母さんの分もちゃんとあるんだから、そんなに怒んないで」

すったもんだのやり取りを見かねたか、おせちがようやく尊の方へ顔を向け、落ち着いた声でなだめにかかる。


その時である。

「すみませーん!ピザサファリでーす、お届けにまいりました!」

威勢のいい声が、障子を隔てたすぐ外から響いた。

「あ、はーい!すぐ行きまーす!」

「……コーラ取ってくるね!」

はちるは小柄な母の体をたやすく脇へと除けると、やんわりとした「ナルト走り」でその応対へ向かう。

さなも、筆が半紙をなぞるように静かなホバー移動で、飲み物を求めて別棟へと姿を消した。


親子の礼に始まる儒教の八徳――ふだんであれば、尊はそれらを殊更に意識することのない人物だった。

だがこの時ばかりは、その徳目の一端が軽んじられることに、稀に見るほどの反発を覚えた。

無理もない。これは彼女にとって、本当に重要な用件だったのだ。

それにもかかわらず、四人の娘たちはことごとく彼女を後回しにし、親の言葉を軽んじて憚らない。


「ぐぬぬ……」

尊は、声にならぬ嘆息をひとつ漏らし、ややうつむいたまま静かに耐えていたが、

やがて顔を振り上げ、何かの覚悟を決めた。

ちょうどそのとき、膝をそろえてかがんだおせちが、床に置かれた皿へと、しゃもじでチャーハンをよそいはじめようとしていた。


その間隙をつき、尊は怒気を込めた手のひと振りで、フライパンを強引にさらい取った。

「先に話と言っとるじゃろ!!」

その所作はまるで、大ぶりの平手を放つかのような勢いだった。


「あっ!!」

「……おっ、なにするんだ!」

虚を突かれたおせちは咄嗟に声を上げ、アシュリーもまた、怒りをたたえた目で母を振り返ったが、

尊はその反応に構うことなく、フライパンを抱えて玄関の方へと一目散に駆けていった。


……厳密に言えば、このお堂の大扉は、本尊を祀る広間へと直結しているわけではない。

和風の一般邸宅にも見られるような、こぢんまりとした玄関が間にひとつ挟まっている――それが実情だ。


その玄関では今、パステルカラーのセーターとスカートをまとった白毛の獣人少女が、

シーサーや赤べこ、こけしなど、各地の土産物が雑然と並ぶ靴箱の隅から、青い半透明のケースを引き寄せていた。

中から小銭を選び取り、くしゃくしゃに折れた1000円札3枚の上にそっと重ねて、配達員へ手渡す――ちょうどそういった場面だ。


繊細な体毛が密に生い茂るその掌は、実寸よりもいくらか膨れて見え、やわらかく、また温かそうでもある。

その手が滑らかに前へと伸びるのに呼応して、向かいの男性――黄色と黒の縞模様が入ったユニフォームと野球帽を着けた者――が、

両腕にかかえた箱を差し出す。そこには、焼き立ての麦の匂いと、少しばかりの人間の夢とが、湯気ごと詰め込まれていた。


「……ダメじゃっ!」


その叫びとともに、尊は風のような速さで両者のあいだに割り込み、

はちるの体を軽やかに後方へと押し戻した。まさに金と品とが穏やかに交わされんとする寸前、

それを「予定調和」と見なすがごとき空気に真っ向から抗い、彼女は声を張った。


「お金は支払いますから、これはすべて持って帰ってくだされ!」

ひときわ強い語調で言い放つその姿は、外から見ればまるで相手に詰め寄っているかのようで、

渡す側の店員は目を丸くして動きを止めた。


「えっ?いいんですか!」

「はい、どうか、お気になさらず!」

「あ、そりゃあどうもぉ!」

まごつきながらも尊の反応を好意と受け取った彼は、すぐさま態度を一変させ、

その場で豪快に箱を開けると、まだ熱を湛えたピザスライスを手に取り、

とろりとチーズをしたたらせながら、それをついばみ始めるのだった。


「ホカホカのチャーハンにコーラもありますからの!」

身を翻した尊は、間髪入れず漆塗りの盆を店員へと差し出した。

その上には、山盛りのチャーハンを盛った小皿が5つ、そして氷の浮かぶロックグラスに注がれた、茶色い、しゅわしゅわのソフトドリングが、

同じく5つ並べられていた。


「ああ、ありがとうございますぅ!……よかったら明日もご注文の方、ぜひともしてただいてこんな感じでお願いしますぅ!」

口内が旨味で満たされた彼は、はふはふと息を吹きかけながらも、なお笑顔を崩さない。

なんとも厚かましいことを言ってのけたあとのもともと剽軽な顔つきは、望外の幸福にすっかりゆるんでいた。


まもなくして、3種3様の足音が玄関先に募り、4方の空気をせき止めるようにして立ちふさがった。

「どういうつもりなの!」

先陣を切ったのは、さなだ。持ち前の柔声を、今は詰問の調子に染めて放つ。


「ピザ食べながらでもできる話だったら承知しないからな」

続いてアシュリーが応じ、強気な眉と声の鋭角で追い打ちをかける。

この瞬間の彼女たちは、まるで侵入者に気づいたケルベロス――3つ頭の番犬さながらであり、

尊の前に並んで立ち、遠慮会釈もなく詰め寄った。


「そこまで優先する用っていうからには、それなりの理由があるんだろうね?」

おせちもまた、冷静な口調で追及するが、顔つきは存外に鋭く、情に流されぬ気配を漂わせていた。

だが、そうした3人の問いを前にしても、尊は1歩も退こうとしない。


「もちろん“それなり”じゃ!だからこそわざわざテレパシーで呼んだんじゃろうが!……なのに無視しおって!」

目を見開き声を張ると、尊は、指をまっすぐ玄関の扉へ突き立て、こう言い放つ。

「今から日々の訓練を怠っとらんか、抜き打ちでテストするぞ!おのがじし、戦装束に着替えて前庭に集合せいッ!」

その一喝たるや、1対4という人数差をものともせぬ気迫があり、堂の空気は一転、凛として張り詰めた。


「えっ、最近そんなのほとんどやってなかったのに……なんでぇ?」

さなが思わず眉をしかめれば、

「そーだし、順番が変だ。腹が減っては戦は出来ぬって言うだろ」

と、アシュリーも口を尖らせる。


それに対して尊は、あくまで動じず、むしろ一段と声を引き締めて告げた。

「どうしてもじゃ!理由は終わってから説明する!……それと、終わったらちゃんと寿司を頼んでやるからの!」


――すると、その刹那だ。

「……ヤッホー!そうこなくっちゃ、さすが母ちゃん!」

「落として上げる、感情操縦の手本だね!」

「今度カラオケで『Dear Mama』歌ってあげるから!」

「ヤッピー!」

呆れるほど現金な娘たちは、手のひらを返すがごとく満面の笑みを咲かせ、踊り出した。


手をつなぎ、軽やかなステップでその場を回りはじめたのは、さなとアシュリー。やがて他の2人も、これに続く即興の

自由なダンスをする。狭い玄関の空間は、さながらクラッカーが乱れ飛ぶ祝祭のごとき喧騒に包まれ、

その目映さと賑やかさとに、尊もまたしばし呆然とせざるを得なかった――が、それもまた、

この一家らしい日常の一景なのだった。


寺の本堂の外観は、どう贔屓目に見たところで清潔とは言いがたい。目に映るかぎり、建材の奥深くにまで沁み込んでしまった経年の痕跡――染み、カビ、灼け、ささくれ、剥がれ――は、今さら取り繕える類のものではない。見る者の胸に、「古び」という言葉の本義をしみじみと思い出させるだけだ。


だが一転して、前庭の景色はどうだろうか。これは、掛け値なしに壮観だ。


山門から本堂へと至る長い石畳の参道には、1000年の古味が惜しみなく降り積もり、

全体をしめやかに包んでいる。それは、いわば無機質の発酵であり、参道の両脇を守護するのは、均整の取れた背高の石灯籠群、敷き詰められた砂利の上に描かれた山波模様は、

呼び出しの直前まで、はちるが丁寧に手がけていたものだ。

寺の左手には幾峰も姿を連ねた杉山があり、右手には広葉樹の木立が借景となって、石の空間に一定の柔らかさを注ぐ。

その理路整然たる構図は、禅の祖師・達磨が得た冷徹な悟性を、できる限り忠実なかたちで地上へと写し取ったかのようでもあり、

未修の者にさえ、極東的禅定世界のあらましを直観的に伝える力がある。


もしこの作庭が、そうした世界観の顕現を意図してなされたものであるならば、そのこころみは、

ものの見事に果たされていると言っていいだろう。


大山林の一角を間借りして建てられたこの古刹において、前庭とはまさに、そういった風趣の極まる場所だ。


みすぼらしいがゆえに、色使いや構えに気取ったところがなく、ある意味では地に足のついた素朴な雰囲気がある

お堂の前――その場には今、白走ほわいとらん市中の地域猫たちが一堂に会し、さながら初詣の賑わいを

みせていた。


やたらと丈が低い群衆の中にあって、吉濱家の人々の姿はひときわ目を引く。

猫たちの間を縫うように立ち、ある者は伸びを、ある者は屈伸を、それぞれ気ままに準備体操などして、

代わり映えのしないこの画面に、ささやかながらも華やぎを添えていた。


い草円座の緻密な編み目を想わせて住所不定のネコたちは円形に並んでいる。その中心点がどこに置かれているかを見ればわかるように、

彼らの目当ては基本、はちるであり、ネコたちが、ジャンプしながら投げかけてくる鳴き声のひとつひとつに、

しゃがんでいる獣人の少女はいちいち親身になってうなずいてやっている。


このはちるは、活動性が非常にたかい黒の革服になっている。ブラジャーとホットパンツを素地として、

肩のプロテクターとか、パンク風のベルトが数ヶ所をきつく締めあげる拘束衣めいた袖とか、長くて厚手の腰みのとか、

素地として挙げた2品以外のあらゆる意匠が右側にだけ存在する、ノムリッシュなヒロイックさに満ちあふれた服だ。


おせちの格好に変化はほとんどない。ただ、覗き穴があるピンクの鉢巻を目のたかさに巻いただけだ。


さなは、かつてのジャージ姿を脱ぎ捨て、まるで異なる装いになっていた。頭上には、うさ耳をあしらったフードが優雅に立ち上がり、

首元からはそのフードと一体となった道袍を着る。それはあきらかに特注のデザインで、

きめ細やかな生地の長い前垂れは2股に分かれ、まるで水辺に漂うクラゲのような、柔らかな印象を全体に与えている。

金糸でされた細部の縫い取りもまたみずみずしく、しなやかなスパッツやオーバーニーソックスは、しっかりと彼女の足の根を支え、

動きやすさとともにその妖しさを深めている。


「『クライマーやオールラウンダーは作られるもの、スプリンターは生まれてくるもの』というロードレースの格言を知っておるか?

わしは神頼みで強くなったわけではない、努力したのよ。

ゆえに当オールラウンダー流魔術の門下生たるお前たちにもわしは日々の努力を求める」

まったく稽古前におこなわれる訓示の調子で全員の前を右に左に彷徨しながら、そういったことをつらつらと尊が口にしていると、

「それ前も聞いた」

姉妹随一の不心得者、アシュリーが口を開く。


「年寄りのする話というのはな、何度でもありがく聞くもんじゃ」

「違う、そんな昔の話じゃなくて昨日だ。昨日聞いた」

「……嘘じゃろ!?」

たちまち茫然自失する尊に炎髪灼眼の少女はせせら笑いの一瞥を加え、向かってくる風さえそのまま着こなすかのような洒脱な歩みで前に出る。


テストの1番手を買って出た彼女は、洋物ビール缶の柄がボディコンドレスのよう全体にプリントされた

スカジャンを制服の上に羽織っている。

おせちとおなじくアシュリーも、召集の前後で服装には何も変わりがないということだ。

つまり、彼女が言う「着替え」とは、52枚すべてが並べられたトランプの札が端からめくり返されていくかのように、

肉体をまったく別の形態へと原子単位で変容させていくことにほかならない。


実年齢マイナス10歳の饅頭顔、四六時中への字に結ばれたえらく小ぶりの口、 取り返しのつかないほど長く、無造作に乱れた赤髪、

ツンケンしたひし形の眉――つまり、総髪・無精ひげの野武士と無垢な幼児の断片を集めてひとりの人間としたこの小娘は、ポケットに手を突っ込んだまま母からの合図を待つ。

世に不満抱くところ多いゴロツキのようなその目は、どんなキャンバスよりもずっと広いはずなのに、ただ褪せた青の1色ばかりで

ぞんざいに塗りつぶされる空のことを一途に見つめ続けている。


「……ごほん!アシュリー、いやさホットショット、この青天井の中でならいくらでも好きに飛んでなんでも燃やしていいからの!」

尊の言葉は、試練の開始を告げる暗黙の宣誓にほかならず。刹那、吉濱アシュリー――通称ホットショットは、自分の意志にて全身を炎に包み、

人も樹木も凌ぐ火の波であたりの大気を押し退ける。かと思えば、またたく間に離陸を果たし、初動の一瞬、飛散の方向にわずかな迷いがみられた炎を、

すみやかに1柱の焔へと束ね、この冴えわたる悠久の天地に、細く麗しく立ち昇っていく。


「ああ、ミズーリの空高く(Beyond the Missouri Sky)まで行ってくるのもいい!」

焔を纏った両腕を軽やかに広げ、燃え盛る胸で風を存分に受け止めるホットショットは、

音速の壁を、マッハコーンの一閃で軽々と打ち砕き、なおも自由に、悠然と飛距離を伸ばす。


「その前にこいつを打ち落としてからな!!」

尊が叫べば、広大無辺なる蒼穹に、燦然と輝く輪や球体が瞬時に幾つも飾り立てられた。

その存在感は、太陽を主宰者とするこの白昼の天にあって、微塵も色褪せることがない。

これらの仕掛けは、ほかならぬ吉濱尚武尊――通名なら吉濱尊、ヒーローとしては「オールラウンダー」の名で知られる自然霊が、

自慢の神通力によって生み出したものにほかならない。


炎の放物線を描き、青空を統べる不遜な星々の原野に落ちていくホットショットは、

標的を射程に収める距離に至ると、蛇のごとく地を這う動きから一気に跳躍し、機動の質を瞬時に変えた。

巡航ミサイルの極限に等しい速さは保ちつつ、従来とはまったく異なる、直角の立ち回りを繰り広げ始めたのだ。


光球を破壊し、輪をくぐり抜ける――このルールのもと、彼女の試練は執り行われるのだが、最短での攻略をめざす場合、その、輪っかの方の配置がかなりふざけている。

ピンボールがゲーム台の壁を跳ね回るような動きを、己の身でもって再現できなければ、決められた時間内にクリアするのは不可能に近い。

それでも、制動力でこの世に並ぶものがない飛行物体は、6つの対向する輪の間を電光石火の風格で駆け上ることから、この困難なゲームにおそれず手を付けていった。


「鋭角」かつ「速やか」な三次元の蛇行が、光る輪でできた小惑星帯を外縁の一角から着実に侵食していく。

傍目にも無理があるその軌道が、彼女の身体にどれほどの負荷を強いているかは想像に難くないが、

それでもホットショットは、身体に最も過酷なひねりを加える瞬間でさえ、しなやかに振り回される両腕から、

灼熱の奔流を一定のテンポで放ちつづけていた。


その内訳は、サッカーボール大の火球と、ボトルほどの細さのレーザービームだ。

いずれのエネルギー弾も、輪の広大な領域に紛れ込む光の群れや、その周辺の宙域に散らばる輝きに、紅のビームを的確に届け、核心を精密に撃ち抜いて粉砕する。


光景には、常に痛快な魅力が付きまとうだろう。彼女の攻撃はまず視覚的に華やかで、しかも標的の破壊は、放たれた弾の数に対して100パーセントの確率で起こることだからだ。


「吉濱さんとこ、久しぶりにやっとるねぇ~。見事だねぇ~!」

「ま~ま!変なのとんでる!」


各々の家のベランダや、近くの道路に居合わせた人々にとって、この試練は地域の花火大会にも匹敵する見世物になった。


7本ないし8本の光線が、一斉に手のひらから放たれ、空気を切り裂くように飛び交う。

「……ヒュウッ!」

その一閃が横合いにあった光の群れを一掃した瞬間、稀代のパイロキネシストであるホットショットは、風の轟音を引き連れて旋回し、

あざやかに元の位置へと舞い戻ってこう言い放つ。

「安心してください、運営さん、ただの人力チートですよ!」

小さな超新星の爆発が連鎖する前に、勝利と征服を象徴する灼熱の航跡を刻み続けることで、彼女は、その光景全体をまるで首輪のように束ね上げた。


「……名はアシュリー・コールに倣ってつけ、そのキャプテンシーはスティーブン・ジェラード譲り、ポール・スコールズの精巧さと、ハリー・ケインの決定力を併せ持ち、機動力はカイル・ウォーカーを彷彿とさせる。つまり、うちのアシュリーはスリーライオンズをたったひとりで体現する存在なのよ!

……まっ、そのせいか素行にまでジョーイ・バートンという良からぬ手本を得てしまったんじゃがな……」

高空を見上げ、赤毛の娘の活躍に満足げに腕を組む尊は、「ジョーイ・バートン」のくだりだけを、まるで題目の重要でないところを読み上げる坊主のようにくぐもった早口で言い終える。


「……キーパーアシュリー、ショートパスを選択!見事にボールを捌き、素早く左サイドへと展開していきます!

相手のプレスをうまくかわしながら、ここで大胆なサイドチェンジ!絶妙なタイミングでパスを送り、相手ディフェンスの背後を取った!」

「胸で落としたアシュリー、今度はクロスが浮き球に……!ボールが弧を描き、空高く舞い上がる!これ、どこまで行く!?

そして、ポケットには抜け出した10番アシュリーが待機中!あのスピード、あの位置取り!まさに狙い通り!」


その間も焔の少女は、自身でするサッカーの実況に忠実な動きで青いピッチを縦横に駆け巡り、

手から放たれる弾頭を意味ある爆発へと変え続ける。


人造の星々が一掃された空は、しばらくの間、ただのほの明るい青の底となり、

ホットショットは静かな動きでその中を自由に漂いながら、こう呟く。

「でもなぁ、ちょっとタイムに余裕がありすぎるんだよな……」

その目には、どこか思案の色が浮かんでいた。ゲームにおける「メタ読み」の思考だ。問題の出題者をあの母だとすると、

事がこうも順調に運ぶのはおかしい。


……するとその瞬間、まるで滅ぼされたすべての存在が再び結集し、最後の決戦を挑いどんでくるかのように、彼女の行く先に巨大な光球が現れた。

その光球は、8方向へ伸びる眩い光芒を放ち、圧倒的な存在感でいきなり空を支配した。

「……ほらな!あの不肖の母はこういうことをする!」

予想通りの展開に、ホットショットは満足げににやりと笑い、次の挑戦に取りかかる。

光体は、単なる一撃ではとても砕けそうにない。


空を統べる少女は、まず戦闘機のマニューバでいう「ループ」を遠くの空域まで決めにいく。

その広大な軌道が、まるで紐を結ぶように緩やかに折り返す瞬間、彼女は胸元に巨大な火球を収束させ始めた。


これまで彼女が多用したエネルギー弾は、連発のために大きく育てなかったが、この場に限り、

着弾点にどれほどの破壊をもたらそうとも納得のいく巨大な火球を、両手から一気に解き放った。


「太陽の数を減らして温暖化問題に貢献するアシュリーちゃん……偉いよな!」

ホットショットの体よりも大きな火球――小型の太陽を思わせるそれは、彼女自身を上向きに押し返すほどの反動を生み、単調な滑走を続けて標的へと突き進む。

ふつのエネルギー塊が、「着床」というべきかたちで交差した。受け止めた球には、瞬間、泡の群れが致命的に吹き上がり、

また次の瞬間には、その泡が引き裂かれたところから、青空を縦に貫くような巨大なキノコ雲が生まれた。


「……ゴラッソォ!」

閃光と轟音、紅炎の殻を突き破り、黒煙が爆心地から立ち上る。その高さは約50メートルに達し、なお収まる気配を見せない。爆心地の直下に位置した

杉の群れは、空気の激しい流動によって、一時は放射状に倒れかねないほど、絶え間なく上下に揺さぶられた。

「ふーっ!視界は良好、いい調子だ!やっぱり空は私のものだな!!」

ひと仕事を終えて満足のホットショットは、足を「4」の字に、両手を「ハ」の字に構える――彼女にとって「なんとなくかっこいいポーズ」で

空にしばらく滞留した。


「よし上出来じゃ、”あめりか”まで行くならパスポートはちゃんと忘れずにな!――」

1人目の挑戦を最後まで見届けた尊は、視線を大きく下方へと切り替える。

「――次、スヌープキャット」

その呼び声が響くなり、

「うん!」

雪のような毛並みに黒革のコスチュームをまとった大柄な獣娘が、握り拳を胸元で力強く叩き、勢いをつけて歩み始める。

地域の猫たちが、どの個体ともなく静かに退いて開けた道を、彼女は王者の風格で進んでいった。


アメリカ軍の現行世代戦車、砂漠色に塗装された「M1E2エイブラムス」が、広大な禅庭の片隅に堂々と停められていた。

正面から見ると、戦車の砲塔は2層構造の菱形をなし、左右の角部には細長いスリットが刻まれている。

その隙間には、電磁気的な機能を担う四角いパネルが、歯列のように整然と上向きに並び、”これ”が、装薬弾を撃つことは決してないと確信させる。

近未来的な弾頭射出装置をお堂へと向けたこの装甲戦闘車両は、吉濱ファミリーきっての肉体派――クリスマスツリーのように跳ね回る長い髪と、

くすんだ白の体毛に覆われ、どこまでいっても「毛」の印象だけは拭い去れない少女と、一定の距離を隔てて対峙することになった。


行き場ないエンジンの力でたえず散漫に揺れている戦車には、強烈な不穏さがあり、

背景に広がる瓦塀と灰砂利の日本的な風景が、その不協和を一層際立たせている。

「設定終わったー!20秒だからねー!」

2020年代に現役だった「M1A2」と比べ、輪郭の簡略化が相当すすんだ砲塔部のキューポラから、バネ仕掛けのいきなりさで人の上半身が飛び出してきた。

それはさなだった。黒い道服を身にまとい、巨大な萌え袖をまるで旗のよう振り回してから、戦車を降りる。

「わかったよー」

スヌープキャットは、自身の立ち位置で、まるでクラゲのように無重力に参道を引き返すさなと短い言葉を交わす。

「まず50口径からね」

「うん」

すれ違いざま、スヌープキャットの返答を耳にしたさなは、きょうだいの肩を優しく撫でるように触れながらその場を去った。


人の脛くらいの高さを棚引くもののように聞こえていたガスタービンエンジンの音が急に1オクターブ高まったことで、

エイブラムス戦車が目を覚ましたのがわかった。

動き出しは瞬く間である。砲塔の頂部に据えられたM2マシンガンが、ガンナーも不在のまま、連続する排煙とともに直径12.7mmの円錐弾を噴き出した。

この武骨なヘビーマシンガンは、駆動部のぎこちなさを圧倒的な馬力で補い、発射までの流れを力ずくで滑らかに仕上げる。

その猛々しい射線の約30メートル先に、雪色の毛に黒い斑点を浮かべたネコ科の獣人が、静かに立ち尽くしていた。


一瞬にして身の危険に晒されてしまったスヌープキャットだが、しかし彼女にはどうもその当事者意識がない。両手を腰に当てた仁王立ちで、己の勇猛を示すがままなのだ。

1発1発が人の指大にもなり、標的が1枚のブロック塀だったとしたら発泡スチロールも同然に粉砕するし、

3枚並んでいても貫通できるほどの威力をもつ弾丸の列が、1秒もしないうち、そこには殺到した。


しかし、冷酷な運命が、かならずしも天の定めた結末を導くとは限らない。多くの者は予兆すらなく訪れる悲劇に膝を屈するが、

桁外れの存在が相手ならばどうなるか。スヌープキャットは、まさにその仮定を体現する者だった。

人間、知的生命体、ひいてはあらゆる生命体が持ちうる能力の中の、最も明白な点で彼女は桁外れだった。物理的な強靭さだ。


弾頭の1発ごとに15000Jの運動エネルギーを宿して、200回以上も繰り返された生命への突撃は、

ただの1度も、彼女の、タンポポみたいな体毛の層を突破できなかった。

「……触った感じもしないね、こんなの!」

今、スヌープキャットの身体は、調子に乗った子供の指が干潟に次々と穴を開けたような状態になっている。だが、それでも彼女の顔は常に明るく愛くるしく、

その自信の通り、攻撃を受けている間彼女は微動だにしなかった。


「……安売りのイモみたいにしてベビーベッドに並ばされてた頃から、こいつの毛はチリチリしてたまらなかった。

それが最古の記憶になるくらいにな。また被害者が増えるみたいでうれしいよ」

上空を漂うホットショットは、彼女らしい言葉で風変わりな姉妹を称賛する。


「つぎ主砲ねー!」

先の結果を顧みないなら、さなの宣言はあまりに無情に響いた。道袍の袖にすっぽり隠れたリモコン型のスイッチが、

彼女の指でかるく押されると、山門側の風景に壮大な変化が巻き起こる。砲身が最終的な照準を終えると、砲の奥が青く輝き、

1条の電撃が先行してほとばしり、直後、直径90mmの実弾が空へと解き放たれた。


クルーザーのキャビンを思わせる流線型の、未来的な砲塔から放たれるレールガンの1発は、水平に疾る落雷そのものだ。

極超音速で因果を冷徹に繋ぎ、発射と着弾が同時と見紛うほどの速さで展開した。

「――!」

結果はこうだ。戦車砲弾は、雷鳴と迫力でスヌープキャットの私設応援団であるネコの群れを四散させ、

物的には彼女の腹部に椀を押し当てたほどの凹みを残した。

だが、そこまでだった。先の小粒な弾丸と同じく、呆気なく退けられたのだ。

運動エネルギーが蒸発してしまえば、それ以上の出来事も何も起こるまい。


このレールガンの貫徹力は、M1A2エイブラムスが採用する主砲「ラインメタル120mm L44」の約3倍に引き上げられているが、

超人の中でも肉体派の連中を倒すには、まだ改良の余地が大いにあると言えそうだった。


……だが、もし君が「吉濱はちる学」の門を、いまようやく叩いたばかりの初学者だというのなら――

今のうちに、私からどうしても伝えておかなければならないことがある。

この獣人の少女が、真に唯一無二の力を振るいはじめるのは、まさにここからだと。


それは単なる超常の技ではない。ある種の特異な体質を資本にした、一種の“身体芸”とも呼ぶべきもので、

その類のものには必ず、予想を覆す出来事がついてまわる。


もしも前提知識が一切ないまま話をこのまま読み進めてしまえば、

事の“始まり”――まさにその決定的な瞬間を、君は驚くほどたやすく見逃すことになるだろう。


……ご覧なさい、技の兆しはもうそこに現れている。

スヌープキャットの、全身に頭髪の密度で生え揃った被毛たちの土台の役目を果たす筋肉群――じつはこれが、

あの戦車砲弾を受け止めた直後から、異常な方向に柔軟しはじめていたのだ。


「ムククッ……」

「モニュッ……」

白く繊維質な雪原を思わせる体毛に、半ばまで没していた砲弾たちが、

ゆっくりと、まるで磁力にでも導かれるかのように、次々と体内へと呑み込まれていく。


かつて、スヌープキャットの慈悲によって一時は沙汰を保留されていたそれらの「侵略的な異物」は、

結局のところ赦されることなく、粛々と刑の執行を迎えることとなった――この奇異な光景については、

そう例えるのが、的を射ているかもしれない。


そして事実、すべての弾丸がその弾底まで呑み尽くされたとき、

彼女の前半身の毛並みは、ただの逆立ちでは済まされないほどの爆発的な反応を見せた。


「まさかここまで伸びるとは」と思わせるほどに、それは一瞬にして総毛立ち、

ついには、体内に取り込まれていた弾丸の群れが、侵入時と遜色ない猛威をもって、

四方へと、怒涛のごとく撃ち出されたのである。


……これぞ猫の妙術!寺を囲う土塀のあちらこちらに、超高速の質量が叩きつけられた痕跡として、鋭角に尖った土煙が一斉に舞い立った。


「前のヤツよりは強かったけどこんなもんかぁ」

大国が誇る先端軍事技術とやらの陳腐さに拍子抜けしてしまったスヌープキャットは、ネコ科の遺伝子がうかがえるしなやかな軌道を描いて

首をゆるりと落とし、レスリングのふところ深い構えを取った。

顔の下部――その、逆さにしたカモメと見紛うような口元――が、さらに広がりをみせていく。


対するは、弾痕まみれの寺院の一角。

そこでは、鉄の履帯が信じがたい速さで唸りを上げ、その上に乗った60トンもの鋼鉄の巨体を強引に前へと推し進めんとしていた。


自動操縦によって爆進する戦車と、低空タックルを仕掛けるスヌープキャット。

両者は、真正面から激突し――次の瞬間、地上には、晴れやかに「人」という文字が刻まれた。


「……さすがよはちる!獣人の中でもさらにすぐれた怪力でその毛並みは硬軟自由自在、在りし日の高天原でもこれほどの勇士はついぞ見なんだ!」

と、尊は胸奥の血潮が煮え立つのを抑えきれずに呟いた。


「人という字は、人と人とが支え合ってできている」――金八先生のそんな教えはよく知られているところだが、

今この瞬間に出現したその「人」の形は、元のなりたちなどよりもはるかに神話めいていた。

小さな獣人の掌が、大いなる鋼鉄の戦闘車両を大地から浮かせ、底面を支柱のように真っ直ぐに押し上げる。

そうして完成された字形は、日常語における「支え合い」などとうに超えた、荒々しい均衡の構造の具現だった。


……そういえば、スヌープキャットの口元も、どこか人という字に似ていなくもないか?……いや、これは私見だ、忘れてほしい。


キャタピラをもがかせてなお進まんとする戦車の車体を、なんら気負いを見せぬ一挙動で、そのまま天へと持ち上げたスヌープキャットは、

「もう終わっていいの?」

と、無邪気な調子でゲームの主催者に問いかけた。尊は、その問いに応じるように、両腕で頭上に大きな丸を描いてみせる。


ぼさぼさの長髪が後ろ姿のほとんど全印象を占める少女は、

宙に弾ませた全長10メートルの車体を、やおら両腕を掲げて構え直す。

それは、天空を仰ぐようなベアハッグの構えであり、


轟音一閃。


たった1度の抱擁にて、鋼鉄の巨塊は、まるで閉じられてゆくアコーディオンのように、複雑怪奇な壊音をともない粉砕された。


「んじゃあおせちにそいつをやっとくれ、それでお前の試験は終わりじゃ」

「ん〜……」

「……準備運動の続きみたいな話だったね!」

まず満足感から出たものではないだろうその感想。

スヌープキャットは、鉄塊を片手で軽々と宙へ放る。もとは60トンの戦車だったものが、人の腕によって無造作に浮かされる姿は、

まちがいなくマグリッド的シュールレアリズムのひとひらだ。


「ブンッッッ!!!!」

突如として白い獣人の拳がうなりを上げれば、その先端には、烈風のきざしが灯った。

空気を裂く音が場を支配し、地表スレスレ、天地の際を撫でるような高さを、風の螺旋をしたがえて彼女の拳は巡りゆく。

その低められた姿勢のなんと野性的なこと、舌をお茶目に飛び出させてせり上がる顔の、得意げなこと。

暴風が空間にきざんだ、しなやかにして苛烈な線条が、鋼鉄の底面にやがてめり込めば、

物のにぶく破砕する音は、瞬間、この世界の特異点となって、風も、音も、すべての感覚がそれを期に反転する。


重力の呪縛は断たれ、60トンの戦車は、呆れるほど爽快に空へと打ち放たれた。


いまや紙くずと呼ぶ方が実態に近い鉄の飛翔体は、寺院の敷地をはるかに逸れ、とおく杉山の中腹へと吸い込まれていく。

「下ごしらえはしといたからー! おせち、あとの調理は任せたよ!」

はちるの目の先、”殴り飛ばしたモノ”の落下予定地点――崖肌がむき出しとなり、風化した岩盤に横縞の模様が走るその一角に、

ひとつの孤影が、まるで風に紛れるように佇んでいた。


「う~ん。なんか“あり合わせ”な気がするなぁ、私のテスト」

その声音に、際立った抑揚はない。ただ、ほんのわずか、機嫌を損ねた少女の気まぐれが含まれていた。

吉濱おせちは、象徴的に裾を引くカーディガンの袖から両手を抜き、懐手のまま、畳んだ指先を口元に当てている。


その左腰に吊られているのは、銃とも剣ともつかぬ奇妙な兵器だ。現代風のレザーシースに納められたその1振りは、

まるで武者絵に描かれていても違和感のない風体で、風雅に閂差しにされている。

湾曲した黒樹脂の柄、無骨なリボルバーシリンダー、そしてトリガーやトリガーガードといった各所の機構は、

陽の光にあまねく照らされることで、特に輪郭の上辺において線がやや白みを帯び、

まるで実像から浮かび上がっているかのように見えた。


しかしこの、「ガンブレード」という武器の核心はなお鞘の奥に秘められたままである。

少女は、迫りくる試練にまっすぐ目を向けながら、静かにその刻を待ち受けていた。


「……お前の出番じゃ!!”イムノ”!」

母の檄が届けば、この乗り気でない少女の瞳を、光の弧が端から端まで鮮やかに駆け抜けていった。

眼差しの奥で戦士の意志が燃え上がり、烈しく輝きだしたのだ。刹那、呼ばれた名に応じるようにイムノは、

佩いたダンビラの刃物を、銀の残像を残すのみの速さで抜き放った。

その動作は筆の舞のごとく。下から上へと空を斬り上げる一閃は、「∞」の軌跡を空中に刻み、風を殺伐と唸らせた。


信じがたいことに、まるでヌンチャクや片手剣を操るかの如く、学生服の剣士は巨大な刃を肘から先だけで自在に振るう。

「ソイルっ……」

小さく、だが心の奥からにじむように、少女は聞き慣れぬ言葉を呟いた。それは祈りか、呪文か、あるいは彼女だけの誓いだろうか。

空いたもう一方の手が腰のポケットを滑れば、指の間には細長いガラス瓶が1本、忽然と現れる。

瓶の中では、淡く発光するような黄色の粉末が揺らめいていた。


親指の軽いはじきで瓶を宙に放つと、次の瞬間、イムノは迷いなくガンブレードに両手を添えた。

関節じかけの巨大なヒンジが開き、重厚な機構音とともに、刃はふたつ折りに畳まれていく。

宙を舞うガラス瓶は、まるで導かれるように、剥き出しになったリボルバーシリンダーへと吸い込まれ、正確に装填位置に収まった。


指の腹が瓶の底をかるく撫でるのは、最小限の仕上げにすぎない。豪快に銃身を引き戻し、流れの中で撃鉄を起こすと、

制服の剣士は粛然と身を丸め、まるで餌をついばむ鳥が高く尾をかかげるように、刃筋を極端な角度で構えた。

誇張された居合の姿勢から、剣先のわずかの揺らぎさえもついに取り払われる。


エネルギーの集中がはじまった……。周囲の空間が暗転し、雷光の余燼を彷彿とさせる青い光を己の輪郭上にだけほのめかして、

「……我が力っ!」

その一声と同時に、彼女の足元には細やかな震動が走り、岩地がざわめく。

次の瞬間、地をブロック状に打ち砕く踏み込みとともに、イムノは稲妻を纏って空へと舞い上がった。

その飛翔は、音を置き去りにし、光さえ一瞬、追いつけない。


その少女が、桃色の学生服をまとい、天へと飛翔するさまに、ひとびとはふと――身を投げる者の孤独な決意を重ねてしまうかもしれない。

すべての安全はその瞬間、ためらいなく放擲され、彼女の姿は、ちょうど片刃の鋏のように不完全でありながら、

その欠落ゆえにこそ鋭利をきわめる。

まるで、長生きに価値を見出すことをすでにやめてしまった者が、どこかでひそやかに誓った本懐のとおり、

躯籠(むくろごめ)なにかと刺し違えんとする、そんな、救いがたい執念の結晶として、少女は身ひとつで空を裂いていく。


だからこそ、その身体を縫いとるように奔る電撃は、勇壮な後押しではなく、死出の旅路を駆ける原動力としか映らない……そう、

普段から彼女の肌に触れ、息づかいを共にできなかった者にとっては、だ。


吉濱家の面々は、落下した戦車の描く放物線と、そこに向かうイムノの軌道がやがて交差し、

その交差の果てに、まばゆく銀の剣光が残されるだろう数秒後の未来を、誰ひとり疑ってはいなかった。

いや、それどころか――その場に立ち尽くし、固唾を飲んで結末を見守るという観望者のささやかな礼儀すら、

彼女たちにとっては、どだい不要のものだった。


イムノの斬撃は、常人の動体視力にはすれ違いざまの胴打ち1発としか映らなかったが、

その軌跡には無数の価値が秘められていた。接触の領域を抜けたイムノの、急速な飛翔にわずかなゆるみが生じ、

懸命に導いてきた電撃の尾がほつれ始めた瞬間――まるで空中の残心を思わせる刹那に、

彼女が置き去りにしてきた巨きな鉄塊の継ぎ目が、ぱっとあきらかになったのだ。


細かく切り分けられたそれらは、もはや地を震わせるほどの質量を持たず、

まるで包丁の棟でまな板から払い落とされた野菜のように、

崖の上の平らな岩場へと雪崩れ込み、転がり、弾み、滑っていく。


破断の形と重さに応じた、それぞれのわずかな余生を演じきった末に、

鉄クズたちはみな、音もなく、あるべき場所へと収まっていった。


「これよな、おせちの本質は!グレイスカルの力を継承した宇宙最強の剣士!……おせちー!お前ももう戻ってきていいからのー!!!」

「撃つのはー!?」

用を終えたイムノは、山肌に石ころのよう軽やかに着地し、衝撃を吸収する一瞬、縦に引き締めた姿勢をゆっくりと元にもどした。

やまびこの代わりに母へ呼び返す声は、澄んだ空にひびきわたる。

「……もう的を出すのがしんどうなってしもうたからナシじゃ!そもそもわし砲術なんてやったことないし!剣技がそれだけ冴えとったら射撃の方も推して知るべしということよ」


「……」

一瞬にして手持ち無沙汰となったイムノは、ライフルと剣が融合した特異な武器の柄を、

まるで22口径のハンドガンを扱うかのように軽く両手で握りしめる。

ふと視線を上げると、空に取り残された最後の破片が、緩やかな弧を描いて落ちてくる。


その瞬間、彼女は装弾数ぴったりの6発を、まるで楽器を奏でるようなリズムで放ち、破片を正確無比に撃ち抜いた。

弾丸は光の尾をひき、破片をこまかな星屑に変えて虚空に散らす。

その鮮やかな6連の狙撃を終えれば、イムノは肩を落とし、トボトボと境内へと歩を進める。

だが、その余技――彼女自身すら意識せぬ一瞬の芸当――は、並のガンスリンガーが到底及ばぬ領域だった。

この世に、彼女と肩を並べ、同じ技を軽々とやってのけると胸を張れる者が、果たして何人いるだろうか。


「あのゴミさ、誰が捨てるんだろうね」

境内に戻ってきたおせちは、何気ない調子で雑談を切り出す。


「ね」

はちるが相槌をうつと、

「そゆのはな、ふつうのゴミに少しずつ混ぜればいいんだ」

アシュリーがすぐ、彼女流のサグい答えを振りかざす。


「そうだ、アシュリーが溶かせばいいよ!」

すると、はちるが自信満々になってそう言った。

「冬場の暖房以外にこれ以上仕事が増えるのか?

でもそれいいかもな、ヤバいゴミを有料で燃やすビジネスをやればきっと儲かるぞ」

「うーん、それは多分本当に儲かって取り返しがつかないことになるからやめたほうがいいね」

おせちは、3人が並ぶ前に折よく吹いたそよ風に、そんな言葉をつぶやくようにして託した。


尊は、3人の少女たちより1歩前に位置し、

「そしてゆけ、ミーティス!もっともオーソドックスなソーサレス、わが権能の正統を継ぎ、その昇華にまでいたった掛け値なしのうずの子よ!」

厳然たる姿勢を保ちながら、最後の1人を試練の場に向かわせようとしている。

「はぁ~い!」

やや間延びしたその返答は、明るく澄みながらも、それと同時にどこか浮世離れしている。

どうも彼女からは、言葉遣いだけが巧みになった“ややこ”の印象がぬぐえない。


号令が下った瞬間、うさ耳フードの道士ミーティスは、境内の砂利を魔力の“吹かし”で弾き飛ばし、

白熱の弧を描いてその場から爆発的に飛び出した。


広い境内を疾走するミーティスの胸元で、ひとりでにせわしなく重ねられていく――言い方を変えよう、リフルシャッフルされるのは

トレーディングカードではなく新品の呪符だ。向かい風に揺さぶられ、ぐらつき始めたその束は、

ある時臨界点を超えて膨張し、無数の薄片に変じた。それらは風に乗り、

ミーティスの白い顔や肩をかすめ、激しい軌跡を描きながらはるか後方へと散っていく。

だがそんな、混沌の時間も長続きはしない。

呪符は突如反転し、速度を増して軌道をととのえ、彼女のまわりを取り囲んで滑るように並走し始めたのだ。


ミーティスに課された試練は、突如としてその姿を現した。

境内の大庭、古びた羅漢堂の長方形の側棟。その窓が手前から奥へと連鎖反応のように次々と炸裂し、

重厚な扉が内側から蹴り破られ、粉塵と共に砕け散る。そうして開いた無数の穴から、黒い影が一斉に噴出したのである。


"彼ら"は瞬時に2手に分かれ、息の合った行動を開始した。前転で境内へと躍り出た1群は、

照り付ける陽光によって纏っていた濃い影を徐々に剥がして、中から銀色の外装甲をきらめかせつつ、身をひるがえして屋根瓦へと舞い上がった。

そのまま左手で忍びの印を結び、右手は背負い刀の柄に添え、電線上に整列したカラスの群れさながらに、いったんは冷徹な視線で下界を睥睨する。


他の一群は、ただちに攻勢に出た。軒下に落ち着いて、緻密な歩調で地を進みはじめ、鬼気迫る殺気をまといながら、

腰だめのライフルで移動中のミーティスへと熱烈に実弾を射かけていく。

「あっ、そういうの!」

かくしてミーティスは、不意打ちで現れた原子力ニンジャアンドロイドの2個小隊を相手に、そのすべてを討ち果たす試練へと身を投じた。


防衛費の潤沢な大国の軍隊では、近年、完全自律型のロボット兵団はもはや珍しい存在ではない。

銀光りの頭巾をかぶり、目の位置には赤いライトが威圧的に灯る鋼鉄の戦隊を左手に望み、

ミーティスは重心を傾け、境内を半周して交戦の意志を示す。


その動きに応じ、無数の札が一斉に一方向へとスライドし、集団ごと壁のごとき形を成して防御にあたる。

はじめに襲来した鉄製の弾丸は、空気に張りつくように浮かぶ呪符たちが醸す力場の上でかすれ、

霊的エネルギーの可視化として無数に湧き立つ紫の波紋に触れながら、やすやすと火花を散らしていった。


空間の一面を隈なく埋めつくすのではなく、あえて間隔をたもって配置された呪符たちは、それでもなお障壁として完全に機能しつづけ、

ミーティスの細やかな方向転換にも一切の遅れを見せなかった。


一方、ドローンアーミーのうち片方のチームは、忍者特有の高ケイデンスな走り方で地を駆け、

ミーティスとの衝突点に達するや否や、飛びかかるようにして群がっていく。

彼らは、抜き放ったタングステン合金製の日本刀を、次々と振り下ろしながら襲撃の輪を狭めていった。


伸びきった鞭を巻き戻すかのように、ミーティスは頭上の呪符を一気に引き戻した。

群衆の間を駆け抜ける迷惑なスケーターのような身ごなしで、次々と敵をいなしながら、接

近してきた相手に向けては、手持ちの呪符束を払い上げるようにして放っていく。


そのたびごとに、ロボット兵たちは何体かまとめて宙へと舞い上がり、

剣光が乱れひらめく人垣は次第にほどけていき、やがて一方から、

ロボットの塊がひときわ大きく吹き飛ぶことで、囲み自体が決壊する。


濛々たる煙のなかからその身を現し、圧倒的な直進力で山門まで到達したミーティスは、

その場で踵を返すや、慣性を活かして後退しつつ一瞬足を止め、

ひどくダブついた袖を大きく交差させると、彼女の後背にいちど広く展開されて、

余勢の緊張をそこに漲らせていた札たちが、敵の群がる方へと、

先ほどせり上がってきたときとまったく同じ軌道をなぞりながら、一斉に滑り降りていった。


生命力が込もるミーティスの札には、3種類の基本的な活用法がある。

第1は、空間の任意の位置に吸着し、外部からの負荷に対して驚異的な抵抗力を持つ力場を生成すること。

第2は(ここでは披露されないが)、貼り付いた対象にエネルギーを分与し、ある程度の損傷を回復させること。

そして第3は、込めたエネルギーをオーバーロードさせ、純粋な破壊力に転換することだ。


上下方向にうねる奔流と化した無数の札は、その、波のような律動のままに心地よく戦場を駆け抜けていく。

それらは、援護射撃を行っていたロボットたちを含む敵小隊のあいだ――ちょうど彼らの胸元の高さを狙いすまして通過し、

瞬間、おびただしい小粒の爆発と化したのだった。


その、音が、空気が、炎の余韻が収まったあと、砂利の平野に立っていたのはミーティスひとりだけだった。

かくして、彼女は試練を制したのである。


「……ああいえ、法令に背いた行いは一切いたしておりませんので。ええ、火災があったわけでもありません、

あくまで個人が、個人の裁量で発揮できるスーパーパワーを自宅の敷地内で試しておるだけのことなのです。……いえいえ!本当にいつもご苦労様です。

とにかくそういうことですから。はい、それでは失礼いたしますの――」

匿名の通報を受けた警察からの問い合わせを、電話口で軽妙に切り抜けた尊は、満面の笑みで叫んだ。


「――ようできたのう、さな!お前はほんとうに150点満点じゃ!いや1億点でも足りんかもしれん!」


煙と焦げ臭がただよう庭に、黒ずんだステンレス片や砕けた灯籠が散乱する中、警戒を続け宙を舞っていたさなは、

「お母さん!」

まさに子犬の勢いで抱きついてくる母の体を、たまらぬ喜びに両腕で抱きしめ、

ふたりしてその場をくるくると回った。


「今日は風呂も一緒に入ろうな!」

「うん!」

「ああ、愛い子よ。ずぅっとこのまま、わしのそばにおってくれ」


「……なんかさ、さなにだけはいつも甘くないか?」

「髪の色一緒だし、やっぱりあそこだけ実の親子なんじゃないの?」

寺の対岸で、そっと交わされるアシュリーとおせちの囁き。それを尊の地獄耳が逃すはずもなく、

「人にはな、性格に応じた最善の付き合い方があるんじゃ。量としての愛はそれぞれに等しく注ぐともいえどな」

尊は言いながら、さなの頭を変わらぬねんごろさで撫でまわす。一方で放任主義で育ててきた2人には、罪悪感の欠片も見せずにそう答える。

「ふーん」

発言までに一瞬の躊躇もなく、言葉を紡ぎ始めれば流暢そのもの。しかも、簡潔でありながら練られてもいるその弁明に、

おせちは、目つきによって「星2つ」にも満たない明らかな低評価を突き付けた。


「よかったね、お寿司だよ!さな!」

「……あっそうだ!わたしえんがわぁ!」

はちるが、そんなさなを後ろから引っこ抜いて、一家の誉れと言わんばかりお尻からかつぎ上げれば、

さなも無邪気なことに、持ち上げられた先で2重の万歳を空に向かって解き放ってみせた。


「……そうだ優勝だ!このままCLとリーグも取るぞ!」

「うん、とにかく優勝だね!」

アシュリーとおせちもこの興奮に煽られるように続々と加わり、吉濱家の娘たちはまたたく間に人間梯子を築き上げた。

だが最後の娘が頂点に登りきった瞬間、「おー!景気がいいねえ!……あっ!!!」と声を出したはちるが小石に足を取られ、

その動揺が構造全体に波紋のように伝播していく。


「うわわっっ!!」

尊が青ざめる間もなく、あれよあれよという間に、すべてが後方へと崩落していった。

「……うぎゃああああああ!!」

運命のいたずらに最上段を担ったおせちは、身を丸めても後頭部をかばいきれず、しばらくの間地面を転がりまわる羽目になった。


「何をしとるんじゃ!……もう、呆れたのう」

全てが収まるのを待ってから尊は、痛みにうめくおせちをゆっくりと、まるで石畳から剥がすかのように引き起こした。

腕を引かれた彼女が、辛そうに片目をつむりながら立ち上がると、青いプリーツスカートの尻に付いた

ハート型の土ぼこりを、本人も気付かぬうちに、さりげない手つきで払ってやった。


「よーし、まあテストはこんなところでいいかの!言うまでもなく結果は全員合格じゃが、

これからこんなことをしたワケを話していくでの!」

「ワケ?…………ああわかった闇バイトだろ?内容教えてくれたらすぐ行く。

ただ分配には気を付けてくれよ、万が一ってときはそれ次第で口が緩くもなるし固くもなる」


「……ある男の話をしよう。むかァ~しの話じゃ」

長いわりに深掘りしたところで面白みは見えてこなさそうなアシュリーの冗談に見切りをつけて、尊は本題に入る。

「あっ元カレだ……」

すると今度は、はちるに後ろから抱かれたままのさなが、やたらな目のきらめかせ方をする。


「恋バナ!」

はちるも乗っかった。

「これからお父さんって呼ばなきゃいけない人?」

間もなく、おせちまでが割と真剣味のある顔でそう聞いた。


「……敵じゃ!」

尊は、娘たちの下世話な思惑を一蹴する目的の、強い前置きをしてからさらに続ける。

「……その男の名はシャカゾンビ。ホモサピエンス以外の知的生命体の解放をうたう勢力の中でも、もっとも急進的で邪悪な派閥の指導者、

ありていに言うと人類の排斥をたくらんでおる超危険人物じゃ――」


「へぇ~、敵。そいつと昔戦ったことがあるの?」

一家の中でもっとも生真面目なのがおせちであり、そのためしばしば彼女は話の聞き役に回る。


「人生の大半を奴との戦いに捧げた……といっても過言ではないが、いま語るべきは20世紀に入ってからのヤツの動向じゃろう。

ここひゃくぅ……4、50年間のヤツは前よりも大分なりふりかまわんようになって、地球規模のカタストロフを積極的に引き起こそうとしつつ、

自分の国家を設立するためにも立ち回っておった。戦中戦後は枢軸から東側陣営にかけて暗躍し、キューバ危機の、あの人類が最も危うかった一瞬にも直接的に関与した――」


「……」


「――そして最後に流れ着いたウルジクスタンという中東のならず者国家では宮廷魔術師のようなことをやって、

大量破壊兵器の開発部門を手ずから統括しておった。そのことが西側自由世界に亡命した技術者グループの証言で知れて、

間もなくウルジクスタンは多国籍軍の介入を受けたんじゃ。国には落日が迫ったわけじゃが、そうすると今度は、

完成した分の弾頭と一緒に自分だけさっさとトンズラここうとした――」


「それは悪いヤツだね」

おせちが他人事の感がある相槌をうち、

「そうだな、人の晩飯を奪うくらいの悪だ」

皮肉屋のアシュリーは恨み言を差し挟む隙をのがさない。


「――すんでのところでわしは奴を討った!英国のブライス大尉を中心としたタスクフォース252と連携してな。

1500年間待ち望んだ決着の瞬間よ!結果が逆だとすればおそらくヤツにとってもな……。しかしどうも、使命は完全には果たされなんだらしい……!」

「仕留め損ねたってこと?」

声に憂いを滲ませるはちるの、腕の中にさなは包み込まれている。そして、そのさなはというと、真後ろにひかえる本物のネコ人間をよそに、

まるでネコのように――毛深い腕で作られた輪から胴体を(たゆ)く垂らし、無抵抗に収まっている。


ある時はちるが彼女を下ろすと、きょとんとしたさなは、即座にその左足へ首を精一杯伸ばして寄り添い、

そぅいう、人に懐ききった犬猫の座り方のまま、無心で母を見上げる。


「いや。復活したんじゃ、おそらくは!――」

「――シャカゾンビというのは霊魂の操法において並ぶもののない魔術師でな、

霊力や未練なんかの、とにかくなんでもよいから強い残留思念の宿った(おろく)を乗り継ぎしてはずぅ~っと死のさだめを逃れ続けておるのよ。

元は天竺のリシ(聖仙)らしゅうて、はじめ仏祖の御舎利に憑りついて蘇ったことからシャカゾンビと呼ばれておる。

とにかくのぅ、そういう能力の持ち主ゆえ元々ヤツを完全に滅することはほとんど不可能に近い。

そしてこの頃ついに、他ならぬこの日の本の地に奴の出現情報が出回るようになった」


「”この頃”って今回は何年のことなんだ?幕末?」

と、冷めた声でアシュリー。

「本当にここ数日の話よ!わし自身信頼のおける情報筋からその話を聞かされたのがつい1週間前のこと。

みなしごのお前たちを引き取って育てることにしたのは、シャカゾンビを滅する使命を完全に果たしたという

確信が中東での戦いで得られて、なればこそ余生は好きに過ごそうと思ったからじゃが、どーもワシの見立ては甘かった。

それでこのたび緊急の家族会議を開かせてもらったという次第じゃ」

一家で1番小柄な鬼の人は、腕を組むがまま、鼻を強気に鳴らした。


一見して静謐な水が、実は沸騰寸前の湯だったかのように、場はいつしか騒然としてきた。

だが、この事態をもたらした当の人物は、娘たちのあからさまな焦燥をもうしばらくのあいだ捨て置いて、こう語った。

「ひとつ運がよかったのは、小さい頃からお前たちに神通力のあつかいを念入りに教えておいたことよ。

習い事がわりにでもなってくれればでも思っとったが、ま~これはな、まっこと勿怪(もっけ)の幸いというヤツよの、

覚えの早い小さい子にはなんでもやらせとくもんじゃ。

そのおかげで今ではみな、それぞれの得意分野ではわしをはるかに上回るほどのまじゅちゅs……まじゅ……魔法使いとなってくれた!」


「……フフッ!」


神妙な語り口調の母が、肝心なところで噛んでしまった――それがどうにもおかしく、アシュリーは降ってわいた笑いをこらえきれない。


「で、それでどうするの?母さんと私たちで今度こそ最後までやりきるの?」

おせちは、笑いを流すでもなく、あらたまった声で尋ねる。


「そうではない!その考えは絶対に捨てとくれおせち、それと他のみなもじゃ!お前たちのパワーはあくまで自分や家族の身を守るため、そしてMOOTW(Military Operations Other Than War《戦争以外の軍事作戦》。ようは災害救助や人道支援のこと※PIKU)与えたものじゃ。わしはかわいい娘を戦禍に巻き込むようなことなど絶っっ対にしとうない……この母をそんな薄情者と思ってくれるでないぞ!よよよ……」


「……ママ!」

大げさに卒倒する”フリ”をする尊を、純真なはちるがいち早く抱きとめた。

「じゃあどうすればいいの?」

心配げに問うさな。


「とにかくまだ何も情報を掴めておらんゆえ、さしあたっては何事にも油断をするなとしか言えん。今日はそういう心得を伝えた!」

左半身をはちるのタンポポ毛に浸しながら、尊が答えた。


「まとめると、街中を歩いてる骨を見かけたら110番ってことか?」

目をつむり、疲れた様子で腕を振るアシュリー。


「その通りじゃが、警察ではどうしようもないくらいの敵じゃから1番にはこの母に言うてくれの。戦うのは責任もってワシがする……」

「――あぁ、わかったけどさ、でもさ」

「……?」

「これじゃもう、ちょっとお寿司頼むって気分じゃなくなっちゃったよね……」

アシュリーとおせちが皆の心情を代弁すると、一家は静かに沈んだ面持ちに変わった。


それでも彼女たちは、なんとかかんとか、しだいに解散の気配をまといはじめていた。


ちょうどその時、しなだれた枯れ木の枝を蹴り揺らして1羽のカラスが空に還った。

その黒い影は、寺の敷地を囲む山のひとつ――秋の名残を忘れた斜面の奥からこぼれ落ちるや否や

上昇気流に巻き取られ、やがて、見えぬ彼方へと融けるようにして消えていった。


境内で繰り広げられていたすべてを、瞬きひとつせぬまま見守っていたその鳥が、

ちょうど事の終わりに呼応するように枝を離れたという事実は、はたして、ただの偶然と片づけることができるだろうか。



CHAPTER 2



針葉樹のみで構成されたその森を覆う霧は、ひどく眠たげにうねりながらも、奇妙なことに一切の流動を欠いていた。

どういった力の作用によるものか、場の空気は、何の壁もないはずのこの地において、何日も、あるいは何週間ものあいだ、ひとところに籠りつづけていたのだ。


幽明の境すら思わせるこの風景に、今日の曇天はとてもよく似合っていた。

その陰影を、音もなく横切っていくのが、先ほど我々の眼前を去ったあの1羽のカラスだ。


彼は、ふやけにふやけたそこの空気感を、まるで堪能するかのよう羽をおおきく張りなおして先を急ぐ。

黒く、つぶらで、カメラレンズの光り方をする鳥の瞳は、視界の範疇に目的の地を確実におさえたものとして、その焦点を、どんな旋回の最中にも

逸らすことがない。


文字どおり、地平のかぎりを埋め尽くすこの黒ずんだ針葉樹林の果てに、1座の山が意味深にそびえている。

それは驚くほど純然たる岩山であり、植物の侵食を一切受けていないその姿には、

パテ盛りとエアブラシによる塗装が造形の工程に含まれていたかのような、特撮セット風のおどろおどろしさが詰まっていた。


……そう、この山こそがオールラウンダー永年の宿敵「シャカゾンビ」の現拠点、蛇蝎山なのだ!


山体の一方には、麓から頂までを一直線に繋ぐ灰色の大階段が存在する。

その段の終端は、地中深くへと続く巨大な洞窟の入口と直結しており、

山頂付近の外観はといえば、もっとも見映えよく展示されたサーベルタイガーの頭骨によく似ているといえるだろう。


眼窩のいびつさがやたら目立つ頭骨部が、真の意味で絶巓の誉れを得ており、

その牙――絶滅した大型肉食獣の特徴である犬歯に相当する部分は、

とてつもなく巨大な2本の柱として、洞窟のエントランスたる平坦な一枚岩に深々と食い込んでいた。


蛇蝎山の、シャカゾンビの秘密基地としての間取りは、どうやら、このあたりからすでに始まっているようだった。

数多くの魔術的な什器と、最新の研究機械群が、並び立った存在感で、平らな岩場のあちこちに据え置かれている。


物語の円滑な進行のため、あまりに多くの物事を細かく描写することはここでは控える。

さしあたっては、土地の中央に置かれた粗削りな天然石のテーブルと、

それを囲んだ丸い石椅子の数々を想像してもらえれば十分だ。


「おっ、戻ってきたか。どうだったか? 向こうの様子は」

このとき、テーブルのすぐ傍らには人影があった。

本磨きにされた石の板に両手をついて立っていたその人物は、上方から忍び寄ってくる音と影につられ、

プールサイドに上がっていく泳者のように、首を大きくそらせた。


「ああ~! 今日はちゃんとここにいてくれた! 自分から呼びつけといて、いっつもいないんだから……。

……ボス! それがねぇ、かくかくしかじかでした!」

数度の羽ばたきを残し、黒い羽根をふわりと宙に舞わせながら、1羽のカラスがテーブルの上に降り立つ。

彼はためらいなく話し始めた。

それは、自分が喋ることのできる生き物であるという事実を、証明してみせるかのように流暢な語り口だ。


「…………なるほど。オールラウンダーの奴が、サピエンスの親の真似事を始めたという風の噂は事実だったか。

しかも、ただ育てるだけでは飽き足らずスーパーパワーを仕込んでいるときた!……まったく、サル回しかなにかのつもりやっているのか!

――しかし、だとすれば強襲は得策ではないかもしれんな!ひとまずは、戦力の分断を考えるとしようか、ヒヒィ!」

喋るカラスから一通りの奏上を受け、ゆるやかに応じる、“ボス”と呼ばれたその男は、

ただの人間とは到底思えぬ異貌の持ち主だった。


何より目を引くのは、顔だ。

まるで仮面ではなく、文字どおり“むきだしの骨”だった。

色は、どこか不気味な風味を帯びた水色をしており、右のこめかみから左の顎にかけて、

爪痕のごときオレンジ色の紋様が三条、斜めに刻まれている。


すなわち彼は、不死の肉体を得た未曾有の異形ではあるだろうが

ただし、我々がその身体全てにおいて“白骨化”していると断ずることは、まだできない。

首から下の部位は、洋式の重厚なるフルプレートアーマーによってすべてが覆われており、

素肌の一片たりとも外気に晒されてはいなかったからだ。

そして付け加えるなら、顔貌さえも、本来はフード付きのケープに深く隠されていたのである。


そのケープは、レモンイエローの布地に白のバーコード柄がアクセントとして走る――

どこか現代的な、市井の若者が好みそうなストリートファッションの趣さえあった。


……まあ、これ以上、ひとりの男について過剰に言葉を費やす必要もあるまい。


人類が永劫の昔より求めてきた“不死”という理想を、

おそらくは世界中の誰もが御免被るだろう方法でたった1人成就させたこの男こそ、地球人類にとって、

長らく最大の脅威であり続けるヴィラン、シャカゾンビなのだ!


「はぁ……はぁ……弾丸旅行でさすがに疲れた。休憩しよっと」

翼を小刻みに揺らしながらそう呟いたカラスは、いちど腰を落ち着けたことでかえって息の荒さを隠そうともせず、

卓上に鎮座する銀の大皿――その上に敷き詰められた、コルク栓のような餌に早速くちばしを突っ込んだ。

どうやら、空腹にはとうに耐えきれなくなっていたらしい。


すると、その様子を見ていたシャカゾンビが、何のためらいもなくおなじ皿へと腕を伸ばしていく。

「……ヒッヒッヒ!にしてもあの女が家族などとはな!世界を救ってしまえばそれで残りの人生は

田舎で楽隠居というわけか。……ふん!しかしそれは話が早すぎるぞ!!」

不満の混じる声とともに、彼は鳥用の餌を自身の口に押しこみ始めたのだった。

いくつかの骨板をパズルのように組み合わせただけのその顔面には、当然ながら隙間が多く、

口に含んだはずの餌は、喋るたびに横顎のあたりからそのままこぼれ落ち、乾いた音を立てながら石の床を跳ね回った。


この奇行に身をすくめた使い魔のカラスは、カートゥーンめいて大仰にすりあげる目元で静かに主人を非難する。

「……何を見とるか!用が済んだならさっさと巣に戻って寝でもしているがいい!」

声を張られると、カラスはしゅんとなった様子で肩を落とし、しょんぼりと翼を震わせながら、

部屋の隅に置かれた鳥かごのほうへと飛んでいった。

中に入るとすぐに、水飲み器の小さな管にくちばしを差し入れ、控えめに水をすすり始める。


一個の強烈な、しかも歓喜に満ちた思惑が――少なくとも2500歳を超える男の中で、年甲斐もなく躍動している。

「しかし、あのクワガタ頭の奴……どう始末すべきか。いや、まずは今の計画の完遂よ。ただ少しだけ挨拶も兼ねよう!」

快哉を上げるや男はふいに踵を返し、洞窟の奥へと歩を進めた。


シャカゾンビの歩き方は、率直に言って豪胆だ。

背筋は凛として伸び、力強く踏みしめる足取りに揺らぎはなく、

その実像と、「偉丈夫の骨格ならば、こう歩むべき」という世間の先入観が剥離することは、

すくなくとも、この場においては1度たりともない。


腕の振りもまた、周囲の視線を意に介さぬほど大仰で、

それゆえに、威厳こそが男の本質と信じる者は、立ち振る舞いだけで彼の信奉者となりかねない。


彼が歩を進めるたび、襞状になった岩屋の壁面は、その動きを追って陰影をめくるめく変化させる。


天然の岩壁が続いていたその奥に、やがてひらけた一帯が現れる。

そこは黒と黄、まさしく警戒色の手すりによって内外が厳格に区分された、鉄板敷きの広大な土地だ。


秘密組織の基地そのものの空間は、もっぱら、格納庫として使われていた。無数の鉄骨とパイプが壁、天井に隈なく絡みついて

その概観を定め、床には、作業の痕跡が無数に散らばっている。

ターレーやフォークリフトが駆動音を上げてその中を蟻のよう能率的に動きまわり、

塗料ボトルが満載のメタルラックは、押し運ばれるたびに、4ヶ所のキャスターにかかる膨大な負荷を遠慮なく音で表現する。


区画の中央には巨大な作業台――タラップと足場が奇妙に融合した鋼の怪物――が鎮座し、

その近くでは、半分まで解体された戦闘機と、検査機器の数々が無数のケーブルで繋がっている。

壁の一面を占めるメンテナンスハンガーは、まるで機械の棺列だ。その半数には作業ロボットが斜めに収まって

赤い待機灯を瞬かせており、のこるロボットは、今も作業に駆り出され、金属の手を絶え間なく動かている。


ドックの両レーンには大型のターンテーブルが並んで、上には、戦闘機とヘリコプターが各1台ずつ、

展示品のように整然と配置されており、区域を覆う不動性の中には得も言われぬ不穏さが寄り添っていた。


その騒然とした空間の中心を、シャカゾンビは迷いなく踏み越えていく。

メンテナンスハンガーの列から数m離れたところにある、ATMめいた制御パネルに、

彼の古びたガントレットが触れた。片手の指先が冷たく操作を刻んでいくと、パネル横の信号灯が赤く燃え上がり、

刹那、男から見て右側の壁全体が低くうなり、まるで地震の兆しがごとく、施設全体がおごそかに震えだす。


鉄の壁が両開きに裂け、無限の空がそこに遠々しく広がっていったのだ……!


各自の作業に没頭していたドロイドたち――そのうち1体が、目前に迫るシャカゾンビの存在にあわてて身を引くのを尻目に、

彼は漆黒のティルトローター・ヘリコプターにふてぶてしく乗り込んだ。

その機体にまとわりついて、細部の磨き上げなどにいそしんでいた白い外装甲のロボットたちが、

繊細な構造がむき出しの関節を軋ませながら、機械性の産声を上げ始めたヘリから距離を取った。


このヘリには、一種の小型ドローンめいた圧倒的な制動力が備わっており、動作のどこにも、「重厚さ」を

感じさせることがないまま――ターンテーブルから、ある一定の高さまで垂直に浮上することができた。


見えざるクレーンに運ばれているかのような角張った滑り方でドックを抜けた機体は、青空に触れるなり、いきなり加速を始める。

時速数100kmという実速を記録しながら、霧深くひらたい樹海の上をおどろくほど静かに滑空していった。


……日本海の荒波と風雨は、建物ほどの大きさがあるとはいえ、こんな無辺の海原では、そのさざめきに紛れる孤魂にすぎない

低空飛行の黒いヘリコプターを容赦なく翻弄した。目的地へと急行する機体はかたむいて片側のブレードを海面に差し出し、

刻んでいく1条の白波にしぶきを盛んに舞い上げさせ、やがてその中から、ひとかたまりの浮遊感をつかみ取ったかのようにして海面を一気に離れた。


「……レーダーによるとそろそろのようだな!よぅし、『リフレクションディセクター』発射!」

時代がかった装いの魔術師が、2本の操縦桿で姿勢を巧みに制御するティルトローター機は、霧と波濤の狭間を切り裂きながら、

その機首から薄紅色のレーザー光を放つ。

海風の荒ぶるりによって粒子が乱反射し、光の軌跡は刹那ごとに部分をほころばせるが、

それでもその端は虚空の1点を正確に炙り続けている。

すると、やがてその1点を中心に、空間が、水面を打つ石のように縦向きの巨大な波紋を描きはじめる。


瞬間、海霧に溶け込んでいた何かが、その存在を徐々に露わにしはじめる。まず、

波の表面にあわく映り込んだ鋼鉄の骨組みがかすかに揺らぎ、ついで、巨大な格子状の外壁がじわじわとその輪郭を強めていく。

やがて、光学迷彩にひた隠しにされていた海上要塞の全容が、レーザーの波紋で押し流されるようにして浮かび上がった。


波間にそびえるその姿は、海底から突き上げられた巨大な槌だ。赤錆に覆われた鋼のフレーム、迷路のように絡み合うパイプライン、巨大なクレーンアーム。潮風にさらされたそのすべてが、きしむ音を緩慢に立てながら、建材に溶け込む塩気と鉄の匂いを発散している。

突撃する波が要塞全体を震わせるときは、先の音よりももっと建物の根元の方から、塊めいた金属音がはるばると立ちのぼってくるのだが、

結局はそのしわがれた音も、すぐさま潮騒の激しさの中に吸い込まれていく。


全貌があかるみに出た瞬間、施設はふたたび沈黙に包まれた。信号灯が横殴りの風に揺れながら赤く点滅し、

旋回灯が暗い海面に長く尾を引く。シャカゾンビの操縦するヘリは、その巨大な構造物のヘリポートに向けて収束していく。


緑色のヘリポートは、吹きすさぶ雨風に震えている。

洋上基地の姿には、外から見ても内から見ても完全な統一感がある。骨組みを成すふとい鉄骨は相変わらずここでも互いに組み合い、

その間を走るパイプには血管の綿密さがある。コンテナやドラム缶はそこら中に乱雑に積み上げられ、

そのすべてに、赤錆の線条が多かれ少なかれ走っていた。


ヘリポートとは対角に位置する制御塔は、監視カメラと巨大なパラボラアンテナで武装され、

例の、ヘリコプターの外装甲をたびたび赤く染めた信号灯はいまも絶え間なく瞬いている。

基地の周りをかこむ浮標は、まるでこの孤島を外界から隔てる結界のように、波間で不気味に揺れていた。


シャカゾンビはヘリのエンジンを止め、白骨の面差しを苛烈な海風に晒す。

堂々と甲板に踏み出す彼のマントがたなびき、グリーブが鋼の床を力強く叩くが、そういった音は、

鉄めいた周囲の環境が、まるごとたわんで生じる重低音にたやすくかき消されてしまう。


作業ロボットが遠くで火花を散らし、クレーンのアームが頭上を雄大に旋回する中、

彼は基地の心臓部――制御塔へと歩を進めた。甲板の通路はせまく、その縁は手すりのないグレーチング構造で、

本当に時々だが、波の飛沫がそこまでかかることもある。通路に踏み込んだシャカゾンビの影は、赤い天井灯に照らされて長く壁に伸びていく。


「ふぅんむ……奴らは管制室に籠っているらしいな。まあ、仕事熱心で結構なことだが……」

シャカゾンビは、1室の様子を冷たく一瞥し、甲高い声で鼻を鳴らす。無人の相部屋だ。


……けして無作為に開かれたアルミ扉ではない。まさにここを寝室として利用している者がいるのだ。

事務机の上には、工具箱と、そこから出されたままのレンチやドライバー、ボルト、ナットが雑に散らばっており、


かと思えば、その手の「錆びる物体」に極力近づけるべきではない栄養ゼリーのパックや、空の弁当箱、

飲みかけのまま放置された酒瓶などが置かれていた。本棚は本来の用途ではほとんど使われず、

その代わりに、結束バンドで無造作に束ねられたコードの塊、エアダスター、スプレー類など無造作に押し込まれている。


ベッドのシーツはどれもよれよれで、その様子には何の秩序も見られなかったが、

基地の運営に、「何のトラブルも起きてはいなさそうなこと」をあわせて確認できたシャカゾンビは、

その荒れはてた不活発な空間に対して、もはやこれ以上の興味を示すことなく、身をひるがえして廊下へと戻った。


通路を進む間、グリーブの足音は要塞の脈動のように反響したが、

塔にまとわりつく鉄の階段を登り、制御室へ向かう短い距離で、彼はまた束の間海風に晒されている。


重厚な鋼板できた制御室の扉は、横殴りの雨に打たれ続けている。

その中からは、聞くだけでもわかってしまう体格のよさがある――横方向に音域の広い声が、ふたつ分、

繰り返し漏れてきた。

シャカゾンビの手が扉の認証パネルに触れると、緑の光が点滅し、扉がゆっくり開き、冷たい光を放つ制御室が姿を現した。


洋上基地の制御室は、まさに冷厳な機械の聖域だった。壁を埋め尽くすモニターが青白く瞬き、

データストリームが無音で垂直に流れ落ちている。

制御卓は鋼の祭壇のごとく中央にそびえ、存在感ある黒のPVCケーブルが無秩序に鉄の床を爬行する。


全面ガラス張りになった窓の向こうでは、灰色にうねる日本海の波が絶え間なく砕け、

その衝撃が、かすかな振動となって基地の基底部からここの床板にまで上がってくる。

シャカゾンビの白骨の表情には、文字の区別が付くほどにモニターの光がかかっている。


制御卓には、2人の先客がいた。

ひとりは額に汗を浮かべながら、細かく震える指でキーボードを叩き続けている。

もうひとりは、辞書ほどにも分厚いハードカバーの本を片手に、その作業をじっと見守っている。

どちらも口を閉ざし、音のない戦場で4つの目だけが忙しく動いている。


「……我が『テラースクワッド『の最精鋭部隊『モブ・ディープ』よ。進捗はいかに!」

2人の男だけが共有するその緊張を、シャカゾンビの声は、真後ろから遠慮なくはたいた。

唐突な呼びかけは、この規格外の巨漢ふたりをたいそう焦らせたとみえ、彼らは、作業の手をぴたりと止めた。


ふたりは共に異形だが、ここで言う「異形」には「怖さ」という意味はない。

潮と汗にまみれた彼らの顔には、どこか間の抜けた雰囲気ばかりが詰まっている。

ひとりはオカピ、もうひとりはカバといった、動物の頭部がそのまま――人型というには粗大すぎるが、

直立2足歩行なことにはかわりない肉体に接合されていたのだ。


「ああ、どうも、ボス!」

間延びした挨拶ののち、獣人たちはゆっくりと後ろを振り返る。

その巨体は、地を揺らすような存在感を放ちながら、雇い主たるシャカゾンビと向き合った。

両人の身の丈は、いずれも優に250cmを超え、体重も500kgを下らないだろう、あるいは1tになるかもしれない。

かたや骨の王、かたや筋骨の山――並び立てば、視覚的な支配力は後者の方に分があった。


彼らは、潮と汗にまみれた肉体労働にふさわしい、タンクトップにホッピングパンツという身なりをしている。

その高い露出度からは、ひび割れた皮膚やごわついた毛並みがむき出しになり、

それぞれの種族に特有の模様――オカピには部分的な縞模様、カバには潤った皮膚の隆起――がはっきりと見て取れる。

「必要なコードはこんな感じで打ち終わってますです。大体!」

と、柔らかな口調で語りはじめたのは、オカピ頭の方の男だった。

名を、プロディジーという。


「さ、どぞどぞ!」

へつらった笑みを浮かべたカバのハヴォックは、シャカゾンビのことを、

ちょうど――交通誘導のようなうやうやしい腕振りと、慇懃さにあふれた背筋の角度で

コントロールパネルの前へといざなう。


促されるがまま、シャカゾンビは1歩前に出て、ディスプレイに冷たい視線を落とした。

すると次の瞬間、

「ひとつ質問があるのだが――」

彼の声は即座に鋭利な刃と化した。

「はい!」

「――まさかとは思うが、お前たちは、今このゴミをコードと呼んだのか?」

その言葉にあわせて、ガントレットに覆われた指先が液晶の薄膜をしたたかに突く。

画面がわずかにたわみ、かすかな静電気の音が部屋の空気に溶け入った。

「え~と、そうですが……」

ふたりは、言葉の真意を理解できず顔を見合わせる。


「……ここを見ろ! 早速シンタックスエラーが出ているではないか! 括弧を閉じ忘れ、セミコロンも抜けている!

変数名も混乱しているし、メモリリークを引き起こしかねん無限ループだ!

マニュアルの第1ページすら読んでおらんのか、この脳無しども!」


「いや、ほら、そこはネットにあったコードでして! そのままコピペしたら動くかなぁ~?って!」

一瞬唖然としたプロディジーが、態度を一変させ、バナナほどの脳味噌で作り上げた

言い訳をいそいで口から出力する。


「コ・ピ・ペだとぉ!?」

シャカゾンビの怒号は、いよいよ部屋の金属壁を震わせはじめる。

「キサマが"賢く"手に入れてきたモノはな、Webページの動的要素アニメーションを動かすJavaScriptと、CSSのスニペットだ!

この高度な干渉システムに、ボタンを押したら背景色が変わるような無意味なスクリプトを仕込む気か!?

まったく、どういう発想でやっとる!頭に草でも詰まっとるのかァッ!?」


「でも、マニュアルはちゃんと読んだんですよぉ、ちゃあんと!!ちょっとボスが……もうあんまり時間がないって連絡してくるもんだから

急ぎの作業になっただけで……」

ハヴォックが、まるで何かから身を守るかのように肩をすくめて腕をひろげる。

その動作には、かさばる巨体にそぐわぬ卑屈さと、主への弁明としての拙さがありありと滲んでいた。


「今回、吾輩は貴様らに、作業の過程で遭遇しうるあらゆる障害への対処法を記したマニュアルを与えたはずだ!

時間も十分に与えた!その時間をどう使ったか言ってみろ!どうせ酒を浴びて寝ておったんだろう!!?」

「……」

「吾輩の深遠な配慮は何ひとつ伝わらなかったようだな!

ほら、自分たちで見てみるがいいこのprint文!『プロディジーのランチメモ』だと?

本番コードに個人メモを残してどうする!」


「あっいや……!それっ、『デバッグ?』……とかなんとかいうやつ用で!消すの忘れただけなんですよ!」

画面を瞥見したプロディジーは、そこに映し出された己の成果を「過誤の塊」としてただしく認識し直すと、

そのかんばせを一瞬、罪悪感で曇らせた。しかし次の瞬間には、絞り出すような声でこう言い張った。

彼にとっていま1番の関心事は、「怒りの矛先を自分から逸らす」ということだった。


「忘れただと!?……それと、この条件分岐、if (target = 0)だと?この作業に数日もかかりきりで、なお等価演算子が理解できんのか!」

「ああ――いやぁ……本当にすみませんです。次はちゃんとやりますから!だから減給だけはどうかナシでおねがいしますよ……」

弥縫策ももうこれ以上は施しようがないと悟ったか、ハヴォックは、一転して媚びへつらうように両手を揉み始めた。

言うまでもなくその仕草は、犬が主人に腹を見せるのとまったく同じことを意味している。


「調子のいいことを言いよって!もうよいわ、この失敗は吾輩が直々に正す!

1字の修正あたり10円を引くからな!」

「ひいぃ~ッッ!!!」

と断言されれば、大の男たちは、抱き合って震え上がるしかなかった。


ディスプレイともう1度相対したシャカゾンビが、己の指をキーボードに差し伸べると、

画面に映る無数の行が、彼の視線に追われるようにして次々とスクロールされていく。


「……先に言っておくが、飲み物ひとつでも取りに行く素振りを見せようものなら、その瞬間クビにするからな!そこに突っ立って、己の無能を噛み締めていろ」

シャカゾンビの声は、四方から染み入る暴風の音をも圧する力で制御室の空気を震わせたが、

甲冑をまとった指が本格的に動き出すと、黒い鍵盤の上で打ち鳴らされる音が、次第に硬質なリズムを刻みはじめ、

その連続性が、まるでこの場全体の呼吸であるかのように、絶え間なく室内に反響し続けた。


シャカゾンビの入力は、まるで機械が直にコードを打ち込むかのごとく正確で、よどみなく、

コードの連なりがモニターを埋め尽くしていくそのさまは、あたかも雫の落とされた水面に、

波紋が瞬く間に広がっていくように連綿としている。


「杜撰と怠惰のチリが積もって出来た山、デジタル化された自動車のスクラップヤードのようなコードだな。まったく……

これでは最初から仕事をするのとなにも変わらんわ!」

と2500歳のチーフエンジニアが思わずボヤけば、

「へっへ!いやぁ、ボスったら本当にひとりでなんでも出来るんだからたまらねえや!」

プロディジーがおべっかを使い出し、

「あっ、”ここ”こうすりゃよかったのか!なるほどなぁ!」

ハヴォックは、向学心をようやく目覚めさせて、照れ隠しに頭をかきはじめる。


するとその途端――、

「なァ~にを笑っておるかぁっ!吾輩の仕事ぶりを大人しく見とれい!次、けしておなじ轍を踏まんようにな」

部下の態度に見え隠れする、場を笑い話で締めくくろうとする浅ましい根性を、

シャカゾンビは叱咤によって容赦なく押さえ込む。

「あっ、はぁい……」

特大の身体をそろえてすぼめた獣人たちは、いよいよもって肩を落とした。


「……でもボス、結局この基地で俺たち何するんです?」

それから何拍かの間をおいて、プロディジーが尋ねる。


「あぁ――」

シャカゾンビは、うがいをするような声でまずはその問いかけに反応すると、

「たしかに、そろそろ作戦の全容を教えてやるべき時期か。機密保持の観点からこれまでお前たちには『中国語の部屋』の

状態で作業をさせておったが、もう後には『実行』のフェーズしか残ってはおらんわけだから」

「『中国語の部屋』って?」

ハヴォックは、この世界に新たな謎を見い出した5歳児と同じ顔をした。


「フン!……それは後で自分で調べろ。まあ、とにかく見ておるがよいわ、

これまで欺瞞の上に欺瞞を塗り重ねることでのみサピエンス社会が保ち続けてきたかりそめの平和と均衡を、

吾輩が徹底的に暴きだし、粉砕するところをな!

”提出物”の点数を考慮せんとしたら、この仕事の半分はお前たちの成果でもある。まあ、そこだけは

遠慮なく誇るがいい!」

シャカゾンビが骨の顔でやれる限りの悪い笑みを作ると、


ほめ言葉の理解についてはすこぶる早いプロディジーとハヴォックは、ふたりして顔を見合わせ、

「……なるほど!いいことあるってコトか!」

「てことは、宝くじが毎日当たるよりやばい話ってわけですね!?」

と、気分を上々にして口々に問うた。


「ある意味ではその通り、その通りだ、プロディジー、ハヴォック!ヒィーヒヒヒヒ!!」

自分自身、昂揚をおさえきれなくなり出したシャカゾンビは、声の調子を青天井に上げながら、

キーボードを叩く手を加速させる。


「……もう7、80年間も挑発ばかりで、それ以上はどんな踏み込んだアプローチも

敵国に対し仕掛けようもしない、かの弱腰の国に、吾輩が仕えたウルジクスタンの首脳ほどの

気骨を与えてやるということだ――ただし無理やりな!……よし間に合った!軍部からのリークでは、もう5分もないはずだ」


八角形したこの部屋の、入り口以外すべての面を取り巻く制御盤の一角には、わずかなチラつきとともに、

ブラックアウトに近い深い闇だけを一貫して映し出すレーダーディスプレイがあったのだが、

その中央に今、突如として赤い光点が現れた。


脈動をはじめたその”1点”の周囲には無数の座標網が引かれ、うすい緑のラインが幾重にも交差し、

その網目に重なるようにして、警戒色のリングが波紋のように広がっては消えるようになった。

このモニターの外縁には四角い枠が存在し、その中では、方位や高度、速度、そして座標とおぼしき数値が

波が寄せては引くかのようにかわるがわる表示され、時折、円状のスキャンラインがその全体をなぞっていく。


「ねぇボス、何ですかこのレーダー?」

「動き出しましたけど――」

「ああ、それこそまさに今回の作戦のキモよ。

ソレはな、北朝鮮民主主義人民共和国が、たった今平壌から発射した弾道ミサイルのリアルタイム観測データだ」

「えっ!?」


「この地球という星には、『見て見ぬふり』や『おためごかし』、『なあなあの精神』、

『綺麗事』と『建前』――つまり、ありとあらゆる『欺瞞』から生じた膨大な量のカルマがわだかまっておる。

……カルマに清算以外で消滅の道などない!いっとき人の目の前から消えたからと言って

それはけっして解消されたわけではない。そして、そういった大いなる禍の渦は、人界に戻るのに丁度いい

穴をひとたび見つけるや、驚くほど劇的に列を整え、大挙してそこを目指すものなのだッ!!!」

自己陶酔めいた言説におのずからのめり込んでいくシャカゾンビは、人の頭を押しのけるほどの勢いで、エンターキーをははたいた。


制御塔に冠された規格外のパラボラアンテナに、見えざる力のきざしが灯ったかと思えば、青白いビームが、

そこから夜空を裂く雷霆のごとくほとばしっていく。

その光は日本海を覆いはじめた闇を掃って、ただよっていた雲や海原の輪郭を一瞬、白く焦げつかせ、

星々すら畏怖させるかがやきで大気圏を突き抜ける。


……大気圏外。真空の静寂をただよう北朝鮮のミサイルは、冷たく無機質な日本への特使だ。

その表面装甲は、宇宙の闇と、太陽光線の直接的な照射の中に半分ちかく溶け込んで、

かすかなプラズマの輝きを尾部からはなつ。シャカゾンビのビームは、

無重力にたゆたうその長大な姿に、ある瞬間、まるで神の指づかいがごとく触れた。

青白い光は、機体の制御回路をたちまち侵食し、内部に火花を飛び散らせる。


それはたった一瞬の出来事でしかなかったが、日本と北朝鮮、2つの国家の未来に関する

運命が――この時たしかに書き換えられたのだ!


北朝鮮民主主義人民共和国、平壌郊外の白虎(ペコ)統制センターの薄暗い管制室は、鉄筋コンクリートのつめたさに閉ざされていた。

モニターの緑光が、緑色の軍服に階級章を縫い付けた技官たちの硬直した顔を冷酷に照らし出す。

ロシア製のコンソールは一様に低く唸り、ほこりっぽい空気は緊張で張り詰めている。

レーダーの点が、予定軌道から逸れはじめていたのだ。


「……異常だ!ミサイルが……日本本土へ向かっている!」

監視台の技官が、喉を裂かんばかりに叫んだ。

「不可能だ!制御は完璧のはずだ!」

「応答がない……外部からの干渉か!?」

その声が引き金となり、室内の空気がにわかに沸騰する。

別の技官が、汗に濡れた手でキーボードを乱打するが、コマンドはことごとく無視された。

ミサイルは完全に、彼らの支配を脱している。


「今すぐ最高指導部に報告しろ! 急げ!」

司令官の声は、恐怖に震えていた。このままなら、レーダーの点として表現される彼らのミサイルは、

ただ、はかり知れぬ力にだけ導かれて、海向こうの夜空へと乗り込んでいくことになるだろう。


ふたたび、シャカゾンビの海上要塞。ひと仕事終えた後の所作は上品に、

1曲を弾き終えたピアニストのように粛然と――キーボードから両手を離していったシャカゾンビは、

「情報筋によると今回打ち上げられるものは新型のMARV――」

すっかりしおらしくなったふたりの部下を聞き手にして、優雅に語り始める。

「――MARVとは『Maneuverable Reentry Vehicle』の略で、訳すならば『機動式再突入体』。

このタイプの弾道ミサイルは、再突入の段階でも遠隔制御が可能だ。

つまり、その制御権を乗っ取れば着弾地点を吾輩の意のままにできる!!!――」


「――かのならず者国家は、これまでにも幾度となく示威行為のつもりで

日本国の領海内にミサイルを発射し続けてきたが、よしんばこれが本土に着弾してしまおうものなならどうなるか?」

その問いかけに合わせ、シャカゾンビは口を獰猛に開く。上下に分かれることで、たちまち目立ちだした彼の歯列の、

虫唾の走るような噛み合わせの悪さには、「悪」のなんたるかという直観的な解答と、彼という人物に埋蔵された魅力の核心――

時を越えてなお腐ることのない狂気――が、冷ややかに憑りついていた。


「……待ってボス!や、ヤバいですよ、そのアイディアは本当に!」

どのような巨悪の塔を、自分が築かされていたのか、

そのことをさすがに理解したプロディジーは、武者震いとも本心からの焦りともつかない顔をし、

「いいぞプロディジー、想像力の正しい使い方だ!そうだ、2国間の戦争よ!!ヒーッヒッヒハハハ!!!」

一方でカバの姿をしたハヴォックは言葉もなく、ひとえに裸身を暴かれた乙女のように顔を覆ってしまう。


「ヒィ〜〜〜ヒャハハハハハ!!!フッハッハッハ!アーッハッハッハヒヒヒヒ!!」

だが、シャカゾンビの高笑いは止む気配を見せなかった。

喉の奥を震わせ、口角が引き攣るほどに笑い続けるその男の声は、鉄壁と窓枠に囲まれた八角形の部屋の内側に、

しばらくのあいだ粘つくようにこびりついていた。すると突然、鈍い音が響いた。

「……おっ」

顎の骨がついに外れ、歪な角度で口元がぱっくりと開いてしまったのである。

プロディジーとハヴォックが凍りつくなか、青碧の亡魂たる魔道士は何事もなかったかのように顎に手を添え、それを静かに押し戻した。


……ミサイルの搭載カメラが捉えた映像を映し出す。特有の青やかさを、夜の到来によって

手放しつつあるこの惑星の1方面には熱帯低気圧の雲が雪崩込んでおり、その中には、

ユーラシア大陸からそう遠くないところにある、とある島弧の輪郭が見え隠れしている。


ミサイルが大気圏に突入したその瞬間、先端は灼熱の赤に染まり、機体の全体が空気摩擦の咆哮につつまれる。

映像は揺れ、機体は燃え上がる彗星となって地球へと突き進む。低層の雲海を抜けると、

一変してそこには、日本列島の海岸線があたりの海を繰り抜くさまが誇らしげに広がった。


地図に見受けられるような「記号性」が、カメラに映り込んだその島の姿から取り払われ、

かわって、山々の稜線がするどく立ち上がり、湖沼の1枚1枚が鏡めいて盛んにまたたきはじめる。

都市の、宵闇をそこはかとなく帯びた灰色のグリッドが幾何学的に展開され、

川は銀光りながら蛇行し、ビルの鋼とガラスがひとつの都市としての無機質な煌めきを放つ。


映像はさらに加速し、物々の細部が息をのむ速さで具体化していく。田畑の緑、稲作の段々畑、

曲がりくねる農道、畜舎の屋根瓦――そのすべてが、まるで繊細な筆致で描かれた油絵の如く鮮明に迫る。

やがて、草の1本1本、木の葉に落ちる陰影、そしてそこに潜む無数の生命の気配までもが、カメラの視界を埋め尽くし――、


「―――――――――――――――」


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