「いつもここから、いつかここから」
高原の風が緑の香りを運んでくる。エリは深呼吸をした。久しぶりの山の空気が懐かしい。
「本当に大丈夫なの?無理しない方がいいわよ」
隣を歩く母の心配そうな声にエリは苛立ちを覚えた。けがをしてから、こんな調子だった。まるで彼女が何もできない子供のように。
「大丈夫だってば。お医者さんだって許可してくれたんだし」
エリは足元の小石を踏みしめながら言った。数か月前の交通事故で頭を打ち、入院生活を余儀なくされていた。幸い命に別状はなかったが、医師の言葉を借りれば「記憶の一部が欠落している」状態だった。
事故前の数か月間の記憶が、まるで消えたように無くなっている。それ以前の記憶は鮮明に残っているのに。登山が趣味だったことも、家族のことも、学校のことも覚えている。でも、事故直前の数か月が完全に空白なのだ。
「少し休もうか?」母が提案した。
「もう少し行こう」エリは答えた。
山道を進むうちに、エリはどこか懐かしさを感じていた。この山には何度も来ているはずなのに、今日はどこか特別な気持ちになる。心がざわつくような、何かが引っ張られるような感覚。
「お母さん、ちょっとカメラで写真撮ってきていい?あそこの景色」
「そうね。気をつけてね。すぐ追いつくから」
母が頷くと、エリは少し先の開けた場所へ向かった。風が吹き抜ける広場から見える景色は絶景だった。山々が重なり、遠く霞む空との境界線が美しい。エリはシャッターを切った。
しばらく写真を撮っていると、母が追いついてくるはずの時間を過ぎていることに気づいた。振り返っても姿が見えない。
「お母さん?」
返事はない。おそらく何か興味を引くものを見つけて立ち止まっているのだろう。エリは少し戻ることにした。
山道を戻りながら、エリはふと立ち止まった。どこかで見たことのある景色だ。デジャヴュ?それとも何度も来ているからか。いや、違う。もっと特別な、何か大切な記憶が…。
「大丈夫ですか?」
声に振り返ると、若い男性が立っていた。二十代半ば、山登りに慣れた身のこなし。黒いリュックを背負い、首にはカメラをぶら下げている。
「大丈夫です…失礼ですけど、どこかで会ったことがありますか?」
エリの言葉に、青年の表情が微妙に変わった。一瞬だけ、何かを言いかけるような動きを見せ、すぐに押し殺した。エリには見覚えがない顔のはずなのに、どこか親しみを感じる。
「エリ。ごめんね。ちょっと休んでいた」
母の声が響き、二人の間の奇妙な空気が途切れた。
「あら、ごめんなさい」
母親が青年の顔を見て、何かを察したような表情を浮かべる。青年は少し俯いた。
「すいません。お邪魔しました。登山楽しんでください」
青年はそう言うと、軽く会釈して下山していった。後ろ姿が妙に寂しげで、エリは思わず声をかけそうになった。でも、何を話せばいいのか分からなかった。
◇
「お母さん、あの人、本当に知らない人?」
下山途中、エリは尋ねた。
「どうして?」
「なんか…見覚えがあるような気がして」
母は少し歩みを止め、エリの顔をじっと見た。そして何も言わず、また歩き始めた。
山の入り口に着くと、駐車場の端にあの青年がいた。少し離れたところで、こちらを見つめている。母はエリに「少し待ってて」と言い、青年のところへ向かった。
エリは二人が話す様子を遠くから見ていた。母が頭を下げ、青年も深くお辞儀をする。母が何かを渡し、青年がそれを受け取る。二人の間に流れる空気には、エリの知らない何かがあった。
「お母さん、あの人と何を話したの?」
母のもとへ戻ると、エリは尋ねた。
「他愛もない世間話よ。気にしないで」
母の声は明るかったが、目が笑っていなかった。
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アパートに戻った青年は、暗い部屋で窓際に立っていた。手には一枚の写真。エリと二人で撮った自撮り写真だ。笑顔のエリが、彼の肩に頭をもたせかけている。背景は今日登った山と同じ場所。
彼の名前は健太。エリと出会ったのは八ヶ月前、あの山だった。
彼女が登山中になくしたカメラを一緒に探したのがきっかけだった。同じ趣味の友達、そして恋人になるのに時間はかからなかった。エリとの数か月間は、これまでの人生で一番輝いていた時間だった。
二人は山に登り、星を見に行き、雨の日には映画館に籠った。エリが作る弁当は少し塩辛かったけれど、山の上で食べる彼女の手料理は格別だった。初めて手を繋いだのも、キスをしたのも、愛を囁いたのも、すべてが山の中だった。
あの交通事故は、二人で登山から帰る途中に起きた。横から来た車にはねられ、エリは意識を失った。健太は軽傷で済んだが、エリは頭を強く打っていた。
目覚めたエリは、最初パニックで何も思い出せなかった。少しずつ記憶が戻ってきたが、事故前の数か月—健太と過ごした時間—だけが戻らなかった。
医師は「記憶が戻る可能性はある」と言ったが、それがいつになるかは誰にも分からなかった。無理に思い出させようとすると、エリの精神状態が不安定になる恐れがあった。
健太は苦しい決断をした。エリの両親に一つのお願いをしたのだ。
「僕のことは言わないでほしい」
もしかしたら、いつか思い出すかもしれない。それが今日か明日か、あるいは一生思い出さないかもしれない。それでも、エリが苦しまないように。彼女が自分のペースで回復できるように。
今日、エリの母から電話があった。
「エリが退院して、初めて山に登りたいと言ってるの。あなたに会いたいわけじゃないけど…あなたもそこにいるべきだと思って」
そして、偶然を装った再会が実現した。
健太は写真を机の上に置いた。エリが「どこかで会ったことがありますか?」と尋ねた時、全てを打ち明けたい気持ちで胸がいっぱいになった。でも、彼は黙った。彼女の笑顔が戻ってきたこと、それだけでも十分だった。
彼女が記憶を取り戻すかどうかは、もう運命に委ねるしかない。
健太はポケットから、今日エリの母から受け取ったものを取り出した。小さな折り紙の鶴。エリが入院中、健太が千羽鶴を折って病室に届けていた。その一つだった。
「エリが無意識に折っていたの。あなたが教えたって言ってたものね」
そう母は言ったのだ。
健太は小さな鶴を窓辺に置いた。夕日に照らされて、折り紙が赤く輝いている。
記憶は失われても、心に刻まれたものは残る。それを信じて、健太は明日も生きていく。エリが再び彼を見つけてくれる日が来ることを、静かに願いながら。




