プロローグ
プロローグ。
これは断片的な一場面に過ぎない。
そしてそれは、この物語の主人公でもなければ、黒幕でもない。
そんな1人の少女が絶望の深淵に飲まれるとある一日。
何処にでも転がっているような、そんな一日の始まりである。
いつからだろう。
味覚がなくなったのは。
......ああ、そうだ。
あの日だ。
全壊した家の瓦礫を退かして、
両親の死体を引きずり出した、あの日。
割れて剥がれた爪を気にも止めず、ただひたすらに瓦礫の山を素手で掘っていた。
遂に瓦礫の底から出てきた両親の姿を見た時、私の心は何も感じなかった。
その腐敗の始まりかけている二人の顔面を見て、
私の心は動かなかった。
私は目を背けたいとも思えなかったし、
この目から涙が流れることもなかった。
その事実がどうしようもなく気持ち悪くて、
恐ろしくて、
私は嘔吐した。
その吐瀉物は、無味であった。
その日から、私には味覚がない。
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2019年 9月 東京都 幡ヶ谷駐屯地
ザ、ザザ......
「......えー、緊急連絡、緊急連絡。東京都目黒区にある『公立特別児童養護施設』、千代田区の『千代田掌光病対策刑務所』から、本日、ほぼ同刻、午前12時に緊急応援要請が入った。」
今日の昼食は米と具なし味噌汁とポテトサラダか。
本当にふざけた組み合わせだ。
.....と、本来ならば調理師を叱責したい所ではあるが、私が怒るのは筋違いか。
私には味覚がないのだから。
「今回はこれまでの事例と違い、掌光病罹患者達が徒党を組み、計画的に各施設を襲撃していると思われる。」
私の嫌いなものはこの世で三つ。
「男の醜悪な性欲」、「中嶋勇という男」、そして「味がしない食べ物」だ。
つまり、今は食事の度にこの無味を味わう羽目になる。
いや、無味は味わうとは言わないか...
とにかく、私は毎日、朝昼晩と苦痛を味わなくてはいけないのだ。
食わなくては死んでしまうから。
死んでしまえば弟と再会することもできなくなるし、『中嶋 勇』を殺すこともできなくなってしまう。
だから食すのだ。
この無味を。
「その為、今回の鎮静化に際しては普段よりも多く人員を投入することとなった。」
...それにしても、さっきから頭上で鳴り響く放送が耳障りだ。
私が今食事をしているのはお世辞にも綺麗とは言えない、駐屯地の食堂。
その食堂に複数台設置されている古ぼけたスピーカーから、緊急連絡が垂れ流されている。
....緊急とはいっても、最近では掌光病罹患者が我々に抵抗して暴れることも少なくないので、もうこの手の放送は聞き飽きた。
緊急連絡の声の主は、この駐屯地の司令だ。
彼は2年程前に、この駐屯地の司令として配属されたらしい。
私が3カ月前にこの駐屯地へ帰って来た時には、すでに以前の司令は退職していた。
それもまた、『中嶋 勇』の責任を取らされて辞職させられたという話だったが。
「....ゴホン」
司令がスピーカー越しに咳ばらいをした。
「そして刑務所では、『中嶋 勇』の目撃情報も入っている。」
一瞬、私の中で時が止まった。
「中...嶋......!?」
机の上にスプーンが落ちる。
スプーンは、私の口に入る筈だったポテトサラダを乗せたまま机に上で跳ね、地べたへと落ちていった。
予想だにしていなかった中嶋の出現に、動揺を隠せない。
食堂に居合わせた他の隊員たちも、皆同じように顔を見合わせてザワつきだす。
(奴が....いるのか....!)
「えー、現場では各施設に駐在していた隊員と近くに居合わせた隊員で応戦しているが、児童養護施設は陥落まで秒読み、刑務所も依然劣勢とのこと。現在動ける隊員は西口に個人用装備を携帯し集合。現在ほかの業務をしている隊員は___」
私は横に置いていた帽子を乱暴に掴み、席を立った。
まだ連絡は続いているが、私は食事を返却口にも返さぬまま足早に食堂を後にしようとする。
しかし、廊下に出た所で、後ろから私を引き留める声がした。
「お、おい黒江!まさか、一人で中嶋勇の元に向かうつもりじゃないだろうな?君が中嶋に特別な思いがある事は知っているが、これは任務なんだぞ!」
黒江。それは私の名字。
私の事を名指しで呼ぶ人間は、そう多くない。
案の定、振り返った先に居たのは、よく見知った顔の人物だった。
彼は、私が戦地に居た頃に所属していた小隊の、小隊長だった若い男だ。
「少尉.......いえ、今は中尉でしたか。貴方は自分の命よりも大切な存在を奪われた事がないから、そんな事を平然と言えるんです。...もっとも、貴方は奪われても憤ることすらできなさそうですが。」
私は中尉の何も理解していない物言いに辟易とし、意識的に彼を蔑んだ。
私の言葉を受けた中尉は、一瞬驚いたように息を飲んだが、それでも説得しようとしているのか私に話しかけてくる。
「な!?...一体どうしたんだ、黒江!戦場での君は、今よりも苦しそうだったが、今よりもずっと希望を持った目をしていた!...もう戦争は、終わったんじゃないか...!」
中尉の見当違いな説得に痺れを切らした私は、彼の言葉を最後まで聞きもせず、足早に外への歩みを再開した。
中尉も私を止める事を諦めたのか、付いてきている気配はない。
「偉そうに呼び止めて...!中尉も私が居なければとっくに死んでいたくせに...!!あぁイラつく...」
戦場で共に死線を潜り抜けた中尉の言葉ですら、今は害虫の羽音同然に聞こえる。
そういえば数年前は、中嶋に『黒江君』と呼ばれていた日々もあった。
今思い出すだけで、拭えない不快感が全身を襲う。
「チッ...」
今は一刻も早く現場に向かわねば。
奴はまた、逃げるかもしれない。
「中嶋…!必ず私の手でお前を...!」
思わず武者震いをしてしまう。
純粋な怒りと高揚がこの身を震わしてくれている。
(この高揚感はなんだ?いや、これも怒り...。怒りでないわけがないのだ...!)
「さぁ........悪を成敗しよう......!!」
私の足は、駐屯地の駐車場へと向かっていた。
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