34.種を蒔く
「恐らく、人は……想像も出来ないほど遙かな太古より、何度も何度も道を選び取ってきたのでしょう――」
ようやく結衣に、本題である〈新世生命論〉のことを伝える下地が整ったということか――。
改めて、ランディはそう切り出した。
「貴女がた〈屍喰〉が、全面的にそうなのかまでは断言出来ませんが……大いなる存在のもたらす〈意志〉を――人の『在り方』を。
そうして、その『約束』が失われるたびに、また新たな〈意志〉を選ぶ……その繰り返しで、少しずつ――本当に少しずつ、人は何かを得、成長してきたのでしょう」
「そして……今再び、その時代が訪れた……?」
「ええ。ですが……与えられるものを受け取るばかりでは、いずれ、その成長も限界に至ります。
子供が、やがて親離れをするように――。
我々人も、いずれ、自らの〈意志〉そのものの道を拓かねばならないはずです。
差し出された〈果実〉を手に、いずれ戻る『約束』で楽園を出るのではなく……。
自らの〈意志〉のみに拠って立ち、本当の意味で、楽園を後にしなければならない――わしはそう信じておるのです」
「だから、あなたの記した論文にして思想書でもある、〈新世生命論〉――。
個人ではなく、人類そのものの総意としての〈意志〉の萌芽を促すそれを、本として形にし、世に広める計画が……〈生命の樹の果実〉、というわけですか」
結衣が確認すると、ランディは苦笑混じりにうなずいた。
「我が著、と改めて言ってしまうと……そんな大それた役割を成すには何とも畏れ多いというか、気恥ずかしいですがな」
「ですが、それが実を結ぶとしても――きっと、気の遠くなるほどの時間が必要ですよ?
それこそ、あなたの言葉を借りるなら、人は未だそこまでの段階にはなくて……再び、誰かによってもたらされる〈意志〉を選び取るのかも知れない」
「かも知れませんな。
ですが――それならそれで構わぬのですよ。
先に申しましたように、それもまた糧として、人は少し前に進むのでしょうからな。
わしはただ、種を蒔くだけです――新たな〈生命の樹〉の種を。
……それがやがて、人が自らの中に見出す、〈果実〉となることを願って」
ランディは、そう静かに――しかしはっきりと告げた。
その姿に、結衣は本当の意味で、彼が〈巫師〉と呼ばれるわけを見た気がした。
まさしく、この世界そのものに寄り添い、その声を代弁しているかのようだ――と。
だが――果たしてそれが、どこまで真実なのか。
ランディの発言そのものに嘘はないだろう。それぐらいは結衣にも分かる。
しかし、彼が述べた『考え』がどれほど真実に近いかは、測りようがないのだ。
もちろん、彼女自身、納得のいくものもあった――論理を飛び越えて、感覚的に同意してしまう部分もあった。
だがそれはすべてにおいてではないし……そもそも、彼が立てた推論が間違っている可能性も充分にあるのだ。
ただ――少なくとも、〈生命の樹の果実〉なるプロジェクトが、〈回帰会〉が危険視したようなものでなかったのは間違いない。
いや、ある意味では、回帰会の『世界を元の姿に』という主張からすれば、〈新世生命論〉はその土台を揺るがす危険なものと言えるかも知れないが……。
それがすぐに受け入れられるなら、そもそも回帰会として成り立ってはいないだろう。
〈出楽園〉に対する攻撃材料として、『危険な書物』だと難癖を付けるには充分だが――逆に言えば、これまでの『危険な思想』という指摘の延長でしかないのだ。
「…………。
〈生命の樹の果実〉については分かりました。
確かに、わたしたちが当初考えていたものとは違いますし……武力を以て押さえなければならないものでもないでしょう。
だからといって、この真実を回帰会の陣営にもたらしたところで、すぐに衝突を止められるわけでもなさそうですが……」
「そうですな――恐らく回帰会の執行部は、あらかじめこの真実を知った上で、口実として利用しただけでしょうから。
これほど逼迫した状況になってしまったとなれば、尚のこと」
落ち着いた様子でそう述べるランディは、すべてを悟っているかのようでもある。
いや、実際悟っているのだろう――今後自らの身に何が起ころうとも、すべてを受け入れようと。
だがそれはあくまで、『彼自身は』だ。
周囲の人間にまで累が及ぶことを、彼は決して良しとはしていない。
だからこそ、彼は――
「でも、もしかしたら……わたしがこの出版計画を回帰会陣営に届けることで、時間稼ぎにはなるかも知れません。
そしてその僅かな時間に、交渉の余地が生まれるかも知れません。
だから、わたしはわたしで、やれることをやろうと――そう思います」
渡されていた出版計画の資料を手に、そう意思表示する結衣に……素直に頭を下げた。
「よろしくお願いします。
……ただの人間には、まず今の回帰会の陣営に入り込むこと自体が不可能でしょうが……しかし、貴女ならば」
「ええ。出来る限りのことをします。
……正直わたしは、あなたの思想には共感しきれないですけど……。
でもだからこそ、まだまだ聞きたいことも――」
結衣が、それを言い切るよりも先に――。
彼女を急かすように、部屋のドアが激しく打ち叩かれた。
「――博士! 回帰会の一軍が街の目前に迫りました!
もう間も無く、互いの戦闘距離に入ります――!」