32.何が暗き夜をもたらしたか
――〈新世生命論〉について……。
そう題された書類に、結衣は素早く目を通していく。
しかし、それは……何と言うこともない、いわば出版計画とでも呼ぶべきものでしかなかった。
そう――。
ランディが長年の研究成果をもとに纏め上げた……論文にして思想書である〈新世生命論〉を、改めて世に出すための。
真意を測りかね、視線を上げた結衣に――ランディは一つ頷いて告げる。
「――まさにそれこそが、貴女方の言うところの〈生命の樹の果実〉なのですよ」
「どういうこと……ですか?」
「ふむ、そうですな……では、少々回りくどく説明していきましょうか。
――結衣さん、貴女は……この時代を生きていく上で、大きな〈意志〉のようなものを、感じたことはありませんかな?
そう――この世界、いや、それこそこの星そのもののような」
「…………」
いきなりの、ランディのそんな発言を――その荒唐無稽な内容を。
結衣はしかし、何をバカなことを、と笑い飛ばせはしなかった。
彼女自身が、〈屍喰〉という人智を超えた存在になったから――ではない。
言うなれば、『思い当たるフシ』があったからだ――ランディの指摘することに。
いやむしろ、彼の発言により、それが形を持ったとすら言えるだろう。
視界の向こうに、意識の端々に、感覚の奥底に――。
微かに感じ取ってはいても、明確ではなかった……そんな『何か』が。
しかしそれを、ランディの表現そのままに当てはめていいものかは、結衣も断じきれなかった。
そして、それゆえの彼女の沈黙を……ランディは、良く分かると言わんばかりに大きく頷いて受け止めて。
ひとまずは、彼自らの思いを語っていく。
「……わしは、長い時間をかけて、〈暗夜〉についてのデータを集め続けておりました。
そして至った結論は――あの大異変には『指向性がある』ということです」
「……指向性……?」
「ええ。……あの異変が主に、地磁気逆転により磁気という防壁が弱まる中、太陽フレアで強烈な宇宙線が降り注いだことによるもの――というのは、師より伺っていたと思いますが。
それにしては、人間そのものへの被害があまりに少ないのです。
そう――こうした、シェルターのような施設内で保護されていた電子機器すら破壊されるほどだったにもかかわらず」
「つまりそれが、指向性――そして、〈意志〉だと?
あなたは、何か大きな〈意志〉が……意図して、あの異変を招いたと言うのですか。
人そのものは排せず、その文明だけを破壊するように」
結衣の確認に――ランディは、静かに頷く。
「しかし文明を破壊と言っても、そこに……そう、いわば邪悪な意図はないでしょう。
真に人類を害したいのであれば、それこそ電子機器どころか、人類そのものを焼き払ってしまえばいいのですからな」
「……ですがどちらにしても人類は、その文明は……神の如き大きな〈意志〉の怒りを買った、それほどの禁忌を犯した――ということですか?
それこそ、かつての〈バベルの塔〉のように」
――人類が築こうとした、神へと至るかのような高塔……その傲慢に怒った神は、人類の言語の統一性を奪い取り、塔の建設を阻んだ――。
そんな、旧約聖書の有名な一節を引き合いに出す結衣。
それを、「そうですな」と受け入れつつ――しかしランディは首を横に振る。
「もちろん、その可能性が全く無いわけではありますまい。
ですが、わしは怒りとは真逆ではないのかと思っておりましてな――」
そして、ポケットからオイルライターを取り出し……火を付けて、机の上に置いた。
「結衣さん。
このライターを、もし幼子が手にして遊んでいたとしたら――どうしますかな?」
「それは……取り上げます」
「その子がこれを気に入ってしまっていて、泣かれるとしても?」
「――はい」
ランディが何を言おうとしているのか、理解して――結衣は小さく頷く。
「そうですな。危険性を説いて聞かせようにも、理解出来ないほどに幼いのなら……取り返しの付かない大事になる前に、取り上げるしかありません。
――その子のことを大切に、愛しく思うなら……なおのこと」
ライターを持ち上げ、指で弾いて蓋を閉じるランディ。
「人は、ある意味では幼いがゆえに――成熟した大人とは比べものにならない早さで、文明を発達させました。
……それこそ、手に余るほどに。御す術が追い付かないまでに。
もちろん、だからといってとにかく取り上げればいいというものでもないでしょう――成長とは、数々の失敗を糧にするものですからな。
ですが――やはり、どうしようもない一線というのが存在するのも確かな話」
「……人類はその一線を、そうと気付かず超えてしまった――と?」
結衣が確認すると、ランディは困ったような笑みを浮かべた。
「その線が、どういったところに引かれているのかは……人の身では分かりかねますが」
「…………。
でも、それなら――〈その日〉はどうなるんです?」
結衣は少しの間を置いて……身を乗り出すように、ランディに詰め寄る。
「〈暗夜〉に、仰るような意味があったかも知れない――というのは理解出来ます。
でもそれなら、〈その日〉は……!
わたしたちの命の在り方を根こそぎ変えた、〈その日〉は……!
まさか、二段構えでわたしたち人類を『まっさらの状態』にしようとしていた――とでも言うんですか?
あなたの師、ロアルド博士が――人類を、『楽園に還るときがきた』と評したように……!」
そこまで言って、自分が思ったより熱くなってしまったことに気付いて……結衣は小さく「ごめんなさい」と告げて居住まいを正す。
対してランディは、気にしていないとばかりに首を振った。
「『楽園に還る』――師のその表現は、わしも言い得て妙だと思っております。
ですが……師もまた、恐らくは気付いておられなかったのですよ――」
そうして――真摯な瞳で、真っ直ぐに結衣を見据える。
「〈その日〉と〈暗夜〉が、互いに関連していながら……。
しかしその本質は、まったく別のものであることに」