6.慟哭
――未だ開発途上の伏磐市には、昔ながらの緑地が残されている区画も数多い。
カイリは、まさに今がそうであるように――日が落ちれば当然のごとく人気のなくなるそんな場所を選びながら、家路を急いでいた。
白子としての体質のため、もともと陽光に曝される日中よりも夜間の方が過ごしやすかったのは間違いない。
だがそれを差し引いても……今、暗がりに隠れながら歩みを進めるカイリの身体は、これまでの人生で感じたことがないほどの活力に満ちていた。
それどころか、あらゆる身体能力が、もはや人間の範疇に収まるようなものでなくなっていることが自覚出来る。
しかし――。
そんな、間違い無く生物の頂点を極めた器がありながら……彼の心といえば。
その器の中で、爪も牙も持たない小動物のように怯え、縮こまっていた。
……ほんの数時間前。
事故に遭ったバスの中で、動き出した死体が襲い来るのを、ただ退けるどころか、〈衝動〉の赴くまま、圧倒的な力を以て蹂躙した後――。
いくらか平静を取り戻した彼は、『喰らえ』という〈衝動〉だけは何とか抑え込んだものの……たまらず、その場から逃げ出した。
自分自身への恐怖に負けて、何もかもをかなぐり捨てるように。
尋常でない混乱の様相を見せ始めていた事故現場から、人の眼を恐れ、掻い潜り、自らの思考すら置き去りにして――ただ、逃げ出した。
そうして、家に帰りさえすれば……布団に潜り込んで眠りさえすれば、すべてが悪い夢で済んでしまうのではないか――。
そんな、自分で儚いと分かるほどに、どうしようもなく儚い期待に全力でしがみついて。
彼は必死に、神社を目指していた。
その途中、救いを求める心は他へも伸び――何度、ポケットからスマートフォンを引っ張り出したか知れない。
彰人なら、結衣なら……彼らなら。
改めて話をすれば、自分の身に起こったことを理解してくれるのではないか。
端末越しなら、それが出来るのではないか。
彼らに、助けてもらえるのではないか――と。
「……ッ……!」
だが結局、救われることへの期待よりも、それが裏切られることの恐れに打ち負け……しばらく握り締めていたスマートフォンは、そのまままたポケットへ戻っていく。
そんなことを繰り返しているうちに……ようやく。
カイリは誰の目にも留まることなく、馴染み深い石段へと辿り着いた。
石段を駆け上がるも――既に気配で察していた通り、小さな神社の敷地には、まったく人気はない。
「爺ちゃん、まだ戻ってないんだ……」
保護者たる老神主がいない事実を、心細いような、ほっとしたような複雑な思いで受け止めながら歩を進める。
先に足が向いたのは、部屋がある社務所の方ではなく、手水舎だった。
まず少しでも身を清めたいと――清められれば、と。
薄闇の中、静かに眠る水面へ近付き、覗き込んで――カイリは凍り付く。
「あ……ああ、あ……!」
清水は、曇りのない鏡となって冷厳に……彼に、嘘偽りのない彼自身の姿を突きつけていた。
彼が何をしたのか、目を逸らすことは許さないとばかり――真正面から。
『そんなの、ちがううちに入らないよ。
だからいっしょ! キミも、あたしたちと!』
『幼き日のそれを罪だと感じるならなおのこと、お前は人間だ。
ワシらと同じ普通の人間、普通の子供でいていいのだよ』
かつて大切な人たちから貰った、宝物のような言葉が脳裏を過ぎる。
……カイリは、力無くその場に膝を突いていた。
――人間? 人間だって?
こんな……こんな、おぞましいものが……!
口の周りから胸元まで、べったりと血に汚れた己の姿。
外見こそ変わらない人のままでありながらの、その凄惨なさまは――人を喰い散らかした鬼のようだった。
――そうだ、鬼だ。
鬼そのものじゃないか、僕は……!
必死に目を背けていた、『人を喰らった』という事実が、彼の内を目一杯に覆い尽くして締め上げる。
そしてそれはさらに、凝固し、鈍い刃のように彼の心奥の一点を、激しく貫き、抉るのだ――。
何よりも――最も大切なひとを喰らってしまったという、その一点を。
「ナナ、姉……っ……!
ああ……! 僕は、僕は――ッ……!」
視界がぐにゃりと歪み、ぼやけ、霞む。
事実を、ありのままに受け入れてしまった瞬間……もう、千々に引き裂かれそうなその心に、あふれるものを堰き止める力などありはしなかった。
ぼろぼろと、こぼれ落ちる涙。
それは視界を掻き乱すだけでなく、その小さなレンズの中に、過去の思い出を映し出していた……次々と、大河の泡沫のごとくに。
――七海と出会ったのは、小学生の頃だった。
事あるごとにからかわれ、いじめられるカイリを、助け、庇い、相手が男子だろうと年上だろうと一歩も退かない、強い少女だった。
カイリが、自らの出自と、幼少期の特殊な環境に負い目を感じ……それゆえに卑屈ですらあったのを叱咤し、顔を上げさせてくれた、真っ直ぐな少女だった。
弟の彰人を始め、カイリや他の子たちの面倒も甲斐甲斐しく見る、優しい少女だった。
最初の頃は、母親とはこういうものなのだろうか、などとも思った。ただ、それを口にするとなぜか怒られたので、以後は姉と呼ぶことにした。
そうして、月日とともにまさしく姉のように感じ――やがて背丈を追い越す頃には、守られるばかりでなく、守らなければならないと思うようになっていた。
命を賭けてでも守らなければならない、自分の居場所だと。
互いの想いを確かめあった後は、七海もまた同じようなことを言っていた。
だが、だからこそ自分が――と、より誓いを固くもした。
そう――守ろうと、固く誓っていた。
自分が、人間としても、男としても非力なことを認めた上で……。
それでも――だからこそ。
自分のすべてを擲ってでも、彼女だけは守り抜こう――と、そう誓っていた。
――なのに、その誓いは破られたのだ。
他ならない、自分自身の手によって――。
「ナナ、姉……ッ……!」
喉の奥から、嗚咽が漏れ出る。
やがてその嗚咽は、次を、また次を呼び……。
「ナナ姉……ッ!
ナナ――ナナ姉……! ナナ、ねえ……!
ああ……あああああああぁぁぁーーーーッ!!!」
嘆きの波は響き合い、大波になってカイリを呑み込んだ。
……その波濤は、慟哭だった。
獣のような――だが人間だからこその、感情すべてを吐き出す、剥き出しの魂の慟哭。
それは、いつ果てるとも知れなかった。