22.だからこそ、為すべきを
「おかしい……。
未だに連絡が来ないなんて……」
宿舎の粗末な一室で、寝台に腰掛けつつ……結衣は浮かない顔でひとりごちる。
――アララト山の裾野……様々な国をまたいで広がる、雄大なアルメニア高原の旧トルコ側。
自然に恵まれた穏やかな土地もあるものの、概ねは標高の高い山岳地でもあるため、かつては人口も少ない静かな地方だったが……。
今は〈出楽園〉のお膝元として、皮肉にも往時を凌ぐ賑わいを見せるに至っている。
その中心地が、旧イランなど他国との国境近くでもあるため、〈その日〉以前に国境守護の要衝として使われていた軍事基地――それを基礎に、PDと、協力するカタスグループの中東支部によって築かれた街、ウラルトゥだ。
アララトと同語でもある、遙か昔の王国の名を冠したその新興の街で――。
結衣は今、PDの基地職員の一人として働いていた。
〈回帰会〉創設メンバーの一人たる重鎮、アントーニオの依頼により……。
〈生命の樹の果実〉と呼ばれるプロジェクトの実態を探るために。
そして――二つの組織の衝突を避けるために。
「もうそれほど猶予は無いのに……」
内心の焦りと苛立ちを紛らわせるように、寝台から立ち上がった結衣は……角灯を手に、夜闇の下、散歩に出る。
そうして見上げた、満天の星空は――空気も澄み、標高も高い地だけに、格別の美しさだ。
――そう言えば、アントーニオを助けて、協力を請われたときも……こんな星空を見上げながら、返答を考えたっけ……。
今まさに、結衣の焦りの原因となっているアントーニオ――そんな彼とのかつての思い出が、変わらぬ星の輝きに記憶の底から引き起こされる。
……目下、結衣を悩ませる問題とは、予定の期間を大幅に過ぎているにもかかわらず、アントーニオからの連絡が無いことだった。
この時世である、確実な連絡手段となれば、やはり手紙のやり取りとなるのだが……。
結衣からの状況報告に対し、返事が一向に届かないのだ。
配達員に何かあったわけでも、手紙が届かず紛失したわけでもない。
……にもかかわらず、本来の予定を大幅に過ぎても連絡が無い理由は――。
――やっぱり、アントーニオに何かあった、と考えるべきでしょうね……。
最後に会ったときは、元気そうではあったものの……やはり寄る年波には勝てないものか、体調を崩すことも増えたという話は、以前から小耳に挟んでいた。
若い頃の活気溢れる姿も知っている結衣としては、想像しづらいところだが……病に伏せ、筆を執る余裕すらない――という可能性もある。
そして、可能性と言えばもう一つ――。
それこそが、まさに連絡が取れないことを結衣が焦る状況とも繋がっていた。
そう――回帰会によるPDへの攻撃準備が、想像以上に急激に進んでいるという現在の状況と。
アントーニオは、こうして結衣をPDの調査に送り込むほど、二つの組織の衝突を懸念していた人間だ。
そして、後進の執行部に指導者としての地位は譲ったものの……創設者の一人として、未だに強い発言権を有していた。
それはつまり、PDとの戦いを推し進めたい者たちからすれば、特別目障りな存在ということであり――。
殺害とまではいかなくとも、それこそ体調不良などを理由に幽閉、外部との接触を遮断する可能性は充分にあると考えられるのだ。
――どちらにせよ、イヤになるぐらい辻褄が合う。
アントーニオという歯止めが無くなったからこその、状況の急速な悪化だとすれば。
なら、どうする――。
そう自問して、結衣はふと苦笑をもらした。
第一に思い浮かんだのが、アントーニオのもとへ急いで戻る、という選択だったことに。
長い付き合いの創設メンバーの中でも、アントーニオは特に何かと結衣を気に掛けていた。
それどころか、愛を告げられたことも10や20ではすまない。
もっとも、結衣はそれを受けるわけにはいかず――それについて本人は、「女性は口説くのがマナー」と冗談混じりに、挨拶と同義のように繕っていたが……。
結局、今に至るまで独身を通したのだから、少なからず本気で想ってくれてもいたのだろう。
そして、だからこそか――。
彼が危機的状況にあるなら、駆け付けてあげたいと……真っ先に考えてしまったのは。
――もうとっくに、人間じゃなくなったのに、ね……。
自嘲気味に首を振りつつ、結衣はさっさと考えを切り換える。
……アントーニオに情を感じるならなおのこと、ここでの仕事を放り出すわけにはいかない、と。
何より彼は、自分の為すべきことに真摯だったのだから――。
「なら……わたしも」
これまで結衣は、屍喰としてのチカラを活かした強引な調査はせずにいた。
ここPDのリーダー格であるランディ・ウェルズが、あのロアルド・ルーベクの弟子と聞いていたからだ。
世界の未来すら見通すかのようだったロアルドの弟子ともなれば、ヘタに接触すれば、自分が屍喰であることに気付くかも知れない。
それだけならまだしも、回帰会と繋がっていることまで察せられてしまったら、そのことがまた新たな火種になる可能性もある――。
そう考え、目立たないよう慎重に情報を集めていたのだが……。
〈生命の樹の果実〉とは、よほど重要なプロジェクトなのか、PDの構成員でもほとんど知られておらず……今に至るまで、有力な情報などまるで掴めないままだったのだ。
にもかかわらず――回帰会によるPDへの攻撃は間近に迫り。
事態はもう、悠長なことを言っていられる状況ではなくなっている――。
「わたしも……腹を括るしかない、か――」
今一度星空を見上げ、結衣は一つ大きく息をついて決意を固める。
愚かな争いを避けるために、危険は承知で、出来ることをやらなければ――と。
「さて、そうと決まれば――」
部屋に戻って早速計画を詰めよう……そう考えきびすを返したところで、結衣は人の気配を感じ、ふと足を止める。
果たしてそこには、本部基地の方へと向かおうとする、一人の老人がいた。
夜は格段に冷えるが、それでもここは一般人も住まう街である。
これぐらいの時間なら、外を出歩く人間がいることは特におかしくもない。
ただ、珍しかったのは……その老人が、結衣と同じアジア系人種――それも恐らくは日本人だったことだ。
しかも、銃器こそ持っていないものの、その体格と雰囲気からして、軍属に関係あるのは間違いなかった。
――軍人? それも日本人の……?
こんなときに、こんな場所で……?
回帰会の人間ではないと思うけれど……。
そして――この遠い異国の地で、同胞に会うのを稀有に感じたのは向こうも同じだったらしい。
面には出さないものの、内心訝りつつ佇む結衣に気付いた老人は……。
一見巌のような険しい顔を、穏やかに崩しながら近付いてきた。