21.高みより、人を見て
――旧トルコ東端……旧イラン、アルメニアとの国境近くに、二つの峰からなる高山がある。
トルコ語でアウル・ダウとも呼ばれるその高峰は、かつて、アダムに次ぐ人類の第二の祖が、新たな歩みを始めた場所でもあった。
世界的に知られた名は、アララト山――。
神の怒りによる大洪水から逃れた、ノアの方舟が辿り着いたとされる地だ。
氷河に覆われ、草木すら生えないその不毛の頂に一人立つ人影は――遍く世界を睥睨し、圧する……その威容たるや、まさに。
かつて、この地から始まる新たな人類を見下ろしただろう神の如くだった。
しかし、当の神の如き者は……出来過ぎだな、と微かに苦笑するのみ。
……そう、まったく出来過ぎだ――。
世界がまた大きく揺れ動くかも知れない事態を観察する、その場所としては。
頂に立つ〈巨人〉は、ここへ至るまでに噂を聞いていた方角へと、真っ直ぐに視線を向ける。
標高5000メートルを超える頂から、麓――さらにその裾野の先を見通すなど、常人はもちろん、屍喰とて出来ることでもない――。
かつての彼なら、そう考えていたことだろう。
しかし――今は違った。
屍喰として何十年と世界を巡るうちに、彼もまた、屍喰の何たるかを独自に悟り始めていたのだ。
微に入り細を穿つとまではいかずとも、彼が見たいものを見る分には、ここからでも充分なはずだった。
いや、むしろ……良い場所、と言えるだろう。
そう――出来過ぎなほどに。
彼の見据える方角、その先にあるのは〈出楽園〉の本拠地だ。
そして、彼が伝え聞いた話によれば――PDと勢力を二分すると言っても過言ではない〈回帰会〉が、その地へと進撃するための準備を始めているという。
PDはその危険な研究により、この世界をさらなる混乱に陥れようとしている。かつての平和な世界を取り戻すべく奮闘する自分たち回帰会は、それを見過ごすわけにはいかない――。
そう、己の正義を声高に喧伝して。
「こうまで世界が激変しようとも……人のやることは変わらんものだな」
〈その日〉から〈暗夜〉以来のこの数十年で、人類は大きく数を減らした。
かつての文明の復興などまだまだ遠く、この先も苦難が続くのは自明の理だ。
そんな中、世界的にも巨大な組織同士が本格的に衝突すればどうなるか――その是非程度なら、子供でも分かりそうなものだというのに。
それでも、人は相争う道へと進み行こうとしている。
争いの先でこそ得られると、そう信じるものだけを見て――ただそのためだけに。
代償に失うものの大きさも、掛け替えのなさも、顧みることなく。
――いや、あるいは……そのことを理解しているのか。
理解していながら、それを見ようとしないからこそ――。
なお足を止めないからこそ、愚かなのか……。
蔑みなどではなく、憐憫のような情を以て……ヨトゥンは小さく息をつく。
単なる武力による正面衝突だけでもそれなりの被害は出るだろうが、事はそれだけではすまない。
異なる考えを掲げる二つの巨大組織――その断絶が決定的になるのが何よりの問題と言えるだろう。
それはつまり、この場の火種が他へと飛び火し、これまで何とか保っていた均衡を崩し、まさしく燎原の火の如く争いが広がるということだ。
一つ生まれた憎しみは、新たな憎しみを呼ぶ。それはどんな病巣よりも執拗に増悪していく。
そして……人は、憎しみほど忘れないものだ。
――かつて人類は、進化の果てに退化しているかのようだった。
知恵を以て獣から離れたはずが、獣へと近付いているかのようだった。
そして、その果てに……緩やかに滅びへと向かっているようだった。
〈その日〉と〈暗夜〉による影響は、その変化に一石を投じると思っていたが……。
「なおも人は愚かなまま……か。
――いや……それだけでもなかったな」
ヨトゥンの脳裏を過ぎったのは、ここへと至る途上、フランスで出会った光景だ。
彼も噂に聞いていた、〈白鳥神党〉――その解散後のオルレアンの光景。
そこでは、人が人として在った。
この星と自然に寄り添い、その一つとして――しかし獣に還るのでもなく。
人が、人として……世界と人と、穏やかに調和しているように感じた。
人もまたこの星の生物である以上、どのようになろうとも一種の調和を成すものと考えているヨトゥンだったが……そんな彼でも、その姿は殊更に美しいと感じたのだ。
「だが……それは果たして、人の人に拠るものだけなのか。
あるいは、かの同族の少女あってのことなのか。
……そう、だからこそ――」
ヨトゥンは、この先の人類の歴史――その分水嶺となりうる場所へと向けた目を細める。
そこにいるのだ……人でありながら天眼を備えていた彼の友が、弟子と認めた者が。
「……見せてもらうぞ、ロアルド。
お前の遺志を継いだあの子が、新たなノアとなるのか。
人間のこの先に、何をもたらすのかをな――」