17.顔を上げて
「キミは?」
カイリと名乗った少年の、その素朴な問いかけに。
メールは、ざわつく自分の心の正体を掴めないまま――しかし表向きは何とか平静を保って、小さく首を横に振る。
そして、喉や口の辺りに指をやって……手振りで、声が出せないというのを伝えようとした。
「……声が出せないの?
そうか……うん、でも大丈夫だよ」
そう言い置いてから、カイリが続けた言葉――。
《僕らには本来、言葉すら必要ない。
『伝えたい』と、そう強く願えばそれでいいんだ》
それはまるで、メール自身の内側から生まれ出るかのように――彼女の頭に直接響いてきた。
驚きながら目を見開いて、大きな瞳で改めて観察しても……優しく微笑むカイリの口もとは、まったく動いていない。
《さあ……出来るって、そう信じてやってごらん?》
言われるがまま……メールは、自分の名前を伝えようと念じてみる。
生まれついて、声に出して『語りかける』という行為をしたことがなかったので……自分の心の伝えたいことを、そのまま相手の心へ運び、届けるかのようなイメージをもって。
すると――。
《わたしは……わたしの名前は、メール》
するりと、さも何でもない当たり前のことのように……その思いは形となった。
音ではないのに、柔らかで暖かく、心地好い響きを伴って――相手に伝わったのが分かった。
《これ……声? わたしの……声?》
「正確には少し違うんだけど……そう思った方が扱いやすいかもね。
けれど……そう、メールっていうんだね。
……うん。じゃあ、やっぱりキミが――」
ぽつりと独りごちるカイリに、メールは首を傾げるも……当のカイリは、何でもないと頭を振るだけだった。
「――さて、それじゃあ……改めて。
何かに悩んでいたみたいだけど、よければ僕に話してみてくれないかな……メール?」
……そう言われたところで、初対面の相手に話すような内容ではない、という考えが頭を過ぎった。
何せそれは、メール自身の悩みであると同時に、何より〈白鳥神党〉という組織の内面を暴露するものでもあるからだ。
だが……彼女は『話したい』と思った。
聞いて欲しいと望んだ。
――この人なら……と。
話しても大丈夫だと――話すべきだと、そう信じられたのだ。
しかしそれは、初めて会う同族だから、というわけでもなかった。
心の奥底にある、彼女自身の根っ子のような部分が――彼だからこそ、と囁きかけていたのだ。
だから、メールは語った。
覚えたばかりの話し方で、ぽつりぽつりと――。
自分の生い立ちから、屍喰となった経緯、変わっていく両親、そして白鳥神党との出会いを経て今に至るまで……。
そのすべてを。
彼女にとっての、長い長い物語を。
「……そう……」
すべてを聞き終えたカイリは、ただ、静かに頷く。
……石橋に並んで立つ二人を照らす陽は、すでに赤く燃え、彼方に沈みゆこうとしていた。
「それで、メール……キミは、どうしたいの?」
ふっと投げかけられる、カイリの単純な問い。
だがその単純さゆえに、メールは答えに窮し――思わず、手の中の〈お人形さん〉を胸に掻き抱く。
そうして俯く少女の頭を、カイリはそっと撫でた。
「メール、僕らはね……確かに、人間には無い力を持ってる。
人間という『生き物』でなくなったから、人間には出来ないことも出来る。
けれどね……同時に、『人』でもあるんだ。
だから、何でも出来るわけじゃない。何もかもが思い通りになるわけじゃない。
その代わり、『人』だからこそ――『人』と話し、意志を通じ合うことも出来る。
……想いを、伝え合うことも出来るんだ」
メールはカイリを見上げる。
カイリは、優しく……そしてどこか哀しげに、微笑んでいた。
「板挟みで悩んでいるのなら、キミの心は、どちらにも寄り添っているということ。
どちらも捨てきれないということだ。
なら――それこそが疑いようのない、キミの『望み』なんじゃないのかな」
《……でも……》
メールはまた俯いてしまう。
すると……カイリの手が、その額を軽くぴしゃりと叩いた。
「…………!?」
驚いて、顔を上げるメール。
一方カイリは優しく微笑んだままだった。
「そう――それでいい。
俯いたままじゃダメだ。……顔を上げて」
――かおをあげて――。
何気ないその言葉が。
どうしてか、じわりと――メールの胸の中に広がっていく。
「キミに、この言葉を贈るよ。
ううん、返す――と、そう言った方が正しいのかも知れないけど」
膝を折り、メールの瞳を真っ正面から見つめ――カイリは大きく頷いた。
「メール……ほら、顔を上げて」
「…………!」
メールもまた、真っ直ぐにカイリを見つめ――そして、大きく頷き返した。
すぐに諦め、甘える心を、叱咤された気がした。
自分の想いが間違いなどではないと、励まされた気がした。
自分だからこそ出来るし、やらなければならないのだと、背中を押された気がした。
そう……彼女の心は、ようやく定まっていた。
顔を上げるままに――前へと。