16.宝物の、大事な思い出は
――メールはその日も、街の中心から離れた石橋の上にいた。
大聖堂の裏手にあたるために滅多に人の来ないそこは、彼女にとってお気に入りの場所だった。
彼女とて、一人でいるのが特別好きというわけでもない。
だが、今このオルレアンに集まってきている人々は、そのほとんどが〈白鳥神党〉の信者たちだ。
出会えばまず間違いなく、〈乙女〉と、度を過ぎた敬愛の念を向けられるだろう――それが当のメールには何よりつらいことなのだと、知る由も無く。
だから、彼女は一人になる。
僅かな時間でも、〈乙女〉でなく、ただの〈メール〉となるために。
「…………」
ゆったりと流れる、眼下の水路を見下ろす。
その流れは、初めて見たときから10年近くが経った今でも、まったく変わりがない。
これまでもずっとそうだったように、今もまだ、そうしてある。
対して……白鳥神党と彼女の両親は、歪み続けた。
いや、まさにこの瞬間も、さらに歪んでいこうとしている。
――朝のことだ。
神党が本部としている、以前は同市の市庁舎であったルネサンス様式の立派な邸――その一室で行われていた運営会議には、当然のごとくメールも出席していた。
神党とともにこのオルレアンにやって来た当初は、〈暗夜〉以降の長い年月と略奪によってすっかり荒れ果てていたその邸も、今では、往時もかくやと言わんばかりに飾り立てられている。
しかしそれは、伝統や格式を残すためなどではない。
豪華絢爛――と、同じ言葉で表そうとも、その根底にある意識はまるで別物なのだと、どこからともなく滲み出る毒々しさが如実に物語っていた。
それを、はっきり言えば醜悪だとすら、メールは感じる。
だがそれこそが、父母の望むものであったのだ――歪に変化し、あふれ出る欲望を受け止めきれない心の器、それをそのまま映し出したかのような光景こそが。
そうしたものに触れ、心を痛めるたび――。
何とかしないと、という想いが、メールの胸を過ぎる。
これまでは、その想いを彼女なりに行動に移そうとも、報われることなどなかった。
だから最近では、ただ心を殺し、唯々諾々と両親や神党の幹部の指示に頷くばかりだったのだが……。
今日は、改めて、少しでも神党の歪みを正そうと――。
両親にも、かつての優しい心を思い出してもらおうと、決意を秘めて会議に臨んだのだ。
しかし――。
「…………」
石橋の上で、ゆったりと流れる水面を見下ろしながら……メールは懐から、手の平に乗るほどの小さな小さなぬいぐるみを取り出した。
クマにもネコにもイヌにも見えるそれは、お世辞にも出来が良いとは言えず、また、古びて薄汚くもある。
しかしそれは、彼女の宝物だった。
彼女が本当に幼かった頃、本当に物が無かったときに――母が、必死に材料を集めて作ってくれたものだったのだ。
決して器用でもない母が、娘のためにと、それこそ一生懸命に。
(……プペット……)
もらったのが幼い頃だったことと、声に出して呼ぶことが出来ないので、何となくきちんとした名前を付けることなく……ただ『お人形さん』と、心の中で呼びかけてきたぬいぐるみ。
今となってはそれは、母の心から抜け落ちた、優しさそのもののようにすら思えた。
『お母さんたちはもう、そんな苦しい生活に戻りたくはないんだよ』
今朝の会議で、もう人を騙すのはやめよう――と、声には出さずに必死に訴えたメールに返ってきた答えが、それだった。
彼女が握り締めるプペットを見て、母が涙ながらにもらした言葉だった。
それを前にしては、もう、メールに反論する意志はなくなっていた。
――ただ、悲しくて、つらかった。
母にとってのプペットの思い出が、苦しさしかなかったことが。
もらって嬉しがった自分も、それを喜んだ母も。
一生懸命可愛がる自分も、それを見守る母も。
破れたところを、二人で力を合わせて繕った思い出も――。
メールにとって何より大事な暖かい思い出が、そっくりと滑り落ちていたことが。
そして――それとともに痛感させられたのだ。
屍喰となった自分と、短く限りある命を生きねばならない両親との、生への感覚の絶対的な違いを。
老いて、死が明確に近付くのが分かる今、どうして改めて苦労に身を投げ出さねばならないのか――そんな、両親のある意味当然とも言える欲求を。
「…………」
結局、信者の人たちと両親、その両方への想いの板挟みから脱け出すには及ばず……。
それどころか、溝が一層深く大きくなったかのような無力感を抱いて、小さくため息を漏らすメール。
――そのときだった。
「どうかしたの?」
唐突に投げかけられた優しい言葉に、メールは驚き、慌てて頭を跳ね上げる。
屍喰として感覚が鋭くなり、気配に敏感になっていたがゆえに……却って、声を掛けられるまで気が付かなかったという驚きが大きかったのもある。
だが、それ以上に――。
「…………!」
声をかけてきた少年を見た途端、メールは息が詰まるような感覚を覚えた。
初対面のはず、なのに――。
……ようやく、会えた……?
どうしてか、そんな歓喜が、真っ先に胸を突いていた。
続けて……これまで感じたことのないような多くの感情が、よく分からないままに入り交じり、雪崩を打って押し寄せる。
だが――そんな、騒ぎ乱れ、掴みどころのない心の中にあっても。
間違いようのない、たった一つの事実だけは……本能的に『理解』出来ていた。
そんなメールの心を見透かしたように……。
白銀の髪に、紅玉のような赤い瞳をしたその少年は、小さく頷く。
「そう……僕はキミの同族だ。
カイリ――そう呼んでくれたらいいよ」