12.苦悩の声すら出せず
――旧フランス共和国中部。
ロワール川中流、パリの南西に位置し、首都に近い要衝として長い歴史を刻んでいながら、ここ数年は住む者もほとんどなく廃墟と化していた都市――オルレアン。
15世紀、仏英百年戦争の末期に、イギリスの猛攻に遭い陥落寸前だったこの地を奇跡的に解放し、『オルレアンの乙女』と呼ばれたのが英雄、ジャンヌ・ダルクだった。
以来、悲劇的な最期を遂げ、後には聖女に列せられたその少女を奉り、街を挙げて偉業を伝えてきたこのオルレアンに――。
今……同じく〈乙女〉と呼ばれる、奇跡を行う少女がいた。
それはまるで、この苦難の時代に、かつての英雄が衆生を救うべく再来したかのようで――。
現にその奇跡に縋り街に集まる多くの人々が、そうだと信じていた。
だが、それも無理からぬことだった。
そうした認識に繋がる様々な事柄が、〈乙女〉を奉る〈白鳥神党〉によって、巧みに演出されたものだったからである。
「……さあ、皆さん!
今日も我らが真白き〈乙女〉に、感謝の祈りを!」
年老いた日本人の祭司が、少し訛りのあるフランス語を張り上げた。
以前は荒れ放題だったのが、この数年で見違えるほど整えられたここ――サント・クロワ大聖堂に集まった大勢の聴衆は、その一言を合図に、深く頭を垂れる。
壇上に立つ、白い衣を纏った一人の幼い少女に向かって。
「…………」
ゴシック建築特有の高い天井を見上げていたその少女――〈海〉は。
捧げられた祈りに、何を答えるでもなく……どこか憂いさえ感じられる表情で、礼拝堂を埋め尽くさんばかりの聴衆に視線を落とす。
……メールが言葉を発さないのは、威厳を保つための演出というわけではない。
彼女はただ、発声器官に問題があるのか、生まれつき声を発することが出来ないのだ。
そしてそれは、一度人間としての命を落とし、屍喰となった今も変わらない。
ケガをしてもすぐに治り、その姿が幼いままに老いることはなくとも――声までが新しく生まれ出ることはなかった。
もっとも――。
今、彼女が声を与えられたところで、やはり何を述べることもなかっただろう。
なぜなら、こうして集った聴衆一人一人の生活を思い――それに相応しい、かけるべき言葉を考えるのは、今の彼女にとってあまりに辛いことだったからだ。
自分の――そして、選ばれた少数の人間のエゴのためだけに。
ただそのためだけに、彼らの生活から、それと気付かせることなく多くのものを奪い取っているというのに。
そんな盗人の自分が、何を偉そうに語るのか――と。
――わたしは、ただ……。
ただ、パパとママを、喜ばせてあげたかっただけなのに……。
どうしてこんなことに……と。
少女は声にならない声で、誰にともなく問いかける。
……かつて彼女の両親は、小さな農村で神への信仰心を頼りに質素な生活を送る、心優しい人々だった。
無論、家は貧しかったが、そもそも〈暗夜〉の影響による混乱が今よりも大きく、見せかけの裕福さなどほとんど意味を為さなかった頃である。
自給自足で食料が確保出来るだけ恵まれているとも言えたし、事実、メールは充分満ち足りていた。
それが大きく変わる切っ掛けとなったのは、やはり、彼女自身の変化だった。
メールが、もうすぐ11歳になろうかという、ある嵐の夜のこと――。
自警団が村を離れているスキを突き、備蓄されている食料を狙った野盗の一団が村を襲ったのだ。
そのとき、何とか両親を守ろうと、ちっぽけな勇気を振り絞って立ち向かった彼女は、揉み合う中で野盗の猟銃の暴発に巻き込まれ……野盗ともども致命傷を負ってしまう。
そして――彼女は蘇生した。
生屍ではなく、〈屍喰〉として。
その瞬間の記憶は、曖昧模糊としていて彼女自身もよく覚えていない。
ただ、大きな衝動に押し流されるまま――自分とともに死に、生屍となっていた野盗を喰らったことは事実だ。
そしてその後、彼女はたった一人で、人間離れした力を振るい……10人からいた野盗をすべて村から追い払った。
そんな彼女の所業は、見る者にこの上ない畏怖をもたらしたことだろう。
だが――彼女の両親は、驚きながらも、娘を突き放すようなことはしなかった。
お前は大切な娘だから――と。
誰よりも自分自身に、その変化に恐れを抱いていた彼女を、受け入れてくれたのだ。
もっとも、一家は悪評を恐れて家も畑も捨て、村を離れることを余儀なくされたのだが……。
そうして――。
人目を避けて暮らす、それまで以上に貧しい生活が何年も続いて。
何とか両親の助けになろうと、メールが率先して人里へ物資の調達に出るようになると……少しずつ、両親は変わっていった。
メールがただの人間だったならば、物資を調達すると言っても危険ばかりが先に立ち、大した成果は得られなかっただろう。
だが彼女は――幸か不幸か、地球上のあらゆる生物を圧倒する、屍喰だった。
生屍の数が多く、誰も近寄れない街へ行っても問題なく帰ってくることが出来たし、他の人間に力尽くで成果を奪われることもない。
それは、望むなら最低限の食料どころか、財となる物まで、濡れ手で粟のごとく集まることを意味していた。
その事実に気付いたとき、彼女の両親は変わり始めたのだ――。
清貧の鑑のようだったそれまでから、真逆の方向へと。
あるいはそれは、我知らず溜まっていた鬱屈の裏返しだったのかも知れない。
しかし――いや、だからこそと言うべきか。
自分たちだけが老いていく両親の、いつまでも変わらず幼い姿のままでいる娘へ向ける愛情は、廃れるどころか深みを増すばかりだった。
生活の在り方が変わり、他者を平気で見下すようになっても、娘を蔑んだりすることだけはしなかった。
――娘の情に縋り、その行いを褒め、得られる結果を喜んだ。
メールは自分の精神年齢において、屍喰となったときの幼さに引き摺られているのか、実際年齢ほどの成長が出来ておらず、まだまだ幼いままだと自覚していたが――。
しかしそれでも、本当に何も知らなかった幼い頃と、まったく同じではないのだ。
両親が自分に傾けてくれる、そうした『愛情』が……今となっては、彼らの生き方同様に歪んでしまっていることぐらい、理解していた。
それでも――少女にとって、それが『愛情』であることには変わりなかった。
バケモノのようになってしまった自分を、受け入れ、包み込んでくれる、唯一の居場所であることには変わりなかったのだ。
だから、メールは……。
彼女の噂を聞きつけて来た白鳥神党の老人に、神党のシンボルに、とせがまれたとき。
二の足を踏む自身の心を押し殺し、両親の賛成に従った。
――それから、10年近く。
当初は、メールの力を真っ当に利用し、真っ当に力無き人々の力になっていたはずの神党は、しかし――。
いつしか、彼女を歪めて利用し、偽りを以て弱い人々をも利用し、財力と権力を集める存在として肥大化してしまっていた。
だがそれすらも、メールはただ看過するばかりだった。
……怖かったのだ――彼女は。
唯一の拠り所である両親の愛情を失うことが。
そして――。
騙されていながらも、彼女こそ救い主と、光を見出して集う純朴な人々が今や生きる糧ともしている……そのささやかな『希望』まで、砕いてしまうことが。
「――〈乙女〉! 〈乙女〉! 〈乙女〉!」
だから少女は、今日も〈乙女〉となる。
人々の祈りに応えて。
祭司の求めに応じて。
そして、老いた父母の願いに沿って。
――死なぬ身の己の心……ただ、それだけを殺して。