11.運命の手
老看護師サンドラと漁師のゲイブのやりとりを前に、しばし物思いに耽っていたヨトゥンは……。
二人の会話に区切りが付いたのを見計らい、口を挟む。
「さて……サンドラさん、次は?」
その一言にサンドラは、ゲイブに向けていたものとはまるで別の、柔らかな微笑みを浮かべてそれに答えた。
「ああ、ごめんなさいねえ、先生。
今日はこのバカが最後です、どうもお疲れ様でした」
「そうか、お疲れ様。
――ゲイブ、くれぐれも無茶はしないようにな」
「わ、分かってますよぉ、先生。
第一、漁に出たくても、ちょっと様子を見ねえと……」
歯切れの悪いゲイブの物言いにふと興味を引かれたヨトゥンは、診療に使った道具の片付けをサンドラに任せ、改めてゲイブと向き合う。
「……どういうことだ? 天候に問題はなさそうだが……」
「それなら、ついさっきアタシも小耳に挟んだんですけどねえ……。
港に流れ着いたらしいんですよ、その……生屍が。
――だろう? ゲイブ」
テキパキと動きながら差し挟まれたサンドラの言葉に、ゲイブは首を縦に振る。
「そ、そうなんですよ。
幸い、チャーリーたち自警団がすぐに駆けつけてくれたんで、何事もなく済んだみてえなんですが……。
1体だけってことも考えにくいし、漁に出て沖にいるときに船に這い上がられちゃたまんないですからね。
しばらく警戒した方がいいんじゃないか、って話になってまして」
「……なるほどな」
ヨトゥンは目を上げて、窓の向こう、微かに顔を覗かせる閑散とした港を見やる。
……不死である生屍を処理するための方法の一つとして、彼らを海へ遺棄することは、〈その日〉から行われてきた。
しかし、そもそも人と同じである生屍は大人しく海底に沈んでくれるわけでもなく、生きたまま海を漂流することになる。
そして時として、航行中の船に取り付くこともあれば、他所の海岸に流れ着き、そこから被害を拡大させることもあった。
人間にとって掛け替えのない資源である海が、死によって汚染されることを危惧した当時の世界は、取り急ぎ生屍の海洋投棄を取り締まる法を定め……。
結果として、〈冥界〉への隔離によって生屍を管理する――という、カタスグループの手法が世界標準となるのを後押しする一因ともなった。
現在でも、その慣習が一応引き継がれてはいる――が、〈暗夜〉によって文明を、そして社会基盤を大きく損なった人類である。
何らかの輸送手段が確保出来る、あるいは近場に冥界があるのならともかく……そうでなければ、差し当たっての処理手段として、生屍を海に流そうとするのは何ら不思議ではない。
だが……それも当然の帰結と言えた。
人間は条件が揃わなければ数を増やせないが、生屍は人間の数だけ増えることが約束されているのだ。
既にして世界の総人口は、生屍の総数を下回ってしまっていることだろう――そして数の差が広がればなおさらに、処理の方法としてより手軽な方が選ばれるのは自明の理というものだった。
「まったく、他人様の迷惑も考えず、厄介なモン海に流しやがって……」
怒りも露わに膝を叩くゲイブに、ヨトゥンは視線を戻す。
「……対岸の火事すら無関心でいられるのが人間だ。
それこそ、見えもしない海向こうの誰かの迷惑など考える余地はないだろう――まして、このご時世ではな」
言外に、ではお前は違うのか、と責められた気になったのだろう。
ゲイブは曖昧な返事を返しながら、小さく頭を下げる。
「けどねえ……先生。
この海を越えた先のフランスには、奇跡をもたらす神サマが降臨された――とかって噂じゃあないですか。
どうせなら、もっと良い物でも流してくれりゃあいいのにって、アタシだって思わないでもないですねえ」
窓際に立ったサンドラが、ヨトゥンが見ていたのと同じ方向を見やりながら言う。
「……〈白鳥神党〉、か」
誰にも聞こえない微かな声で呟くヨトゥン。
かつて彼が初めて出会った、白髪赤瞳の同族の少年――カイリ。
その少年を幼い頃、生き神として奉っていたという宗教集団――白鳥神党には、かつて彼も幾ばくかの注意を払っていた。
ともすれば、その教団は彼の友人ロアルドのように、後に屍喰となるカイリの特殊性を見抜いていたのかも知れないと考えたからだ。
結果として、教団がカイリを奉ったのは、単にその外見の神秘性を利用しただけだと判明したが……。
詐欺集団としてそのまま消えゆくだけに思われた教団は、この不穏な時世に乗るようにして、近年、再び勢力を盛り返していた。
そして、その頂点に。
かつての少年と同じように、神の化身として奉られている存在――。
もう10年近く、まるで容姿が変わらないというその〈少女〉が、正真正銘同族であろうことを――情報によるものではなく、ある種の直感に近い『感覚』としてヨトゥンは確信していた。
つまるところ教団は今度こそ本当に、人を超越した存在を、そうだと認識した上でシンボルに据えているのだ。
もっとも……うっすらとでも伝え聞く教団の『奇跡』の内容からして、やはり旧態依然としたペテンも仕掛けているのは間違いなさそうではあったが。
……その同族の少女自身の意志が、どのようなものであるかは分からない。
だが、白鳥神党がこのまま順調に勢力を伸ばしていったなら、いずれは世界規模の団体にもなるだろう。
そしてそうなれば、その少女は真実〈生き神〉とも成り得るのだ。
ただしそれは、結局――。
人にとって都合が良いように手を入れられた、かつての『宗教』……その神輿の頂点に飾られる『神』に、取って代わるだけでしかない。
人が、神の名を使い人を支配する――しようとする、その構図は変わらない。
……そうではない。それでは駄目なのだ――。
「奇跡をもたらす神サマ、ねえ……。
ま、そんな本当かどうかも分かんねえモンより、オレ達にゃ先生がいるからいいじゃねえか。
――ねえ、先生?」
「比べられても困るがな」
一転して子供のような笑顔を向けてくるゲイブ。
思索の半ばにあったヨトゥンは、苦笑混じりに当たり障りのない答えを返しながら――
――そうだ。それでは駄目なのだ……。
真に、その『運命』を手にするためには――。
無意識にその大きな手で、デスクにあったペンを弄んでいた。