10.〈巨人〉の意志
「ふむ……思ったより経過はいいな。
これならそろそろ漁にも戻れるだろう」
診察台に腰掛けた、壮年の男の脚――ふくらはぎから踵にかけての、裂けたような大きな傷痕を診たヨトゥンは、そう言って男の向かいの椅子に座り直す。
「よっしゃ、さすが先生だ! それじゃ――」
「調子に乗って無理をしなければ、だがな」
いかにも漁師らしい、日焼けした顔に浮かんだ満面の笑みに向かって、ヨトゥンはぴしりと指を突きつけた。
途端、男の笑顔は苦笑のそれへと崩れる。
筋骨逞しい、ヨトゥンに負けず劣らずの大きな体も、合わせて萎んだようだった。
「……へい……」
「そうだよ、ゲイブ?
その傷、先生がいなきゃ、歩けなくなるどころか死んでもおかしくなかったぐらいなんだからね。
もうちょっとは大人しくしてな」
長い間家主も無く荒れ果てていた一軒家を片付けただけという、間に合わせの粗末な診療所の診察室――。
その中で、ある意味最も存在感があると言ってもいい立派な体格の老看護師が、ぶっきらぼうにそう言って鼻を鳴らした。
「わ、わーってるよぉ、サンドラ婆さん……」
ゲイブと呼ばれた漁師の男は、機嫌を窺うように、自分の母親ぐらいの年齢だろう老看護師を見上げるが……。
当のサンドラはその顔を手に持ったバインダーでバンと叩いた。
「婆さんは余計だって言ってンだろ!」
「一応は患者なんだ、ほどほどにな」
微苦笑混じりに、ヨトゥンは愛想の良い言葉を二人のやり取りに差し挟む。
……ヨトゥンが、地図に書き忘れられていたとしてもおかしくないような、このイングランドの片田舎の小さな漁村で診療所を始めて、もう1ヶ月になる。
きっかけは、特にどうというほどのものでもなかった。
通りすがりに、ケガをした住民を助けたことで是非にと請われ、しばらく居着くことにしただけだ。
――〈暗夜〉による、人類全体の文明レベルと社会的活動の大きな後退。
その分かりやすい例の一つとして、『医師不足』があった。
〈暗夜〉と、それに連続した災害などで、直接的に多くの医師が命を落としたこともあるが……それ以上に、新たな医師を生み出すための、学校などの環境そのものが多く失われてしまったことが原因だ。
そのため、この時代を生きる人々にしてみれば、ヨトゥンのような未だ若々しく、それでいて腕も確かな医師というのは、前時代以上に珍しく得難い存在だった。
そうした社会的な背景もあり――ヨトゥンが住民に請われて、しばらくの間だけでも医療活動に従事したのは、別にこの村が初めてというわけではない。
それどころか、〈暗夜〉以前……屍喰となって世界を巡っていたときから既に、無医村などで同じように一時的な診療所を何度も開いていたほどだ。
だが、それは――
医師としての使命感から、というような体の良い理由ではなかった。
いや、そういう面もあるにはあった――が、それがすべてと言えるほど、ヨトゥンは自分が博愛主義者でも聖人でもないことを自覚している。
そしてそれは、自分が『人間の同族』では無くなった今ではなおさらだった。
当然、報酬のためというのも違う。
金や物が欲しければ、それこそこんな漁村で診療所を開くより、今もってなお権力を備えているような人間の下へ行くべきであるし……そもそも屍喰となった以上、生きていくために必要なものなど、ほとんど無いに等しいのだから。
――では、なぜ?
彼自身、昔は何度か自問もしたが、今でははっきりと答えが出ている。
結局のところ、医師としての仕事はそれ自体が魅力的なのだ――彼にとって。
しかしそれは、純粋に『人を救えるから』などではない。
人の生――運命。
その生殺与奪を、己が手に握ることが出来るからだ。
他者の運命を掌握すること――。
それこそが彼にとって、屍喰となっても変わることなく己の中にある、一番の欲求だからだ。
『キミはね、ヨトゥン……人を〈助けてやりたい〉んだ』
――何十年も前、まだ医学生だった頃……旧友ロアルドから指摘された言葉が、ふっと脳裏を過ぎる。
当時、彼自身すらまるで自覚出来ずにいた『感情』を、まったく的確に表現したものだと、未だに感心させられる。
……ヨトゥンの父親は、暴力一色とまではいかないものの、それを問題解決の一手段として常に選択肢の筆頭に挙げている程度には、乱暴で高圧的な人間だった。
加えて、それなりに由緒ある家柄の出ということもあり……暴力と権力、それらを駆使して、気の弱いところのある彼の母親や、故郷の村の人間を、自分の意に沿うように従えていた。
そんな父を嫌悪し、反発したからこそ、人を助ける医者を目指した――。
若い頃はそう思っていたヨトゥンだったが、それは上辺だけのものでしかなかった。
――彼は事実、そんな父の血を受け継いだ子であったのだ。
父親は、物心両面の暴力によって、人の運命を握っていたが……。
それに対して彼は、自分でも気付かぬうちに、医術というもっと直接的で根幹的な手段によって、人の運命を握ろうとしていたのだ。
正反対の道を選んだつもりが、その本質では、同じ領域において父を超えようとしていただけだったのだ――。
村という狭い範囲の中で王を気取る、愚かな父を踏み越えるどころか……より高尚な、医療という命を救う手段を以て、遙かに多くの人間の運命に関与することで。
そして、屍喰となった今……彼のその欲求は、医術に絞らずとも、もっと大きく果てなく広げられるものだろう。
そうするための手段も時間も、いくらでもあるのだから。
――だが彼は、それを実行に移そうとはしなかった。
なぜなら彼は本質として、人間という存在に慈しみをもっているからだ――憎悪や軽蔑などでなく。
だからこそかつて、無意識にでも人の運命を握る手段として、医術を選んだのだ。
しかし……。
今やその慈しみは、同じ『人間』としての目線によるものではない。
超越者として、見下ろす形のものであり……だからこそ彼は、時に残酷にもなる。
ロアルドが〈暗夜〉についての予言をし、もたらされる被害を拡大するための細工について語ったとき――結衣のように止めようとしなかったのもそれが理由だ。
必要悪と自分で判断する犠牲については、今の彼はある意味寛容なのだ。
……そんな彼が、今も自らの足で、世界を人を見て回る理由。
それは――。
人間はこの先、どういう道を選び取ろうとするのか。
自分はそこに、どう関与するべきか。
そして、自分のこの手に握るべき運命は何なのか――。
それらを、自らの目で見極めるためだった。