8.星の記録庫
――カイリは、巨大な洞穴の中をさまよっていた。
そこへ足を踏み入れてから、時間にして何年が過ぎたかも定かではなく……。
入り組みながら、どこまでもどこまでも延々と続いていくその洞穴は、そのまま地球の中心まで繋がっているかのようだった。
そんな、あらゆる命を拒絶した、ひたすらに過酷な静寂の洞は……ただの人では、立ち入ることが出来たとしても、最奥まで至ることは決して叶わないだろう。
人が生きていくために必要なものが、ここはあまりにも無さ過ぎる。
いや――人を超越したカイリでさえ、たった一人で何の目的もなければ、進み続けるだけの気力は保てなかったかも知れない。
生き続けられることと、前へと進めることは、必ずしも同じではないからだ。
しかし……今のカイリには、自分の中に存在する七海が感じ取れた。
言葉を交わしたりは出来なくとも、誰よりも側に、何よりも近くに寄り添ってくれているのが理解出来ていた。
そして――。
何年、何十年、何百年――どれほどの時間がかかろうとも。
そこに何があるのか、それ自体は分からなくとも。
自分『たち』のためにも、この洞穴の最奥まで行かなければならないことが『分かって』いた。
だから挫けることなく、先へと、前へと、進むことが出来た。
そうして――何年も何年も、ひたすらに歩き続けて。
カイリはついに、洞穴の深奥へと辿り着く。
……地球は球形だから、まっすぐ地面を掘り進めば、反対側の地上に出る――。
そんな幼い子供のような考えが、ふと彼の脳裏をかすめたのも仕方のないことだろう。
地の底にあったのは……。
地上かと錯覚するほどに、ひたすら広大な空間だったからだ。
「……ここは……」
その空間に居並ぶのは、地上の大都市をそのまま模したかのような、巨大な石材で築かれた高楼の数々だった。
ただし、そもそも人が住むために造られたものではないのだろう――今このとき人気が無いのは当然ながら、かつて存在したという気配もまったく無い。
そして、そんな高楼群を形作る石材には……崩壊の前兆どころか、劣化の気配すら感じられなかった。
数千年どころか、数万年、数十万年といった、悠久という言葉すら届かないほどに果てしない歳月を閲しているのが、感覚的に分かるというのに――。
まるでつい先日造られ、磨き上げられたばかりのようであったのだ。
「…………」
当然初めて来た場所、初めて見る景色であるのに……カイリはなぜか、郷愁めいた感情が胸に迫るのを感じていた。
いったいここは何なのか、何があるのか……。
地中にあって天を突くばかりの高楼の間を、ひとまず、手近なところから歩いて回り……。
そうして数日も経った頃には、カイリはその答えを見出していた。
――ここは……〈記録庫〉だ……。
高楼の石壁に描かれているのは、かつて世界史の教科書などで見たようなものと、どことなく似た雰囲気を持つ壁画だ。
ただこの場のそれは、描かれたというよりは、画をそのまま石壁に取り込んだかのようで――石材同様に真新しく、美麗だった。
そしてそうした壁画が、一定の区切りをもって整然と、この空間の建築物全体に施されているさまは、それと分かって見てみれば、まさに図書館や資料館といった趣がある。
もっとも、その規模たるや――地中でありながら果てが無いと錯覚するほどの空間中に広がっているのだから、想像を絶するものだが。
そして……ここが〈記録庫〉であることを理解したカイリは。
改めて、記録されていることを、とにかく順を追って見ていくことにした。
壁画にも、その周囲にも、内容を説明する文章らしきものは記されていない。
だがそれが、この〈記録庫〉のどこへ、どの壁画へと繋がっているかは、どうしてか、感覚的に理解出来た。
そうして、何日も無心で壁画を巡るうち――カイリは、既視感めいたものを覚える。
それは、今こうして壁画を追っている行動に、ではなく……。
壁画に描かれている内容そのものについて――だった。
……かつて、学校へ通っていた頃。
〈生き神〉などという籠の鳥ではなく、普通の学生として登校出来る――それ自体が喜びだった彼にとって、勉強は苦行などではなかった。
特に、好きだった歴史などはなおさらで、その興味が高じて、様々な世界史の資料を見たり読んだりしたのだが――。
それらで学んだ『人類の歴史』そのものが、まさに、この壁画の中に再現されているように感じたのだ。
まさか……と思うものの、ヘタな先入観を持たない方が良いと、ひとまずその感覚は胸の奥にしまい込み――なおも、壁画を追っていく。
このあまりに広大な〈記録庫〉を巡るのに、さらに何年もの歳月を費やして。
「……やっぱり……」
そうして過ごした時間の中で、カイリは自分の既視感めいた感覚が間違っていなかったと確信する。
かつて、太古の人類も、現代の人間と同じような歴史を歩んだということなのか――。
あるいは遙か何十万年も以前に、今の時代の歴史――すなわち未来を知り得たということなのか。
真実がどちらであるのかは分からないが、居並ぶ壁画の中には、彼の知り得る人類の歴史の一片、それをそのまま描いたように見えるものが幾つもあったのだ。
――さらに。
それら壁画が語る、過去の一致とも未来の予言とも取れる歴史は、近現代史らしき肖像を経て、〈その日〉の世界の異変にまで及んでいた。
そして、〈記録庫〉の最奥……一際大きな最後の壁画に顕れたのは――。
「! これ、って……!」
絶句するカイリ。
……かつての文明を、社会を、秩序を喪い――。
増える一方の生屍に……拡大する冥界に追いやられながら、しかしそれでも前へ歩もうとする人類。
その画に顕れたのは、そんな人類の傍らに立ち――彼らを助けるようにも、追い立てるようにも見える、長衣を纏った少年の姿だった。
カイリと同じ――白髪に、赤い瞳の。
「まさか……? いやでも、そんな……」
あれは自分だという思いと、そんなはずがないという思いの鬩ぎ合いに我を忘れ、ただただ立ち尽くすカイリ。
……どれほどの時間、そうしていただろうか。
やがて……混乱冷めやらぬまま、ふと下げた視線の端に、彼は一連の古代文字を見つけた。
まるで呼ばれているようにふらふらとその前へ行き、手を伸ばして触れてみる。
「…………!?」
まったく見たことも無い文字だった。
しかし――使い慣れた日本語を手繰るように、その内容が頭に染み渡ってくる。
『人が道を選び直す時が来ても、私は何を強制することも無い
今これを見ているお前にも、何を為せと命じることも無い
自身の思うまま、信ずる生を生きよ
私であり、私でない命よ
この慈悲深き星と最も近しい、最も始めに生まれた命よ』
「………………。
そう……そう、なのか…………」
書かれた文章を何度も目で追い、何度も読み込み……刻みつけようとするように、改めてゆっくりと手の平で触れて――。
「…………うん」
そうしてカイリは、毅然ときびすを返した。
元いた世界――。
自分が今、まさに生きている世界へと戻るために。