7.望む未来は
アントーニオが口にした、〈出楽園〉の新たなプロジェクト名……〈生命の樹の果実〉。
それを聞いた結衣は、眼鏡の奥の大きな瞳をぎゅっと細める。
……いかに詳細が分からずとも、その呼び名だけで、それが何を目的とするようなプロジェクトなのかは概ね想像がついた。
「……本格的に、人を人のままに、生屍や屍喰のような不老不死にする研究を軌道に乗せる――ってことかしらね」
「恐らくは」
アントーニオも、真剣な面持ちで頷く。
「じゃあ、つまり……わたしを呼んだ理由っていうのは。
そのプロジェクトの詳細を調査してきてほしい――ってこと?」
「まあ、そういうことだ。
――実は、その情報を得た執行部は、これ幸いとPD攻撃の口実にするつもりでいるようでね。
そして、プロジェクトの内容が内容だけに、これまではお互い協力関係にありながらも、つかず離れずの距離を保っていたバチカン――引いてはカトリック教会も、全面的に執行部の決定を後押しする形を取るだろう。
つまり……このままでは、人間同士で愚かな争いをする事態に発展しかねないというわけだ。
もちろん、PDの思想は危険で、放っておくわけにはいかないが……だからといって、力尽くでどうにかしようというのもあまりに短絡的じゃないか。
大体、いくら何でも、彼らの研究が今日明日にも成果をもたらすはずもないのだし――そもそも詳細すら分からないんだ。
早すぎる強行手段に訴えるよりまず、やるべきこと、出来ることがあるはずだろう。
それに――」
一度言葉を切ったアントーニオは、大きくため息を吐いた。
「執行部の行動が、純粋に人間の未来を憂えてのことならまだいいのだが……。
今の彼らは、あわよくばPDが保持する様々な研究成果を横取りしようなどという、我欲が先に立っているように思えてな……」
苦々しげに眉間に皺を寄せるアントーニオ。
結衣は一言、「そう……」とだけ呟き、頷く。
世界を、元のあるべき姿へと戻す――その光明となるはずだった組織が、いつの間にかそうまで変わっていたという事実は、結衣にしてもやるせなかった。
回帰会は不死を無くすことを目標にしている組織なのだから、不死の屍喰である自分が表に立つわけにはいかない――と、一定の距離を保ち、必要以上の干渉を避けて協力してきた結衣だったが……。
こんなことになるなら、もっと上手い関わり方があったのではないかと悔やまれる。
「ともかく……わたしを秘密裡にPDへ調査に送り込んで、出来る限り衝突を回避するようにしたい、というわけね。
もしPDのプロジェクトが本格的に危険なものだったりすれば、わたしが率先して妨害するなりして、火種から消してしまえばいい――と」
「そう上手くいくものでもないだろうが……打てる手は打っておきたいと思ってね。
もっとも、そう言いながら私がすることなど、こうして頭を下げるぐらいで……実際に行動するのは君なのだから、心苦しくもあるのだが」
言葉通り頭を下げるアントーニオに、結衣はわざとらしく大袈裟に、苦笑混じりに肩をすくめて見せる。
「まったくよね。
けど……そうなると、今準備中の仕事は取り止めってことか」
「……近年、フランス西部で急激に勢力を拡大している宗教組織の調査――だったかな」
「〈白鳥神党〉、よ」
アントーニオの発言を補った結衣の声には、明らかな険があった。
「そう――そうだった。
確か、君にとっては因縁浅からぬ組織なのだったか」
「向こうは、わたしのことなんて知りもしないでしょうけどね」
アントーニオが――いや、彼だけでなく、恐らくは回帰会執行部にしても――今ひとつ白鳥神党を重要視している風でないのは、当然と言えば当然だった。
〈その日〉から〈暗夜〉を経て……様々な形での終末論、救世論を説く宗教団体は、世界中至る所に生まれていたからだ。
中でも、白鳥神党もそうであるように、屍喰を神の化身と崇め、救済をすがる団体は特に多く……。
またそれら団体が、奉る屍喰のチカラを――もちろん本物などではないので――稚拙に『演出』して見せるのも、日常茶飯事のようになっていた。
それゆえ、白鳥神党が本物の――彼らが言うところの真の『神の化身』を奉り上げたという噂が届いたところで、またいつもの茶番かと、真剣に顧みられなかったのだ。
だが……結衣は違った。
彼女にしても、彼らが本当に『同族』を奉り上げているのかは疑いが強かったが……。
その真偽以上に、あの白鳥神党が未だに消滅していないばかりか、この異国の地でまた勢力を大きくしているという事実に、心穏やかにはいられなかったのだ。
何せ彼女からすれば、彼らはかつて幼いカイリを利用し、その心に罪の意識を刻み込んでまで多くの人を食い物にし、悪徳をほしいままにした忌むべき一団である。
それが、また性懲りも無くシンボルを奉り、力を増しているとなれば……仇敵を相手に抱くような感情は当然のごとく湧いてくる。
何とかしなければならないという、義憤めいた焦燥も生まれる。
加えて――。
その奉るシンボルがカイリ本人であることはさすがに有り得ないだろうが、それでもカイリの居所について、神党の幹部ならば何かを掴んでいるのではないか――という期待もあった。
何しろ、かつてアフリカに渡ったらしいという情報を最後に、回帰会という大きな組織の中にあっても足跡が追えていないのだ――可能性があるならあたってみたい、という思いも大きい。
なので、出来ればこのまま白鳥神党の調査をしたい……というのが、彼女の正直な気持ちだ。
しかしそこで彼女は、だけど、と内心首を振る。
アントーニオたちに協力し、回帰会のために力を貸してきたのは……今のままではカイリに出会っても、彼も、そして自分も、救うことは出来ないと思ったからだ。
自分と同じ、不死を否定し、世界を元通りにしようという人々の強固な繋がりを創り、その協力も得て、まずは不死の謎を解き明かすこと――。
それこそが、望む未来への近道だと考えたからだ。
その反面、今、カイリに少しでも近付きたいと願うのも――かつて彼の人生に暗い影を落とした神党に、同じような真似をさせるわけにはいかないと憤るのも、所詮は感情に任せたものでしかない。
――それは、かつての決意をムダにする、愚かなこと――。
結衣は目を閉じ、大きく大きく、ゆっくりと息を吐き出した。
回帰会とPD――世界的に大きくなった二つの組織が真っ正面からぶつかれば、ただでさえ疲弊している人類が、さらに窮地に追い込まれることになるのは明白だ。
そしてそうなれば、いきおい、生屍や屍喰の研究も足踏みする羽目になるだろう――。
「……分かった。
アントーニオ、あなたの依頼を受けるわ」
「おお……そうか! すまない、恩に着る!」
結衣の黙考している時間が想像以上に長かったためか、断られるのでは、と不安に思っていたらしい。
結衣が承諾すると、アントーニオは勢いよく、手を差し伸べながら立ち上がる。
その動作があまりに急だったせいか、ぐらりとゴンドラが傾ぎ――アントーニオの体は運河に投げ出されそうになった。
――しかし。
「……まったく」
握手しようと伸ばされていたアントーニオの手を素早く捕まえると――結衣はひょいと、まるで小さな人形を振り回すように、自分よりずっと大きな彼の身体を、軽々とゴンドラの上へ引き戻す。
「は、はは……重ねて、すまない。肝を冷やしたよ」
「もういい歳なんだから、あんまり無茶はしないでね。
――って、30年ぐらい前にも、同じようなことがあった気もするけど」
柔らかく苦笑しながら……。
結衣は捕まえたままのアントーニオの大きな手と、改めてしっかり握手を交わした。