5.あるべき『死』のために
――旧イタリア共和国北東部、ベネツィア。
その特徴的な地形環境と、将来的な地盤沈下による現状維持の困難性を鑑み、『切り離しやすい』という理由から、イタリアの〈冥界〉候補の一つとして有力だったものの――。
歴史的にも芸術的にも、計り知れないほど価値あるこの土地を切り捨てるなど以ての外と、多くの反対意見によって守られた、水の都。
それは、〈その日〉から数十年、〈暗夜〉を経て――イタリアどころか、世界中のほとんどの政府がまともに機能しなくなった今日でも変わらない。
当然、〈暗夜〉の影響はこの古都でも大きかったが……今では、近隣から、生活の安全を求める人々が流れ込んでくるほどに安定した都市となっている。
その最たる理由は、ここが〈暗夜〉後、各国政府に代わって人々の生活を束ねるようになった数ある組織の中でも、ヨーロッパどころか、世界的にも有数の大きな勢力を持つ〈回帰会〉の膝元だからだった。
そして、そうした人々の安心感、安定感といったものは、街の夜の空気にも良く表れていた。
そこにあるのは、息を潜めるかのような静寂でなく――どこからともなく、ささやかな喧噪の余韻が夜風に乗って流れてくる、ほっと安堵を感じるような心地好い静けさだ。
そんな、夜の趣を楽しんでいるのか――。
古い家々の合間を流れる、渓谷のように細い運河を進む一艘のゴンドラがあった。
ゴンドラは途中、小さな石橋の袂で一人の小柄な人影を乗せると……さらにゆっくりと優雅に、海の方へと向かっていく。
「……実に久し振りだ。
前に会ってから、もう10年ぐらいになるか――」
先にゴンドラに乗っていた細身の老紳士は、新しく乗り込んできた――物騒な世となった最近では珍しくもない、フード付きの丈の長い外套を羽織ったその人影に、笑顔で握手を求める。
「本当に君は、会った頃から変わらず愛らしいままだな――結衣」
「その10年前にも言ったと思うけど……。
一応わたしもいい大人なんだし、『愛らしい』はないんじゃない? アントーニオ」
被っていたフードを上げ、その弾みでずれた、赤いフレームの眼鏡を整えながら……霧山 結衣は。
老紳士――〈回帰会〉の創立メンバーの一人にして幹部でもある、アントーニオ・ベルニの差し出した大きな手を、苦笑混じりに握った。
「――仕方ないさ、正直な感想だ。
本当に君は『こうなった』とき、27歳だったのか?」
「逆方向にサバを読んだって仕方ないでしょ?
しっかり、実年齢で言えば70過ぎのお婆ちゃんよ、わたしは」
数十年前と何ら変わらぬ姿の結衣は、自嘲めいた笑みを浮かべながら、アントーニオと向き合う形で腰を下ろす。
「とにかく、あなたも変わりないみたいで良かった。
……さすがに老けたけど」
意趣返しとばかりの結衣の言葉に、「手厳しい」とひとしきり笑い返すアントーニオだったが……すぐさま、その表情は憂いに沈む。
「残念ながら厳密には、変わりない……とは言えないがな。
私も、回帰会も」
「…………そうね。
確かに、変わったと感じる……あなたはともかく、会については」
結衣もまた険しい顔で、小さく頷いた。
……結衣がアントーニオと出会ったのは、40年近く前になる。
マンハッタン島で、屍喰として蘇生した後――。
同族のよしみと、しばらく面倒を見てくれたヨトゥンと別れた結衣は、人でなくなった自分が――人としては命を落とした自分が、彰人や父のもとへ戻るのも憚られて。
ならばやはり、当初の目的であったカイリを追おう――と、ロアルドから最後の消息として教えられていた、アフリカ大陸へ向かおうとした。
しかし――〈暗夜〉の影響で交通機関はどこも壊滅的状況にあり、飛行機はもちろんのこと、大洋を渡る船すらそうあるはずもなく……。
渡航手段を探してさまよった彼女は結局、アラスカの果てベーリング海峡を、流氷を利用して徒歩で渡り、ユーラシア大陸へとやって来る。
そうして、北米と同じく混乱の極みにある大陸を歩き続け……ヨーロッパ方面へ出たところで彼女は、アントーニオと、その仲間に遭遇したのだった。
当時アントーニオたちは、日本の本部と連絡が途絶したことで個別に活動していた、カタスグループの黄泉軍現地支部と協力しての治安維持にあたっていて――。
その活動の最中、生屍の集団に囲まれ……絶体絶命の死地に陥ったところを、結衣に助けられたのだ。
そのとき結衣は、当然のようにさっさと姿を消すつもりだったが――。
それを引き留め、彼女が屍喰だと知った上で――アントーニオは、自分たちへの協力を呼びかけてきたのだった。
――世界を元の通り、人が死ぬべきとき、安らかに眠れる世界へと戻したい。
皮肉にも、結衣自身がそれを破る不老不死の存在になってしまっていたが……アントーニオが掲げていたその理念は、彼女も捨てきれずにいる願いだった。
だからこそ彼女は、自分の個人的な感傷によるアフリカ行きはひとまず置き――。
その目標のために組織を作り、世界の安定を目指そうというアントーニオたちに、力を貸すことを決めたのだ。
きっとそれが、カイリに近付き、彼を――そして。
同じく、『死』という正道を違えてしまった自分をも救う道に繋がると、信じて。