3.この世とあの世の境界で
50年以上前に基礎が築かれた、人界と〈冥界〉を分かつ巨壁――その上部。
どの建築物よりも高所にある、人の手に成るその『世界の境界線』からは……
片や、長期間の隔離の果てに、自然に還り始めている街が。
片や、新たな混乱の果てにやつれながらも、人が営みを残す街が。
――死者の街と、生者の街が。
対照的な二つの……しかしかつては一つであった街が、一目に見下ろせた。
時刻は夕刻を過ぎ、地平線に隠れゆく太陽とともに、二つの街は宵闇に沈みだす。
それに伴い、やがて生者の街には、ぽつり、ぽつりと……訪れる闇に遠慮するように控えめに、小さな灯が点り始めた。
「…………」
それは、記憶の中にある、宝石のごとく煌めく夜景とは比べるべくもない、うら寂しいものながら……しかし。
車椅子の老人――伊崎 彰人にとっては、この上なく美しいものでもあった。
なぜなら、その灯はまさに人の生きている証、人が生きるために点している炎であり――かつての、華やかながらその多くが虚飾で無為であった虚ろなものと違って、人の生命の炎そのものだからだ。
そして……。
こうして、人がそこにあり、生きていける――そんな世界を、自らの手の届く範囲だけとはいえ、何とかここまで守り抜いてこられたことは。
彰人の、人生における誇りの一つでもあった。
……人類が、世界が――生活のほとんどを委ねきっていた文明を喪失して、はや数十年。
〈暗夜〉――。
世界中のあらゆる電子機器が前触れ無く機能を失い、電波による通信すら失われたその日――新たな異変の始まりとなった日を、後に人々はそう呼んだ。
〈暗夜〉が世界に――人類にもたらした影響は。混乱は。
ともすれば、『死』の喪失により摂理がねじ曲がった〈その日〉をも凌駕していたかも知れない。
電力の一斉喪失、あらゆる電子機器の機能停止、そして、一般人に先駆けてバイタルチェックを導入されていたはずの、為政者やライフラインの関係者といった人々の突然死により、社会基盤のほとんどは瞬く間にその機能を失った。
電子の網によって、縦横に繋がっていたはずの『世界』は……。
しかしそれに頼り過ぎていたがゆえに、一瞬にして千々に寸断され――情報を得ることも発することも出来ずに閉塞した坩堝は、さながら、混乱が共食いして肥大化する蠱毒のようですらあった。
そんなところに、既にして世界的に兆候のあった、異常気象を始めとする天災の数々が追い打ちをかける。
そしてその犠牲となった者は、生屍となり――さらなる被害の拡大を招いた。
そうした絶望的な状況を、完全な崩壊前でかろうじて食い止め、制御し、改めて人が生活するための社会という秩序を、この日本で、長い年月を経て再構築するに至ったのが――。
早々と機能を失っていた日本政府ではなく、カタスグループ――引いてはそのリーダーたる八坂 邦大。
そして……。
後に、八坂の跡を受け継いだ彰人だったのだ。
……隔壁から見下ろす夜の街の寂しさは、たった一夜をきっかけに大きく後退する羽目になった人間の文明が、未だ往時には遠く及ばないことを如実に表している。
だがそれでも、降りかかった異変の大きさからすれば、驚異的とも言える生活水準の復旧だった。
日本が狭い島国であり、〈暗夜〉によって、物理的にも情報的にも海外と切り離されたことが、流言飛語や難民の際限ない流入を防ぎ……結果として、混乱を早期に沈静化すると言う意味では良い方向に働いたからでもある。
それを証明するように、限りなく弱体化した通信手段がもたらす断片的な情報ですら、海外は日本よりもよほど酷い状況になっていることが窺えた。
「…………」
車椅子に座ったまま彰人は、ついと、視線をもう一方の『死者の街』へ向ける。
――そちらは、完全な暗黒の世界だった。
文字通り、死んだように闇の中に沈む世界……。
そこはかつて、伏磐という名で呼ばれていた、彼の故郷の街だ。
歳月とともに拡張され、より高く増設されてきた巨壁によって隔絶されたその街は、今では紛う方無き〈冥界〉だった。
大都市ほどでないにしろそれなりに洗練され、自然とのほどよい調和の中にあった往年の姿は既に失われて久しく……。
人の生活の名残が、死に逝くまま野ざらしに荒廃している光景は、まさしく生きる屍のみが住まう幽世に相応しい。
――この世とあの世が隣り合う光景……か。
世界は本当に、神話の時代へと立ち返ろうとしているのかも知れん――。
現世と幽世、生と死の境界線――。
その隔壁の上で、二つの世界を見比べる彰人の胸に去来したのは、そんな思いだった。
だが……たとえそうだとして。
ならば、人は神の意志にすべてを委ねれば良いのかと問われれば、彼は決してそうは思わない。
人は自らの意志を持って自らの命を生き、それを紡いで歴史を刻んでいくのだ――と、そう信じて疑わないからだ。
たとえその歴史が、過去と同じく愚かしさばかりが目に余るようなものだとしても――いや、だからこそなおのこと。
何者かに、行く末を丸投げするような真似はしてはいけないのだ――と。
「……あるいは……そうした意志を忘れ、ただ呼吸するばかりの……。
それこそ『生きる屍』となりかけていた人類に、再び〈命〉を吹き込むためにこそ、この混迷の時代は訪れたのかも知れん、か……」
「ん……何だって? どうかしたか、爺さん?」
彼の独り言に反応した若い男の声に、彰人は首を反らして後方を見やる。
……彼が座る車椅子にそっと手を添えたのは、軍服姿の青年だった。