3.人と、人でないモノと
――彰人が踏み込んだバスの車内には、死がこびりついていた。
椅子の上で、通路で……数少ない乗客は皆、物言わぬ亡骸と化している。
その中でただ一人、彰人の白色の幼馴染みだけが、確かな生命を備えていた。
だが、その生命が放つのは――光ではなかった。
輝く夕日の紅をも呑み込み、赤黒く塗り固めて撒き散らす闇だった。
そう、言うなれば――生命の、闇。
「……カイ、リ……? おまえ、なにを……」
掠れた声が、彰人の口からこぼれ出る。
――幼馴染みは……喰らっていた。
彰人のたった一人の姉を。その血肉を。
餓鬼のように、獣のように……あるいは、救いを求めて縋るように。
その華奢な身体を抱きすくめて、ただ、一心不乱に。
「なにを、してる……。
なにを…………なにを――ッ!!」
彰人は激しく声を荒げた。
だがそれは、純粋な怒りから発せられたものではなかった。
むしろ、胸の内に急速に膨れあがる恐怖心に抗おうと――半ば無意識に、怒りを拠り所にして虚勢を張ったに過ぎない。
その異様な状況は、確かに恐れを呼び起こすのに充分だっただろう……だがそれだけでは到底説明がつかない、異常なまでの『恐怖』の理由を、しかし彰人はすぐに悟った。
白子とも呼ばれるその外見はもとより、心根からも真っ白だったはずの身を、鮮血の紅と血糊の黒に染め抜いた幼馴染みの少年――。
ゆっくりと立ち上がり、こちらを振り返った彼と、瞳を交わしたそのときに。
その瞳は、フィクションに出てくる怪物のように、濁っていたり、命や意志を感じられないような……いかにも常軌を逸した類のものではなかった。
色素欠乏ゆえに赤みがかった瞳は、確かな魂の光を宿し、意志の輝きを備えていた。
だが――それゆえにか。
一見いつも通りだからこそ、その奥にある正体のない『違い』を明確に悟れたのか。
理屈も何も無く――ただ本能の、恐らくは最も根源の部分で。
彰人は、彼我の間に絶対的な隔たりがあることを理解していた。
目の前のあれは、〈人間〉ではない――と。
そう……そこに感じられたのは間違いなく、絶対的な。
人間はもちろんのこと、哺乳類、動物、生物――いやそれどころか、同じ世界の〈存在〉とすら認識出来ないほどの、隔絶。
(……なんだ――なんなんだよ、アレは……!!)
彰人の身を、外からは圧し潰し、内からは突き破らんばかりに、圧倒的な恐怖が襲う。
「え……? カイリ、くん……?」
すぐ背後から聞こえた、そのか細い少女の声がなければ――。
彰人は腰を抜かして、そこにへたり込んでいたかも知れない。
「結衣!? お前、なんでここに――!」
蛇に睨まれた蛙……まさにそんな状態だった自らの呪縛を、かろうじて断ち切って。
いつの間にか後を追って来ていた結衣を振り返る彰人。
「わ、わたしだって心配だったから……!
そ、それより、なに、どうなってるの――!?」
結衣が、カイリの行動をどの時点から見ていたのかは分からない。
だが今、まさに彰人が感じているのと同種の恐怖が彼女を襲っているのだろう――彼女もまた、およそ親しい友人相手のものとは思えない、強張った真っ青な顔をカイリに向けていた。
「そんなの、俺だって――!」
分からない、と言いかけて――彰人はまた信じられないものを見た。
背後、結衣の肩越しに――。
衝突で見る影もなく潰れていた、運転席の残骸の隙間から。
血に汚れた手が覗いたかと思うと――誰かが、そこから這い出そうとしていたのだ。
そこに座っていた人間がどうなったかなど、意識的にそちらを見ないようにしていたぐらい、はっきりしている。
被害者に何らかの幸運の及ぶ余地があったとして――それはせいぜい、最期の瞬間苦痛を感じずにいられたか、という程度でしかないはずなのだ。
――にも、かかわらず。
その血に汚れた手は、振動や自重、引力……そんな自然の現象とは明らかに異なる、それ自身の力で、ひしゃげた運転席の間仕切りを、ぐっと握っていた。
どれほどに凄惨か、想像すら出来ないようなその身体を、外へ引っ張り出そうとして――。
「っ!?――来い、結衣っ!!」
常識を覆す、到底理解の及ばない事態が立て続けに起きる中……。
ただ、その異常さ――それだけを現実として受け止めた彰人は。
次の瞬間、棒立ちの結衣を抱えるようにしてきびすを返し……一気にバスの外へと飛び出した。
これ以上余計なものを見たり感じたりして、再度恐怖に足が竦んでしまうその前に。
余計な思考はいっそ切って捨て、力の限りに警鐘を鳴らす本能に従って。
たった一人の家族の――姉の死に。
〈何か〉に変じた幼馴染みに――。
彰人の人生にとって、途方もなく大きな要素を占めていたはずのそれらに背を向け――彼は、結衣を連れて逃げ出した。
少なくとも今の彼には……それ以外の対処など、思いも寄らなかった。