30.めざめ
「な、なに、を……ッ……!」
ただただ静かに、涼やかに、近付いてくるカイリ。
その奇妙な迫力に圧されて、アートマンは後ずさる。
「僕らはこの世界で人として生まれ、生きてきたから、その法則に縛られ過ぎていた。
それすら『変えられる』ことを理解していなかった。
だから――」
一歩、また一歩――カイリが歩を進めるたび、同じだけアートマンは後退する。
アートマンには、つい先ほどまで同族と見えていたカイリが、もっと別の――より大きな存在になったように感じられていた。
「ぅ……おおおッ!!」
そこに生まれた『恐怖』に抗おうと、自分でもそれと分かる虚勢とともに、残った左腕で殴りかかろうとするが――その途端。
今度はその左腕の肘から下が、ぼとりと地面に落ちる。
やはり、痛みも衝撃も……出血すらもなく。
ただただ左腕が、そこにあるのを拒否するかのように。
「だから僕は、『生き物』であることを捨てる。
人としての、この『心』まで捨てるわけにはいかないけれど……。
〈人間〉という生き物としての自分を――捨て去る」
「それで――そうすることで、お前は……!
お前は、こんな芸当を身に付けたっていうのか……っ!?」
斬られたわけでも千切られたわけでもなく、ただ地面に落ちただけの自分の左腕を見下ろしながら……アートマンは乾いた声で問う。
「あなたは……まだ、人として、生き物としての法則に縛られているから。
自分が本当はどういうものなのか、少しも『気付けていない』から。
だから――干渉するのは、難しいことじゃないみたいだ」
「いったい、何を……!」
後退する意志も奪われ、立ち尽くすアートマンの胸に――カイリはそっと手を当てる。
「……あなたの言った通りだ。『喰らう』という行為さえ、僕らは誤解していた。
それも、ただ、〈人間〉の感覚では最適の表現がないから――だからひとまず、最も近しいだろう『喰らう』という表現に置き換えていただけ。
そうして、理解した気になっていただけだったんだ。
本当は――」
アートマンの胸の辺りが一瞬、ぼんやりと微かに輝く。
そしてそうかと思うと、カイリは当てていた手をぐっと握り締めた。
途端――。
糸が切れた人形のように、アートマンは力無くその場に膝を突く。
「……『喰らう』という代替行為の必要すら、なくて。
あなたが言うところの魂を、こうして自分の中に通す――それだけで良かったんだ」
「あ……、あ……?」
何が起こったのか分からない、という驚愕を顔に貼り付けたまま――アートマンの身体は、とさりと柔らかく、大地に仰向けに倒れる。
……抜け殻となったその身体は、もはや、動くことはなかった。
「……さようなら。
星の廻りに、お還りなさい」
穏やかに一言別れを告げると、カイリはそっとその瞼を閉じてやる。
そうしてから、ふと感じた気配を目で追えば……。
逃げた子供たちが呼んだのだろう、〈地の声〉が彼方から近付いてくるところだった。
安堵を覚え、表情を和らげるカイリ。
だが――。
「――――!」
その赤い瞳は、すぐさま引き締められ――空へと向けられた。
そこに何が見えるわけでもない。しかし、彼は感じ取ったのだ。
――何かが起きる、と。
新たに世界が迎えることになる、大きな変化――その兆しを。
同時に――。
「……あ……?」
ぐらりと、前触れも無く身体が傾ぎ……。
そのままカイリは、大地に深く沈み込んでいくように――その意識を手放す。
間際の、一瞬。
彼は誰かに――何かに、呼ばれた気がした。
* * *
――ふっと、目が覚めた。
寝心地のいいベッドで、充分に睡眠を取った後のような……すっきりとした、実に気持ちの良い目覚めだった。
「…………あ、れ……?」
同時に、何気ない疑問が唇から漏れる。
何か……違和感があった。
「気が付いたか」
夕焼け空がいっぱいに広がる視界に、ぬっと、背の高い男性が割って入ってくる。
見覚えの無い人物だったが……なぜか、警戒心は起こらない。
代わりに胸に射したのは、妙な親近感だ。
「わたし、は……いったい……」
改めて口に出して――そして、ようやく気付いた。
慌てて体を起こし、周囲を見回す。――覚えのある、古びたアパートの前。
続いて視線は、自分の体に落ちる。
やっぱり――と、思った通りに。
着ているスーツは、固まり始めた赤黒い血で――自分の血で、汚れていた。
「そん、な……。
まさか……まさか――ッ!」
「その通りだ」
背の高い白人の男が、労るような口調で告げる。
「――君は一度死んだ。そして、蘇生したのだよ。
そう。私と同じ――〈屍喰〉として、な」
「う……そ……」
……ふと動かした手が、何かに当たる。
拾い上げてみると、それは赤いフレームの眼鏡だった。
想い人に、『よく似合う』と褒められた、思い出の眼鏡。
それがあるから、子供っぽいとは思いながらも、変えられずにいた眼鏡。
彼女の――霧山 結衣の、トレードマークだった眼鏡。
――彼を元に戻してあげたい。
死なない命は、間違っていると思うから――。
つい先刻、ロアルドに言い放った自分の信条が、頭の中で反響する。
「あ、あ……!
そんな――そんな、そんな……っ!」
……間違っている、正されるべきと信ずる存在に、あろうことか自分が変ずる――。
あまりに皮肉な、その現実に。
結衣はただただ、慟哭するばかりだった――。




