28.あの人のように、わたしも
〈預言者〉ロアルドから、世界に新たな異変が迫っていることを聞かされた結衣は――。
古びたアパートの階段を飛ぶように駆け下り、外の通りへ出るや否や、すぐさまスマートフォンで彰人の番号を呼び出す。
一応背後を振り返ってみるが……やはりと言うべきか、ロアルドが追ってくる様子は無い。
「彰人君……!
お願いだから、電話に出られる状況でいてよ……!」
黙っていれば秘密のままにしておけるものを、わざわざ自分に話して聞かせるあたり……ロアルドのやろうとしていることも、次の異変も、もう目と鼻の先まで迫っているのは明白だった。
今さら止められはしないと、高を括っているのだと。
「そうはいくもんですか……!」
実際にどれだけ時間の余裕が残されているのかは分からない。
だが、彰人に連絡が付けば、一気に手を広げられるのは間違いなかった。
……今さらながら、約束通りに彰人に予定を連絡しなかったことが悔やまれるが――だからといって諦めるにはまだ早いと、結衣は信じている。
――早く出て、と、呼び出し音が鳴るたびに気が逸る。
そうして、苛立たしげに足踏みする彼女の近くでは……つい先程ここへ到着したばかりらしいビルの清掃業者が、慌ただしく準備をしていた。
……こんなボロアパートでも、業者が清掃に入るんだ……。
今まさに崩壊の危機にさらされている日常の光景が、しかし当然そんなこととは露知らず、変わりなく繰り返されていることに……どこかおかしさすら感じる結衣。
だが――彼女はすぐさま、妙な違和感を覚える。
――清掃業者? このアパートに?
でもここ、掃除された様子なんて、まったく――。
ふと、思考に引きずられるまま、業者の車の方へ向き直ったその瞬間――。
腹部を、何かで突かれたような衝撃がして。
ことんと、両膝が地面に落ちる。
「…………え…………?」
何が起こったのか、一瞬、まるで理解出来なかった。
――こちらを向いた清掃業者の手に……消音器の付いた拳銃が握られているのを見るまでは。
「…………う、そ」
業者がもう一度、人差し指に力を込める。
溜め込んだ空気が抜けるような音がして――今度は胸に衝撃を感じた結衣は、そのまま勢いよく仰向けに倒れた。
彼女の手を離れたスマートフォンが、呼び出し音を鳴らしたまま地面を滑る。
「……あ……」
そのまま空いた手で胸元に触れ、それをゆるゆると目の前にかざしてみれば……。
べったりと、余すところなく真っ赤な血に濡れていた。
しまった――と。
事ここに至ってようやく、結衣は自分の失態に気が付いた。
複数の犯罪組織にその頭脳を必要とされ、関わりを持ちながらも、結局、そのどれにも属さなかったロアルド――。
それはつまり彼が、様々な組織にとっての重要な情報を抱えたまま宙に浮いている、ということでもある。
そんな彼を危険視し――あわよくばその多岐にわたる研究成果を奪い、独占しようと考える組織などいくらでもあっただろう。
しかしそれらの組織も、これまでは、情報操作によって巧みに姿を隠すロアルドを追い切れないでいたのだ。
だが――状況が変わった。
結衣は、気付かなければならなかったのだ――。
何の後ろ盾も無い一介の、駆け出しジャーナリストに過ぎない自分が、それほどの人物の消息を突き止められたのは……他ならない、ロアルド自身がそうなるようし向けたからなのだと。
そして――自分に突き止められるのならば、彼を追っている他の者たちも同様に、その消息を掴むことが出来たのだと。
つまりは、彼女以外の――彼女よりずっと凶悪な目的を持った連中もまた、ここを目指していたということを。
「……ぅ、ぐ……!」
自分の迂闊さを呪いながら、急速に力を失っていく体をずり動かし、転がったスマートフォンへと向かう結衣。
いつもの赤いフレームの眼鏡が滑り落ちるのも構わず、必死に手を伸ばすも……それはむなしく空を切る。
眼鏡を失ったせいか、意識が朦朧としてきたせいか……。
ぼやける視界の向こうで、彼女を撃った清掃業者がスマートフォンを拾い上げ――さらに別の業者がカバンをも奪い去っていく。
「……待っ……て……!」
夢中で呼びかけるも、業者に扮した者たちはそのか細い声に耳を傾けることなく、アパートの中へと姿を消した。
すぐに死ぬような傷を負わさなかったのは、彼女が生屍と化して脅威になることを警戒したからだろう。
だが、すでに痛みを通り越して悪寒となった全身の感覚は――取り返しがつかないほど血が流れ出てしまったことを教えている。
――ああ……死ぬんだ、わたし……。
自分でも驚くほどすとんと、その事実が胸に落ちた。
身体から余計な力が抜け、再度、仰向けに転がる。
視界いっぱいの空は、もう何色なのかさえ判別出来ない。
「おと……さ……。あき……と……く……。ごめ……」
――このまま死んで、生屍になったら……彰人君に処理されるのかな。
うん、彰人君ならいいかな……。
彰人君自身は……きっと、つらいって思ってくれるんだろうけど……。
彰人に悪いと思いながら……でも、と。
最期の――本当の願いが、頭をもたげる。
――でも、もしも……叶うのなら。
カイリ君、あなたに……喰らって欲しかった。
ナナ先輩のように、わたしも――。
赤い瞳をした純白の少年が、いつもの優しい笑みを浮かべてくれる――。
意識が闇に沈む、まさにその瞬間。
彼女はまぶたの裏に、そんな光景を垣間見ていた。