27.終の願い
サバンナが――アフリカの悠久なる大地が、震えていた。
屍喰と屍喰――人を超越した存在同士の争い。
その激しさは、まさしく人智の及ぶところではなかった。
舞うように繰り出される互いの腕がぶつかるたび、脚が交差するたび――。
常軌を逸した圧力の余波が、大地を削り、砕き――空を断ち、歪ませる。
それは――それこそは、〈神楽〉の本来の姿だ。
後の世において、人が神に奉納するため、その生に倣って創られたものではなく――神代、伝説に名を残す神魔たちが、己の生き様を世に刻みつけたのと同じに。
彼ら自身の『命の躍動』そのものだ。
同じ屍喰であれば、屍喰を殺すことも出来る――そんな理屈があるのかどうかは分からない。
だが少なくともカイリが、意識すれば抑えられるものの、痛みらしい痛みを久しく感じているのは事実で――。
加えて、アートマンを名乗る男に殴られるたび、蹴られるたび……骨が折れたり動かなくなったりはしないが、少しずつ、身体から力そのものが削れていくような感覚すらあった。
「――――っ!?」
襲い来る相手の拳を避け、交差する瞬間――まるで意識していなかった角度から迫る蹴りをまともに受けて、カイリは数十メートルは跳ね飛ばされる。
並の人間なら、そもそも吹き飛ぶ前に爆ぜて肉塊になっていただろう威力――さしもの屍喰でも、意識的なものか、激痛というような感覚が全身を巡っていた。
「お前、屍喰としての力はともかく……。
ケンカもロクにしたことがないみたいだな?」
やれやれとばかりに首を振りつつ、しかし楽しそうにアートマンは言う。
一方カイリはそれに答えることなく、ゆっくりと起き上がりながら――実際には乱れてはいない呼吸を、それでも改めて整えるかのように、無意識に大きく息を吐く。
……アートマンの奇襲によって戦いの口火が切られてから、カイリは防戦一方だった。
屍喰としての腕力や脚力といったものにそれほど差異が無くとも、アートマンの指摘通り、そもそもロクにケンカもしたことのないカイリに比べ……相手は実際に多くの人間を殺めてきた殺人者である。
命のやり取りについての経験の差は歴然であり――またそれは、『殺意』においても同様だった。
片や、殺す気でいる者と。
片や――むしろそこに、恐れのある者と。
起き上がってきたカイリに、アートマンは鼻歌交じりに近付く。
半ば反射的に、カイリは反撃の拳を繰り出すが……。
「ンだそりゃ?」
アートマンは、風を切り裂いて放たれたそれを、わけなく受け流すと――。
カイリの無防備な腹を蹴り上げ、さらに組んだ拳で背中を殴りつけて、もう一度地に叩き付ける。
そうして地に磔になったカイリ自身よりも、受け止めて放射状に亀裂の走った大地こそが、悲鳴を上げたかのようだった。
続けてカイリの背を踏みつけて押さえ、アートマンは喉の奥で嗤う。
「……まだ、人間だった頃はな……人間を殺すのが、愉しくて仕方なかったよ。
殺してから、肉を喰らったり、犯したりするのも最高でな……これが信じられないぐらい興奮するのさ。
ああ、本当に――動物でも虫でもない、人間という同族の『存在』を徹底的に蹂躙するってのは……そりゃあたまらない快感だった。
同族だけに、自分も同じ目に遭う危険が隣り合うっていうのも、また得も言われぬ刺激だったンだよ。
――だがな……。
こうして屍喰になっちまうと、そのすべてが色褪せちまった。
当たり前だよなあ……?
人間はもう同族じゃねえ、取るに足らない虫ケラ以下の存在なんだからよ。
だから――」
カイリの背を踏みつける足の力が増す。
華奢な体はそれでも砕けはしないが、地面そのものがなおも沈み込んだ。
「今この瞬間は、最高に充実してるぜ? 愉しみで仕方ねえよ……!
お前の心臓――いや『魂』は、どんな味がするのかって想像するとな……!」
「……たま、しい……?」
怪訝そうにカイリが呟く一言に、アートマンは眉根を寄せる。
「あぁ? 何だ……お前、気付いてなかったのか?
あの〈衝動〉、あれは生屍どもを喰らえって訴えてるみたいだが……多分、違うぜ?
少なくとも、肉を喰らえってわけじゃない――こうなる前にも後にも、人間を喰らってきたオレにはよく分かる。
あれが真に求めてるのは――魂だ。
生屍の、多分心臓とかその辺りに定着しちまってるらしい、魂ってやつなんだよ。
まあ実際、正確にどう呼べばいいのかは知らねえがな……表現としてはそう間違ってもいないはずさ」
話すのに夢中になっていたせいか、一瞬、アートマンの踏みつける力が緩んだ。
「――っ……!」
その瞬間を見計らって、アートマンの足下から脱け出し、すぐに体勢を整えるカイリ。 一方のアートマンは、それを失態と捉える風でもなく……余裕をもってそちらへ向き直った。
「何だ、まだ諦めないのかよ?
見たところ、お前……。
それほど、生きたがってるようにも感じないんだがな?」
「! それは――」
反射的に、カイリは目を伏せてしまう。
――アートマンの指摘は、正鵠を射ていた。
突然の事態に、こうして抵抗してはいるものの――彼の中には、確かにあるのだ。
このまま殺されれば、すべてから解放されて楽になれるのではないか――そんな想いが。
やはり、自分のような存在は死ぬべきなのではないか――そんな失望が。
永劫を生き続けることは、想像を絶する苦痛なのではないか――そんな恐怖が。
そして――。
「……ナナ姉……」
叶うのなら、七海と同じ場所に逝きたい――そんな願いが。
「へえ……図星、か。
まあ、生きようとあがいたところでムダだけどな。
……分かるだろう? お前じゃ、オレには勝てやしねえンだよ」
アートマンの評価は事実だと、カイリも理解していた。
何らかの武術を習得していたわけでも、ましてや運動センスが特別良かったわけでもない彼に、本物の、人の殺し方に精通した相手に勝てる道理など、あるはずもない。
――そうか……ここまで、なんだ……。
ふっ、と……あらゆる感情や思考を真っ白に塗り潰して、そんな理解が思い浮かんだ。
緊張感も敵意も消え失せて、棒立ちになったその瞬間――獲物に食らいつく肉食獣さながらに。
アートマンはカイリの首根っこを捕らえ、後頭部から地面に叩き付ける。
「……諦めたか。
もっと抵抗してくれても、それはそれで面白かったんだがな?」
ニヤリと嗤うアートマン。
その歪んだ顔を見上げながら、カイリが呟いたのは……やはり、彼女の名だった。
――そう、せめて。
死んだ後も、その想いだけは片時も見失わないように――と。