26.灯の消えるとき
――地磁気の逆転から始まる、この文明社会だからこその未曾有の災害……。
その発生を予言したロアルドに結衣は、
「ど、どうして……どうしてそんなことを、これまで黙っていたんですか!?
もっと早いうちから声を上げて世間に報せていたら、対策だって余裕をもって――!」
荒ぶる声とともに、テーブルを叩いて抗議するが……ロアルドは超然とした雰囲気のまま、ちらりと彼女を見上げる。
「表向き、私は犯罪者だ。それでなくとも、学会を追放された異端者だよ?
世間というものが、そんな人間の言葉を真に受けると思うかな?」
「それは……っ!
で、でも、あなたほどの人なら、何か手段が――!」
「……そうだね。手段ならいくらでもあるとも」
からかって悪かった、とばかりにロアルドは小さく笑う。
「それなら、すぐにでも――」
「もっとも。
君が望むような手は、何ら打つ気はないのだが」
「……え?」
結衣の発言を遮るロアルドの笑みからは、一切の色が消えていた。
一瞬――結衣は。
目の前で車椅子に腰掛けているのが、人間ではないような錯覚に陥る。
「当然だろう?
先に言ったように――私は、それを後押しするつもりでいるのだから。
……君は、今、世界で導入を急がれているバイタルチェック――その基本システムを作り上げた張本人が私であることを知っているだろう?
その情報を追うことで、ここへと辿り着いたはずなのだからね。
さて、実はそのシステムだが……少し細工がされていてね。
特定の信号を送ると、誤作動を起こせるようになっているんだよ――簡単に言えば、心臓の拍動に、深刻な悪影響を与えるような類の」
「――な――!?」
「地磁気の逆転による世界への影響がどれほどのものになるか――さすがに私でも、細部までは予測しきれないのでね。
通信網が途絶してしまうその直前に、バイタルチェックを誤作動させておけば……万が一、太陽風から生き残ったライフライン関連の施設があったとしても、管理する人間がいなくなって沈黙してくれるというわけだ。
さらには、事態を収拾しなければならない各国の首脳陣もまた、同じ状況になる。
残念ながら、すでに独自の機器を導入しているカタスグループの人間には影響しないが……世界的に見れば、充分過ぎるほど充分な混乱を引き起こしてくれるだろう。
そう――〈その日〉があってなお、何とか維持されてきた人々の『生活』は。
一夜にして、今度こそ間違いなく――崩壊する」
「どうして――どうしてそんなことを!
あなたは、この世界を破壊したいんですか!!」
怒りに燃える結衣の瞳が、ロアルドの瞳を真っ直ぐに見据える。
しかし――そこにあるのは、狂気の光などではなかった。
信念に裏打ちされているであろう、強い理性の光そのものだった。
「どうして……か。
このままでは、いずれ人は皆、ただ無為に楽園へと還るだけだからだ。
そしてそうなれば、いずれまた蛇によって新たな、しかしこれまでと同じような歴史を刻むしかない実を食わされるか――無慈悲な神に飼い慣らされるだけになってしまう。
だから……変化を促さなければならないのだよ。
たとえそれが、今の人類にとって非道であろうとも――甘えを完全に捨て去るためには、徹底的に追い込まなくてはならないんだ。
神にも蛇にも拠ることなく、人が、人であるうちに……自らの意志で次に食らう実を選び取り。
そして、今度こそ――本当の意味で、楽園を後にするために」
「もう……もういいです! これ以上、あなたには付き合っていられない!
わたしはわたしの出来る限りの手段で、あなたのその計画を邪魔してみせます!」
最後にもう一度、両手で大きくテーブルを叩いて――。
結衣は部屋を、文字通りに飛び出していった。
「……嫌われたな。まあ、当然だろうが」
結衣が去った後……入れ違いで部屋の奥のドアが開き、ヨトゥンが姿を見せた。
ロアルドは車椅子ごとそちらを向くと、苦笑混じりに肩を竦める。
「……で……君も私を止めるかい、ヨトゥン?」
「…………。
こんな俺の中にも、一応はまだ人としての倫理感はある。
それに従うなら止めるところなのだろうが――」
落ち着き払った様子で、ヨトゥンは小さく首を振った。
「たとえそうしたところで、もはや何が変わるわけでもない……もう既にそんな段階ではない。
――違うか?」
「……さすがだね、良く分かっている。
そう……世界の灯は、言葉通りに風前の灯、というわけだ」
言って、ロアルドは車椅子に深く身を沈める。
「さて――ヨトゥン。
君を呼んだのには、こうして、私が話せるだけのことを話す以外に……もう一つ。
君に、頼みがあったからなんだ」
「ああ……何だ?」
「何とも不躾な頼みで申し訳ないが……。
私が死んだら、友人として喰らってもらえないだろうか。
――私のこの身を、この魂を」
ロアルドの頼みに、ヨトゥンはしばらくの間を置いて、小さく笑った。
「死にかけた初老の男……か。いかにも味は期待出来そうにないな」
「おや、君たち屍喰に、味を感じる余地があるとは思わなかった。
……しまったな……ならば先の彼女に、口直しのデザートになってくれるようお願いしておくべきだったかな」
ぐったりと車椅子に身を預けたロアルドも、ヨトゥンにつられて表情をやわらげた。
「昔からお前の頼みときたら、いつも、他に選択肢の無い指示か命令のようなものばかりだった。
初めて、というわけだ――こうした、純粋な頼みごとは」
言って、ヨトゥンはさっきまで自分がいた、奥の部屋の方を振り返る。
「仕方ない、旧友の誼というやつだ。
向こうにあったワイン、あれ一瓶で手を打ってやる」
「……安物だぞ?」
「構わんさ。
――生憎と、俺は美食家じゃないらしいからな」