2.変わる世界
田舎というほどに田舎ではないが、都市部というにも何かと物足りない――。
そんな、ある種絶妙なバランスの上に乗った街が、ここ、伏磐市だった。
都心にもそれなりに近いので、主要駅近くの街並みや道路は綺麗に整備されているが、逆に言えばそれだけで。
繁華街としてはいまいち中身が乏しく、高校生ぐらいになれば、多くの場合買い物に遊びにと、電車やバスを使ってより都心寄りの街へ足を伸ばすことになる。
時刻は18時をとっくに過ぎていたが、未だしぶとく地平の縁にしがみついて赤く燃える夕日の中……。
仕事帰りらしい人々や他の学生に混じって駅を出てきた、伊崎 彰人と霧山 結衣の二人もまた、そうして伏磐の外での用事を終えて戻ってきた人間の一部だった。
「もう9月だってのに、この暑さは何とかならねえのかよ、ったく……!」
駅の近くで貰ったものだろう、焼き肉店の広告が印刷されたうちわで扇ぎながら、忌々しげに彰人は夕日を睨み付ける。
「さすがに、ちょっとはマシになったと思うけどね。
でもまあ、あと1ヶ月はガマンしないと」
にこやかに応じながら、彰人と並んで歩く結衣。
二人が向かう先は、駅近くの大通りに面したバス停だった。
「……それにしても、今日はホントにありがとね。
お陰さまで、考えてたのより良いのが買えちゃった」
結衣は、学生カバン以外にもう一つ持っていた、どことなく高級感のある小さな紙袋を持ち上げて礼を言う。
中身は、彼女が父の誕生日プレゼントにと買い求めたネクタイだ。
「いや、俺もいいヒマ潰しになったし、いいんだけどよ……俺なんかの意見が本当に役に立ったのか?
自慢じゃねーが、センスとかそんな自信ないぞ、俺」
「ううん、むしろセンス自慢の方が厄介だよ。
お父さんのネクタイなんだから、あんまり若々しいデザインの選ばれても困るもん」
「……お前……それ、暗に俺がオッサンだって言ってるか?
おーおー、そりゃカイリみたいなのに比べりゃ、俺なんて図体はデカいし、高校生のわりに顔も老けてるオッサンだろうけどなー」
「スネないスネない、冗談だってば」
屈託なく笑いながら結衣は、バス停側の植え込みの縁に腰掛けた彰人に続き、その隣りに座り込む。
「そういえば、カイリ君が家に一人きりになるときは、伊崎家で一緒に晩ご飯を――っていうの、もうどれぐらい続いてるの?」
「ん? そうさなあ……あんまり詳しく覚えちゃいないが……。
確か、カイリが宮司さんのところに来て、ちょっとは経ってからだろうから……まあ、5、6年にはなるんじゃねえかな。
……あ~、なんなら結衣、今日、お前も来るか?
知っての通り、ウチは親いねえから遠慮する必要もねえし、お前なら姉貴も大歓迎だろうし」
彰人の提案に、結衣は苦笑混じりに首を振る。
「ありがと。……でも、遠慮しとくね。
ナナ先輩の料理はすごく魅力的だけど……やっぱりまだちょっと、幼馴染み水入らずの輪の中には入りづらいから」
「ンなこと、いちいち気にしなくていいんだがなあ……」
呆れたように言いながら、彰人は自身のポケットの振動に気付いたのだろう。
スマートフォンを取り出し、着信が姉の七海であることを確認して電話に出る。
「――ああ、姉貴? ちゃんと待ってるって。
そう、バス停の後ろ、階段の植え込みのところ――って、なに、見えたって?
あ~、じゃああのバスか……」
スマートフォンを耳元に当てたまま立ち上がり、道路の方へと首を伸ばす彰人。
その視線を追って結衣も目を向けると……。
逆方向からサイレンを鳴らして駆けてくる救急車のために、1台の路線バスが交差点に入る前に停車しようと、スピードを落としているところだった。
「ああ、バスは見えたよ。
――姉貴たち? この距離で見えるかよ、俺は姉貴みたいな自然児めいた異常な視力してねえからな……って、いいよバカ、手ェなんか振るなよ!
ガキじゃあるまいし、まったく小っ恥ずかし――」
口調とは裏腹に、穏やかなはにかみ笑いを浮かべていた彰人。
しかし――その笑みは、言葉は。一瞬にして凍り付く。
轟音。
そのとき、辺りの空気を圧したのは――ありえないほどのそれだった。
まるで、何気ない日常が――それを映し出す世界そのものが砕け散るような。
二つの鉄の塊が恐ろしいまでの勢いでぶつかり合う、激しく凄まじい轟音。
だが、それがあまりに信じられない、信じたくないような事態だったからか――。
その場にいた人々の脳が、すべての情報を整理し、状況を正しく理解したのは……一瞬とも1分ともつかない、奇妙に澱んでまとわり付く、刹那の時間のあとだった。
――バスは、周囲の車も巻き込み吹き飛ばした挙げ句、道路の中央で止まっていた。
空いた車線を駆け抜けると思われた救急車が、突然蛇行し――バスに正面から突っ込んだのだ。
「――ッ!
姉貴!! カイリッ!!」
その場の誰もが、あまりの事態に、まさしく茫然自失だった。
そしてほんの僅か、その空隙の静寂の後……揺り返しのように狂騒が巻き起こる、その先陣を切って。
彰人は、バスに向かって駆け出していた。
「くそ……っ! くそ、くそっ! なんで……!!」
湧き上がる感情を悪態として吐き出しながら、必死に足を動かす彰人。
――近付けば良く分かる。
事故現場は、遠目からの想像以上に凄惨を極めていた。
交通量はさほどに多くなかったが、それでも巻き込まれたのは、車だけでも1台や2台ではすまない。
さらに、自転車やバイクとともに倒れ伏している人間の数ともなると、もはや十指にも余るほどだ。
彰人も、博愛主義というほどではないものの、一般的な道徳心と多少なりと強い正義感を持つ少年である。
状況が状況なら、とにかく手近なところから、一人でも多くの人を助けようと尽力したことだろう。
しかし今の彼に、そんな余裕などあるはずもなかった。
一部の車は既に火を噴いてさえいる、そんな状況の危険さも目に入らないとばかり――残骸を、ときに飛び越えときに迂回し、必死に、ただひたすら真っ直ぐにバスを目指す。
「姉貴!! カイリッ!!」
出せる限りの声量を絞り出して呼びかけながら……巻き込まれた後続車が支えになったようで横倒しにはならずにいるものの、見るも無惨な姿で道路の中央に佇むバスへと近付く彰人。
衝突の凄まじさそのままに、車の原型などまるで留めないほどひしゃげた前部は、当然ドアも潰れていたが――。
何とかくぐり抜けるだけの空間は確保出来そうだと、ドアの成れの果てを無理矢理引き剥がし、車内へと足を踏み入れる。
――そうして、彼はすぐに気付いた。
もともと乗客が少なかったのか、想像よりもがらんとしたバスの最後尾に……。
こういうときばかりは目立つのがありがたい、見慣れた真白い髪が、射し込む夕日の中で煌めくのを。
「カイリ、大丈夫か!? 姉貴は――!」
一も二も無く、うずくまる幼馴染みの下へ駆け寄る彰人。
そして――彼は見た。見てしまった。
燃えるような夕日よりも、ことさら視界を紅く染め抜く、その光景を。
――大きく変わりゆく世界、その『始まり』を。
彼自身の、この先の人生の変遷――その切っ掛けとなるものを。