21.〈預言者〉に問う
――マンハッタン島の、ハーレム地区に近い一画。
本当に人が住んでいるのかと疑いたくなるほど荒廃した、アパートの最上階。
その最奥、目的のドアを前にして……結衣は一度、大きく深呼吸した。
――ようやく、辿り着いた……。
今現在世界中で、人間の生屍化による混乱を未然に防ぐことを名目に、国家の枠組みを超えて急速に進められている、全人類へのバイタルチェック埋め込みの義務化――。
その先駆けとして、まず、国連加盟国の首脳陣や、ライフライン関係の仕事に従事する人間に埋め込まれたチェック機器の根幹となるシステム。
……それを開発した人物が、まさにこのドアの向こうにいる。
実際に機器の開発者として記録に名を連ねているのは、研究開発をしていた研究所の人間たちだが……。
その彼らに密かに技術供与を行っていた、『真の開発者』とも呼べる人物を、結衣は突き止めたのだ。
そして――その真の開発者こそ、彼女が行方を追い求めていた人物だった。
この10年、彼女が探しに探し続けたカイリと――彼の身に起きた異変への手掛かりだったのだ。
「…………」
果たして、その『手掛かり』がどれほどのものなのか――。
苦労に見合わない僅かなものに過ぎないのか、謎の全容まで迫れるほどのものなのかは分からない。
しかし、その先へ進むためにも――絶対にこの機会を逃がすわけにはいかないと、結衣は気を引き締め直す。
「……よし」
インターホンのようなものは見当たらなかったので、取り敢えずドアを強めにノックしてみると……意外にもすぐさま「どうぞ」と返事が返ってきた。
誰か、と問われることもなく、いきなり入室を許可されたことに一瞬戸惑うものの――意を決して、挨拶とともにドアを開ける結衣。
アパートの一室であるはずが、間取りは広くてもごちゃごちゃと置かれた物のせいで、まるで倉庫のような部屋の中央――。
車椅子に座った初老の男が、笑顔で彼女を手招いていた。
「……失礼します」
もう一度そう挨拶してから結衣は、促されるまま慎重に……。
大きめのスチールテーブルを挟んで、初老の男と向かい合う位置に置かれた、簡素なパイプ椅子に腰掛ける。
「ロアルド・ルーベク氏ですね。
初めまして、わたしは――」
「大丈夫、覚えているよ。霧山 結衣さん――だね。
伏磐の病院ですれ違って以来だから……10年と少し振り、だろうか」
柔和な笑顔のまま、穏やかな口調でロアルドが述べた言葉に、結衣は凍り付く。
――消息を追いかける自分のことを、当の相手も知っている……という可能性は、限りなく高いと踏んではいた。
結衣が調べられただけでも、ロアルドはいくつかの犯罪組織と繋がりがあり……その上で巧みに身を隠しながら、世界を転々としていたような人間だ。
いきおい、情報を扱う技術に長けているのは明白で……だから今日、こうしてようやく見つけた住居を訪ねるにあたって。
連絡が筒抜けになって警戒され、逃げられてしまっては元も子もないと、行動は慎重に、偽装に偽装を重ねた上で――以前ファミリーレストランで会ったときに彰人と約束した、彼への報告すらも絶ってきたぐらいだ。
……にもかかわらず、自分が来ることを見透かされていた――。
(違う……問題はそこじゃない……!)
彼の消息を追う多くの人間のうちの一人として、単なる『情報』だけで処理されていると思っていた自分。
そんな、彼にとっては取るに足らない存在だろう自分を――10年前の、まるで接点などなかった頃の些細な記憶とも結びつけられる点にこそ、結衣は戦慄したのだ。
そうして、二の句を継げずにいる結衣に……ロアルドは優しく、「そう固くならずに」と告げる。
「――時平 カイリ君……。
彼のことを聞きたくて、私の所へやって来たのだろう?」
びくりと、正直に結衣の体が反応する。
……首尾良く会えたなら、バイタルチェックの開発についての何気ないインタビューのような形から、徐々に話を掘り下げていこう――。
そんな風に考えていた結衣の目論見は、早々に砕け散っていた。
いわく、『すべてを見透している』。
いわく、『常軌を逸した天才』。
いわく、『預言者』――。
消息を追う過程で見つけた、ロアルドと関わった人間によるいくつかの断片的な人物評が、ふと、結衣の脳裏を過ぎる。
その人物評を見た当時の印象は、それほどに頭が良いのか、という程度でしかなかったが……今まさに彼女は、そう評した者たちの真意に触れた気分だった。
出鼻を挫かれるどころか、完全に呑み込まれたような形だが……逆にそうして、萎縮しそうになるほどの存在感を見せつけられたお陰だろうか。
かえって腹を括って開き直れたらしく、一呼吸置いた結衣は――改めてまなじりを決し、ロアルドを見据えた。
「――ええ、そうです。でも、それだけじゃありません。
〈その日〉以来続く、世界の異変についても……あなたの知っていることを話してもらいたいんです」
「……どうも皆、大きな勘違いをしているようだがね……私が知っていることなど、ほんの僅かでしかないんだ。
仮に君が、真実を、全貌を――などと求めたとしても、それは世界の真理を詳らかにせよ、と言われるのと同じぐらいに不可能なことでね。
つまり、だ――。
君たちが言うところの『異変』は、私などがどう頑張ったところで、引き起こせるようなものじゃないんだよ」
異変の首謀者として疑われていることは承知している、とばかりにロアルドは言う。
結衣は、一語一句、真贋を見誤るまいと、神経を研ぎ澄ませる。
「では、どうしてあなたは〈その日〉が来ることを予見出来たのですか。
あなたが学生の頃に書かれた論文を見る限り、ただの当てずっぽうとは思えません」
「書いた通り、『視えた』からだよ――人間を形作る情報の中に、そうしたものが。
差し当たっては無難な、数字というイメージに置き換えたが……あれを正しくどう表現するべきなのかは、今もって分からない。
あるいは、人間ごときの感覚では無理なことだったのかも知れないね」
「では……〈その日〉以来、人に何が起こっているのか。
あなたはどう考えているんですか」
期せずして、当初目的にしていたインタビューのような形式になっていることに気付く余裕もなく、結衣は質問を重ねる。
「……そうだね、私見でしかないのだが……。
私は、一つの時代が終わり、もともとあった姿へ戻りつつあるのだと思うよ――単純な進化や退化といった、二方向的なものではなくね。
そして恐らく、それを告げる報せのようなものが、私が人の中に『視た』ものの正体なのだろうと思う」
「戻る……?」
「そう。知恵の実によって得た時代は終わり……。
人は今一度、楽園へと還る時が来たんだ」