17.〈巨人〉の名付け親
「……ここ、か――」
――世界の商業、金融、文化の中心たる大都市……ニューヨークはマンハッタン島。
その北東部、ハーレム地区にほど近い一画に建つ古びたアパートの前に、ヨトゥンはいた。
マンハッタンは人口密集地だけに、〈その日〉直下の被害が大きかった上、島という地形が隔離による冥界化に適していたのだが……。
国連本部を初めとする重要施設も多く、アメリカとしては易々と全面放棄するのはプライドが許さなかったのだろう――完全な冥界化は見送られ、ハーレム地区など、一角だけがその任を負って封鎖されている。
今ではさすがに、万が一に備えて重要施設の多くはその機能を他所へ移転しており、また人口も大きく流出したが……依然、世界有数の大都市であることに変わりはなく。
かつて生屍を駆逐せんと、アメリカ政府が軍事力を集中投入した名残から、中心部ではなおも被害を未然に防ぐ目的で、多くの駐留兵士が巡回する姿が見受けられる。
だが――ヨトゥンが訪れたアパートの周囲は、静かなものだった。
冥界を囲う隔壁にほど近く、それゆえロクに住民がいないためだろう。
そして皮肉なことに、人がいなければ生屍が増えることもなく……いきおい、監視する必要もなくなるというわけだ。
「……ん?」
玄関口をくぐり、目指す最上階の部屋へ向かうため、建物中央の広い階段前へやって来たヨトゥンは……急ぎ足で駆け下りてくる誰かがいるのを察し、足を止める。
やがて彼の前に現れたのは、利発そうな黒人の少年だった。
少年は、まさかこんなところで人と会うとは思っていなかったのか――大袈裟なほど全身で驚きを表していたが、やがてすぐ、何かに思い至ったのだろう。
階段の残りはゆっくりと下りながら、陽気な笑顔とともにヨトゥンに話しかける。
「やあ、おじさん。〈先生〉のお客さんだね?」
「――先生?
それは、ロアルド・ルーベクのことでいいのかな?」
「そうそう、そのルーベク博士だよ」
「……ふむ。
前もって約束を取り付けた覚えはないんだが……」
「へへ、先生は何でもお見通しだからな!
『今日は客人が来る大事な日だ』って何だか嬉しそうに言ってたし、間違いないね!」
得意げに語る少年に、ヨトゥンも相好を崩す。
「なるほど。お見通し、だな」
「まァでも、大体、今ここに住んでるのなんて、先生とオレぐらいだから。
おじさんみたいな身なりの良い人が来る理由なんて、そもそも先生ぐらいしか思いつかないんだけどさ」
そう言って少年はまた「へへへ」と人懐っこく笑い、ヨトゥンに右手を差し出す。
「オレ、ランディ・ウェルズ。
先生に色々と教えてもらいながら、助手みたいなことやってんだ。よろしく」
「ああ、よろしくランディ。――ヨトゥンだ」
ごく自然に、ランディと握手を交わすヨトゥン。そこには、『人と違う存在』としての気負いや緊張は見られない。
それはある意味、彼がそうした自分を完全に認め、受け入れているがゆえの自信なのかも知れなかった。
「ヨトゥン――〈巨人〉、かあ」
「ほう、良く知っているじゃないか。
どうやら、なかなか優秀な生徒らしいな?」
「へへ、まァね。
にしても……ぴったりだけど、まんまな名前だ。本名じゃないよね?」
「昔、君の先生が付けてくれたアダ名だよ」
ヨトゥンの答えに、やっぱり、と何度も頷くランディ。
「……ところでランディ、君は何処かへ行くところじゃなかったのか?」
「あ、うん――ちょっと先生に頼まれて、お使いにね。
いや、ハドソン河越えなきゃなんないから、ちょっとじゃないかも知れないけど」
「なら、急いだ方がいいんじゃないか? 悠長にしてると日が暮れるぞ」
「……そうだね。先生とヨトゥンがどんな話するのか、興味はあるけど……先生の用事を放り出すわけにもいかないし。もう行くよ」
大きく手を挙げて、ランディはヨトゥンの脇を抜けてアパートの玄関口へ向かう。
「ああ、気をつけてな」
一言挨拶を置いてその場を去ろうとしたヨトゥンだが……ランディは玄関の前で立ち止まり、自分の右手とヨトゥンを見比べて、小さく首を傾げていた。
「……どうした? まだ何かあるのか?」
「んー……ヨトゥンってさ……」
何かが引っかかっているが、そもそもその『何か』が何なのか分からない――。
そんな様子で、難しい顔でしばらく唸っていたランディだったが……ややもすると「いいや」と激しく頭を振る。
「なんでもない。それじゃ、またね」
そして、今度こそ外へと元気よく駆け出していった。
それを見送り、ヨトゥンも自分の右手を見下ろす。
「理屈ではない、何らかの違和感があるということか。……カンの良い子だ」
何度か拳を握ったり開いたりと繰り返した後、改めてヨトゥンは階上を見上げつつ階段を上る。
そうして辿り着いた目的の部屋で――
「やあ、久し振り。
本当に……本当に久し振りだ、ヨトゥン」
そう言って、ヨトゥンを迎えた男は……その『久し振り』という言葉が持つ年月の重みを、文字通りに体現していた。
白いものが多分に混じり始めた髪と髭、深い皺、それでいてますます輝きを増したのではないかと思われるぎらついた瞳――。
それらは、まるで別人のようでありながらも……。
ヨトゥンの記憶の中の若々しい姿と、確かに繋がっていた。
この10年の間、彼が捜し続けてきた旧友――ロアルドのそれと。