7.青を見下ろし
――アメリカの空の玄関、ジョン・F・ケネディ国際空港へ向かって、大西洋上を飛ぶ旅客機内。
「……ああいや、結構。どうもありがとう」
客室乗務員のサービスの申し出を穏やかに断ると、ヨトゥンは――。
彼の体格にはやや窮屈な、エコノミークラスの座席に改めて深く背を預け、窓の外へと視線を向けた。
――空から見る景色は、見渡す限り、幾色もの青に染め抜かれている。
空の濃淡と、海の明暗……それぞれ同じものでありながら、数え切れないほどの表情を見せる、数多の青に。
それは、ともすれば何の変哲もない、退屈な光景かも知れない。
事実、かつて仕事で空路を利用したとき、同じようなものは幾度となく見てきていた。
しかし……。
それにもかかわらずヨトゥンは、その光景を――ただ、美しいと感じていた。
何の因果か、人間を超越した存在となりながらも、かつてのように。
――いや……むしろ。
だからこそ、なのか……。
ヨトゥンは内心首を振る。
人ではなくなったからこそ――老いること無く悠久の時を刻む、この世界そのものにより近しい存在となった今だからこそ。
ことさらに、それを美しく感じるのかも知れない――と。
――しかし。
この光景の中に〈人間〉という存在が混じり合ったとき、果たしてどうなるか――。
ちらりと、機内に視線を移せば……。
そこには、目的地までの時間を思い思いに使う、老若男女の姿がある。
これが社会の縮図だ、とまでは言わないが、その一角であることは間違いないだろう。
……人は、獣との違いとして、知恵を持った。
ゆえにその知恵を磨き、より純粋な別個の存在たる『人』として、進化を遂げてきたはずだ。
しかしそれにもかかわらず、ヨトゥンの目には……現代の人間はむしろ、本質において獣にこそ近付いているように見えていた。
――進化の先の、退化。
それは、停滞どころか、ただの退化よりもずっと性質が悪い。
なぜなら、そうして戻る先は元の『獣』ではなく――間違いなく、人としての知恵があるがゆえの、より凶悪で手に負えない『何か』だろうからだ。
それを、醜悪と捉える者もいるだろう。
何より人こそが、世界の美しい調和を汚す、この星の害悪そのものだと。
だが……ヨトゥンは、そうは思わなかった。
人間とて、疑いようもなく、この星の一部であるからだ。
調和の一端であるからだ。
汚れていようとも、醜かろうとも――それらをも含めて。
ただ――。
その、進化の先の退化――それが、そうならざるをえない、人の本質というものであるならば。
ヨトゥンにはそれがただ、ひたすらに憐れに思えた。
――すると、あるいは……。
〈その日〉の異変は、人類そのものにとっては僥倖だったのかも知れん……。
思索に耽りながらヨトゥンは、上着の内ポケットからメモ帳を取り出す。
……いかに不老不死を得ようとも、生屍のような状態が、人の進化、新しい姿だとは思えない。
では、翻って自分たち屍喰はどうかと言えば……。
進化は進化なのだろうが、しかしやはり、人の本来辿るべき道からは外れていると感じる。
突然変異で系統樹から分化したのか、あるいはそもそも――友人の言の通り、生前から『人』とは違う系統にいたのか……どちらなのかは定かでないが。
――ともかく、これまでは緩やかに破滅を辿るかのようだった人類の行く末に、あの異変が一石を投じたことは間違いないだろう……。
今でこそ人類は、これまでのいわゆる『人間らしい』歴史、生活を守ってはいるが……。
しかし、死の在り方を――絶対の真理と思われたものを根底から覆した、あの一石の波紋が、このまま消えゆくはずもない。
――人間はきっと、この先さらに大きく変化していくだろう。
それはしかし……悪い方へ、なのかも知れないが。
ヨトゥンはメモ帳のページを手繰る。
そこに走り書きされているのは、彼が足かけ10年もの間追いかけ続け――そしてようやく追い付こうとしている、〈友人〉の足跡に関するものだ。
――いや……。
それも含めて、〈必然〉だと言うのかな……ロアルド、お前は。
メモを閉じ、再び機外へ目を向ける。
屍喰となり、人を超越しながらも、未だに彼には――。
かの友人だけが見ていた景色は、見えそうになかった。