6.古き聖地にて
――聖なる河ガンジスとともにあるインドの古都、ワーラーナシー。
かつては年間100万を超えるヒンドゥー教徒たちが巡礼に訪れていた、数千年の歴史を持つ聖地だ。
そしてそれは、〈その日〉を経た今も、大きく様変わりはしていない。
さすがに、最盛期に比べてはるかに数は減ったものの……大河ガンジスに沐浴しようとこの街を訪れる人間は、未だ途絶えることはなかった。
街を逃げ出した住民と入れ替わったかのように、至るところに生屍がたむろしているにもかかわらず――である。
いや……あるいは、世界がこんな状況だからこそ。
罪が清められ、輪廻より解放されるという恩恵を求めて、方々から人がやって来るのかも知れない。
そうして、完全に放棄されるわけでもなく――。
聖地という特殊性から、安易に〈冥界〉として隔離することも出来ない古都。
――それゆえに死者と生者が共存する、その様は。
まるで、あの世とこの世の境界線みたいじゃないか――。
ガンジスの川岸に沿って多く連なる、階段状の沐浴場……。
その段の一つに腰掛けた一人の若者は――膝で頬杖を突きながらそんなことを考え、どことなく気怠げにため息を吐く。
「いや……境界線って言うなら、今や世界そのものがそうか。
何とも曖昧になっちまって……あっちとこっちの区別なんて、無いようなモンだ」
彼はもう数日こうしていたが、沐浴に来る人間が途絶えたためしはなかった。
まさに今も、数人の老人が若者の脇を抜けて、夜明けの薄霞漂う大河へと降りていったところだ。
「……退屈だな」
溜め込んでいた感情を、若者はいよいよはっきり口に出す。
……この世とあの世がない交ぜになったような今の世界は、まるで神話の時代に巻き戻ったかのようだ。
しかし、だとすれば……。
絶対の力を持つ神というのは、何と退屈なものなのか――。
一見すると、この国のどこにでも居そうな一人の若者でしかない彼。
今も風景に溶け込み、何ら目を引くことのない彼は――かつて〈アートマン〉と呼ばれ、恐れられた殺人鬼だった。
そう――かつては、だ。
この数年というもの……彼はただの一人も、人を殺めていなかった。
しかしそれは、これまでの己の行いを省み、改心したからというわけではない。
死刑の際も、その後、屍喰として蘇生してからも……。
彼は、己の罪を悔いたことなど一度としてない。
彼が人を手に掛けなくなった理由は、ただ一つ――。
そこに、高揚感が無くなったからだ。
これまで人を殺す理由など考えもしなかった彼だが、屍喰となって数年、その人外の圧倒的な力で暴威を振るううち、はたと気付いてしまう。
――ただ殺せればいいというわけではなかったのだ、と。
他でもない、人間という『同じ存在』の命を引き裂くからこそ――その禁忌の中に自己の確立を感じるからこそ。
彼は、抗い難いほどの至高の愉悦を得られたのだ。
しかし屍喰として、文字通り人を超越した力を得てしまうと……殺人など、アリを踏み潰すよりも容易な、ただの作業でしかない。
あるいはそうした行為にこそ愉しみを覚える者もいるのかも知れないが、彼はそうではなかった。
たちまち、人を殺すことに飽きてしまった。退屈してしまった。
銃弾すら容易く見切り、仮に受けたところで傷も負わず、老いもしない不死の体――。
鋼鉄すら紙のように切り裂き砕き、走れば車も軽く抜き去り、見上げるばかりの大樹も安易に飛び越えられる、超人的な力――。
それらを得たとき、初めはまさに神のごとき力だと、優越感に狂喜した。
しかし、今となっては……あるいはこれこそが、罪を重ねに重ねた己への罰というものなのかも知れない、とすら思っている。
唯一にして至高の快楽を喪ってしまえば――この力も、退屈の中に永遠を生きろと押し付けられているようなものだ。
――なら、それこそが地獄ってやつなんじゃないか……?
特に意識もせず、もう一度大きなため息を吐き出したとき……。
彼の耳は、周囲で会話する声の中から、一つの単語を拾い上げた。
――〈神の化身〉。
弾かれたように顔を上げ、彼はそちらへ注意を向ける。
声の出所は、沐浴場を見下ろす位置でたむろし、会話する老人たちのようだった。
「……ああ、ありゃ、そうに違いねえ。
俺ゃ、この間まで、トルコの息子夫婦のところに厄介になってたんだが……」
聞き耳を立てれば、老人の一人が、先日トルコで生屍の群れに襲われて危機に瀕したところを、一人の少年に助けられたことを語っているのが分かった。
人間離れした力を振るう、透き通るように美しく白い髪と肌に、赤い瞳のあの少年は……〈神の化身〉に違いないと。
話を聞いていた〈アートマン〉は、胸の内に、久しく忘れていた感覚が首をもたげ始めるのを感じていた。
ふつふつと沸き上がるその感覚のままに、口角も持ち上がり、自然と笑みを形作る。
――いた。
ああ、いたじゃないか……殺すに値する存在が!
すっくと立ち上がった彼は、愛想の良い笑顔をそのままに、老人たちに近付いた。
……そうだ、神に等しい力を得たのなら――。
「やあ、爺さん……悪ぃけど今の話、もっと詳しく教えてくれねえか?」
――殺せばいいのだ。人や生屍などではなく……。
自分と同じ――神のごとき者を。