2.変わり、変わらぬ世界
――〈その日〉から、10年の月日が流れていた。
人間の『死』の変容と、〈生屍〉という存在の、科学的・医学的研究は世界規模で変わらず続けられていたが……肝心要の原因と根本的対策について、人類は未だに明瞭な答えを見つけられずにいる。
まず、生屍となった者がどうして人を襲うのか――それすら判明していないのだ。
食料にするためというなら、脅威ではあっても理解はしやすい。
だが、彼らは人を襲いこそすれ、喰らいはせず……そして、同じ生屍となった者に敵意を向けるところは、未だ確認されていなかった。
では同族を増やすためなのかと言えば、確かにそれは現在最も有力な説ではあるが……やはり疑問も残っていた。
一定の範囲内に生きた人間がいれば襲いはするものの、その範囲の外まで探しに行こうとはしない積極性の無さ――そして同族がいても、ともに何かをしようとするでもない、社会性の無さなどがそれにあたる。
人も含めて生物に基本的に存在する、種の保存に則した行動がまるで見られないのだ。
〈冥界〉の観察などから分かった、生屍の基本的な活動といえば――あてどなくうろつく、という程度のものでしかない。
完全に立ちぼうけというわけでもなく、座り込んだり寝転がったりもするのだが、そこに目的や理由は見当たらない。
何も知らない人間が見れば、行動意欲を激しく失った者が、茫然自失でいるようにも感じるほどに。
また別の説としては、彼らは天敵に反応しているのだ――というものもあった。
これは特に、生屍は〈屍喰〉に対しても敵意を向ける、という情報を基に成り立っているのだが……。
まずその情報のはっきりとした検証が出来ていない上に、そもそも今の人間には生屍を退けることは出来ても、完全に滅ぼす術がないという事実から、まださほど有力視はされていない。
だが……こうして、正体が判然としなくとも。
『それ』がそこに在り、人間社会と切っても切れない関係になってしまっているのは確かなことなのだ。
だからだろう――この、10年という歳月のうちに。
死を迎える人間への対応、そして生屍となった者への処理……そうした面に対する人類の意識、それ自体が変化を始めていた。
未だに、そうした『処理』に対しては、倫理観から起こる嫌悪や恐怖が根強くまとわり付いてはいるものの……。
それを、異常事態への臨時的な対処でなく、一種の『日常』として捉えるようになり始めていたのだ。
……もちろん、だからといって人間の『死』に対する認識の根底が覆ったわけではない。
亡骸が土に還ることはなくなっても、人格の消滅という意味で、それは確かに喪失であり、別離であるのだから。
ただ、死者が生屍として『生き』、土に還ることがないという事実が常識として浸透するにつれ――『死』の扱いを巡って、新たな主張も現れていた。
それは――。
生屍とは一種の転生であり、来るべくして来た人類の変化への道筋であり。
受け容れるのが当然で、否定するべきでないという――〈その日〉の異変を肯定するような類のものだ。
そうした意見を掲げる人間は、同時に生屍の人権すらも主張し、国連を通じて世界的に生屍の〈冥界〉への隔離を先導するカタスグループを、迫害者として非難もした。
さすがに、そこまで極端な人間はまだごく少数派であったものの……カタスグループへの非難という事柄だけに絞って見れば、他にも様々な主義主張があり、決して小さなものではなかった。
その最たるものが、この事態そのものが、カタスグループが利益を追求するあまり――あるいは、もっと飛躍して。
グループが世界を牛耳るための自作自演に違いない、とするものだ。
しかもこうした主張は、実際に世界への影響力をいや増すカタスグループを牽制するべく、国家や他の大企業によって、秘密裡に擁護すらされていた。
一時、現状打破のために利害を超えて築かれていた世界的な協力関係はしかし、時が経ち、慣れと余裕が生まれるにつれて、また元通りの足の引っ張り合いに逆戻りしていったことになる。
しかしそれは、ある意味人間という生き物にとっての、偽りない自然であるのかも知れなかった。
――総じて、世界は……。
決定的な異変を迎えながらも、今のところはまだ――これまで通りの、いかにも人間らしい人間社会を維持してはいた。
小さな、しかし消えようのない変化の兆しを幾つも内包しながらも――今のところは。