〈その日〉――カイリの朝
今日も暑くなりそう――。
社務所を出た時平 カイリは、榊の大樹の陰から空を覗き見て……もう9月なのにと、うんざりしながら日傘を差して歩き出した。
歴史は古いらしいが、それ以上、特徴らしい特徴もない神社……カイリの家。
その小さな境内は、日本のどこでもまだうるさいはずの蝉にすら顧みられていないかのように、ひっそりとしている。
この場にもし、何も知らない旅行客の一人でもいたなら……。
そんな、夏の喧噪から切り離された境内を静かに歩くカイリに、神秘的なものを感じ取り――その姿を目で追わずにはいられなかっただろう。
凜々しい少女のような中性的な風貌もさることながら、唯一、その赤い瞳以外、彼は己を彩る色彩を持ち合わせていなかったからだ。
新雪さながらの白い肌に、白い毛髪――これで身に纏うものが高校の制服でなく、白無垢などであったなら、それこそ場所柄、何か超常の存在のように神々しく見えたことだろう。
だが……本人にしてみれば。
神秘さを助長するだろう我が身の『白さ』など、何のありがたみもないどころか、むしろ枷ですらあった。
――先天性色素欠乏症。
俗に白子とも呼ばれる、生まれながらの疾患。
日光から身を守る役目を持つ色素が決定的に少ないため、本来なら、命が謳歌して然るべき太陽の光の下に、おいそれと出ることが出来なくなるのだ。
それゆえに、彼は幼い頃より、日中の外出に日傘は手放せず――そしてそれがまた、彼の枷をより重いものにした。
一昔前に比べ、日傘を差す男性も増えたとはいえ……それが年端のいかない子供となれば、やはり目立つ。
繊細な顔立ちや華奢な体付き、そして何よりその白い髪と、やはり色素が足りないゆえに赤く見える瞳のこともあり――彼が同年代の子供たちにからかわれ、ときにいじめられたのは、一度や二度ではなかった。
そして――それを以前の彼は、一種の諦観とともに受け入れてきた。
そんな目に遭うのは、もっと幼い頃の自分が犯した『罪』に対する『罰』なのだと。
仕方がないことなのだと。
だがそうはいっても、周囲から異端扱いされ続けてつらくないはずがない。
ずっとそのままだったなら、彼の心はまともではいられなかったかも知れない。
いや……実際その扱いについては、高校生になった今でもさほど変わらない。
からかわれることもあれば、いじめのようなことをされたりもする。
しかし――今の彼は、それを諦めることも、嘆くこともなく。
受け止めたり、いなしたりしながら……概ね、彼自身が平穏だと思える日々を過ごすことが出来ていた。
その理由は……たった数人であれ、彼自身をありのままに受け入れてくれる友人と、そして――大切な人と出会えたからに他ならない。
そう。幼い頃から知る、何より大切なその人が――。
俯いてばかりだった彼に、顔を上げることを教えてくれたからだった。
……境内の端、年代ばかり感じさせる古い鳥居をくぐり、お世辞にも歩きやすいとは言えない、やや傾きがちな石段を降りきる。
そうして、道路に出たところで――カイリは声をかけられた。
「おはよう、カイリ君」
そう彼に明るく挨拶をしてきたのは、眼鏡の少女。
彼にとって気の置けない、大事な友人の一人だった。
「あなたとここで会うってことは……。
もしかして、今日はちょっと遅い?」
その友人――霧山 結衣は、落ち着いた声でそう続けて、小さく首を傾げる。
カイリは日傘をちょっと上げて頷いた。
「爺ちゃん、今日は会合に出るから。
ちょっと、朝の片付けに時間を食っちゃって」
「あ、そうなんだ。
……ん~……それじゃ、今日はムリかぁ~」
少し子供っぽくもある、可愛らしい赤いフレームの眼鏡を押し上げながら……石段の先を見上げた結衣は、そう呟いて小さく息を吐く。
「……爺ちゃんに何か用でもあったの?」
ずっと立ち話をしているわけにもいかないと、郊外の街特有の静かな空気の中、駅の方へと一緒に歩き出してから、改めてカイリは結衣に尋ねた。
「ううん、宮司さまじゃなくて、カイリ君の方。
放課後、ちょっと付き合ってもらおうかな、って思ってたんだけど……会合の日ってことは、アレだよね?」
「ああ……夕食、彰人のところでご馳走になるってこと?
まあ、そうだね。さっき、ナナ姉からもそう連絡あったし。
――けど、夜の話だから、多少なら時間も……」
ある、と続けようとしたカイリの言葉を遮って結衣は、「何言ってるの」と呆れた様子で、持っていたカバンでカイリの足を小突く。
「晩ご飯の買い物の前に、デートする予定なんでしょう?
ナナ先輩も人が好いから、『ちょっと彼氏借りますー』なんて言っても怒らないかも知れないけど……恋路を邪魔するヤボなんて、こっちから願い下げ。
だから……うん、カイリ君じゃなきゃダメってワケでもないし、代わりに彰人君にでも頼もうかな」
「……そっか。その――ありがとう」
「あー、お礼言われると、それはそれでツラいんだよなあ……独り身は」
冗談めかして大げさに言いながら、結衣は眩しそうに空を見上げていた。
「え、じゃあ、謝った方が良かったってこと?」
困ったように応えるカイリに、スネた、とばかりにしばらく無言を通す結衣。
そうして――。
やがて彼女は、カイリが予想していた通り、いつものように明るく笑い、
「どっちもダメ。何言ったってイヤミになるもん。
カップルはイジられてればいーの」
いつもの調子でそう言って、カイリを安心させてくれた。
だが、同じくいつものように「何だよそれ」と苦笑混じりに返すカイリには知る由もなかった。
――謝られたりしたら、本気でつらいじゃない――。
結衣が声には出さず、ただ胸の内だけで、そんな本音を漏らしていたことは。
* * *
――その異変に先駆けた前触れのようなものが、なかったわけではない。
例年にない異常気象や、珍しい天体現象の連続、動物たちの奇怪な行動、人間社会に広がるそこはかとない不穏な空気――。
後から当時の出来事を追いかけてみれば、世界中で、まるでその大きな変化を前にあらゆる事象が戦いているかのような、そんな兆候を見出すことが出来る。
だが、人間とは浅薄なものだ。
なまじ、それなりの文明を築き上げられるだけの――しかし実相としてはあくまで人間の主観的理解と多数決原理によって成り立つばかりな――科学的知識を発展させてきただけに、そうした異変の兆候らしき事象も、繋がりを以て捉えられることはなく……結局それぞれが個々に、いかにもな理由付けをされて処理されるだけだった。
あるいは、人間も動物として、本能的に何かを感じていたのかも知れない。
感じていながら、しかしまだ未熟な知恵しか持たないがために、その警鐘を認めまいと、無かったことにしようと努めただけだったのかも知れない。
もっとも――万が一、人間がそれらを世界規模の異変の兆候だと感じ取り、そしてその異変の内容にすら気付けたとして……それが何になっただろう。
古今東西、どこを切り取って見ても、疑いようのない常識と信じられている真理。
その絶対的な真理が――世界の存続と同義といって間違いないだろう理が――儚くも、崩れ去るとなれば。
そう、何も出来はしない。
せいぜい、吹けば飛ぶような覚悟を纏う暇があるかどうか、そんな程度の時間を得られただけだろう。
いや、仮にその時間すら潤沢にあったとしても、やはり人間に出来ることなど何も無かったに違いない。
なぜなら――それは、喩えるなら。
二足歩行を始めたように。火を使い出したように。文明を築いたように……。
人間に訪れる、世界そのものか神が約した、不可避の変化の一つであったからだ。