18.彼女の望み
「……彰人くん」
どことなく翳りのある彰人の笑顔を見ながら……結衣は。
そうなっているのは、自分も同じだ――と思う。
それは、〈その日〉の混沌を間近で体験しなかった、無遠慮な級友から実際に指摘を受けたりもしたので間違いない。
だが……。
あの地獄に身をさらし、その上で、今世界が置かれている状況を知ったなら。
屈託なく心の底から笑うなど、もはや出来るはずもなかった。
まして――その、地獄の始まりに。
〈彼〉のあの凄絶な姿があるとなれば、なおさらだ――。
「けどよぉ……言っちゃなんだが」
空気が暗くならないようにと気を遣ったのか。
彰人は、努めて明るい声を出した。
「親父さんの仕事――翻訳家なんて、そこまで儲かる仕事でもないんだろ?
なのに、俺のこと、金銭面でも何かと助けてくれてさ……。
卒業してちゃんと仕事に就いたら、世話になった分、少しずつでもきちんと返していくから」
「うん。そういう形でなら、お父さんも喜んで受け取ってくれると思うよ。
でも、今の言い方だと……やっぱり大学に行く気はないみたいだね、彰人君。
何だかんだで成績は良いんだし、学費なら――」
「まあ……その問題もあるけどな。大学受験しない理由はそれだけじゃねえよ。
――ちなみに結衣、お前は? どうするんだ?」
「わたしは行くよ、大学。
……将来はジャーナリストになって、世界を回りたいから」
気恥ずかしげにそう答える結衣に対し……彰人は、僅かに目を伏せた。
茶化したり笑ったりするでも、大きく感心したりと強い興味を見せるでもない。
真剣に聞いていると言えばそうなのだろうが……その『真剣』の方向が、どこか違っているようだった。
「……そうか……。
やっぱりアイツのこと、諦めきれないか」
淡々とした彰人の言葉に、結衣はすぐには答えなかった。
自分の中の感情や考えを改めてまとめて、整理し直して……そうしてようやく形にする。
「そうだね。……うん、そうだよ。
あのとき、結局、怖がって逃げちゃったこと……後悔してるから」
「けど、あの感覚……覚えてるだろう?
間違いなく、アイツはもう、人間じゃなかった。
姉貴を殺して喰らう――そんなバケモノになってたんだぞ?」
「そうかも知れないね。
……でも……そうじゃないかも知れない」
鋭さを増した彰人の目を、結衣は怯むことなく、真っ向から見据えた。
「分からないことだらけだけど……はっきり言えるのは。
あのとき、他の生屍と違って、カイリ君には意志が感じられたってこと。
――彰人君もそう言ってたじゃない?」
「ああ……確かに言ったよ。そうだ、アイツは……明らかに何かが違ってたんだ。
もしかすると、アイツこそが噂の〈屍喰〉ってやつなのかも知れねえけど……それでイコール人間の味方、ってことにはならないだろ。
生きている人間は喰らわない、なんて保証も無いんだしな。
――いや、むしろ……あのとき感じた言いようもない恐怖からすれば、敵と判断する方が妥当なハズだ。
それに……カイリに限って言えば、意志があるならなおさらだ。
つまりアイツは、明確な意志をもって、姉貴を喰らった――そういうことになるんだからな」
平静を装っているが、その声に抑えきれない感情が染み出しているのは、結衣にもすぐに分かった。
――当然だ、と思う。
彰人たち姉弟と結衣の付き合いは高校に入ってからなので、そこまで長いわけでもないが……姉弟の互いが互いを、唯一の肉親としてとても大切にしていたのは、充分に感じられたからだ。
姉弟の本来の養い親は、親戚でありながら、世界がこんな状況になっても彰人に連絡の一つも寄越さないどころか……結衣の父が彰人の保護について連絡を取ったとき、厄介払いが出来ると喜んでいたぐらいだったのだ。
彰人と七海の姉弟が、互いを思い遣り、支え合おうと、強い気持ちを持ったのも自然のことだろうと思えた。
それに――たった二人だけの家族、という意味では、結衣も同様だった。
彼女も長年、父と二人だけで支え合って生活してきた。
だからこそ彼女は、七海と彰人の姉弟の絆に、すぐに共感することが出来たのだ。
そして、だからこそ分かってしまう。
そんなかけがえのない、ただの姉以上の姉が。
本来なら、人生の新たな支えとなるはずの――しかも幼馴染みで、親友でもあったはずの少年に――その身を喰らわれていたという事実が、彰人の心にいかに大きな影を落としているかを。
異変が起きてすぐの頃は、悠長に物思いに耽る暇もなかったし、あまりの出来事に、却って現実感がなかったこともあるだろう。
ならば、ある程度の時間を置き、さらに考え事をする余裕も出来た今ぐらいが、一番つらい時期なのかも知れなかった。
――けれど……と、結衣は改めて決意する。
それが分かるからと言って、自分の意志を曲げたくはなかった。
自分を助けてくれた恩人だからこそ――そして、大事な友達だからこそ。
「でも――カイリ君があんなことをしたのも、何か理由があるのかもしれない。
そもそもナナ先輩は、カイリ君に殺されたわけじゃないのかもしれない。
彼に意志があるなら、そうしたことも話してもらえるかもしれないでしょう?
――だから」
結衣はそっと、眼鏡に指をやって整える。
赤いフレームのそれは、可愛らしいデザインで、持ち主を実年齢より幼く見せていたが……。
その眼鏡を通してさえ、今の彼女の表情に、子供じみた甘えや無邪気さのようなものは欠片も存在しなかった。
「わたしはもう一度、彼に会いたい。会って、話をしてみたい。
そうして、彼もまた何かに苦しんでいるのなら、そこから救う手助けをしてあげたい。
……それが、わたしの望み」




