17.生き残った者たち
――〈その日〉から、1年が過ぎた。
生屍の〈冥界〉による隔離を提唱し、国連の特別オブザーバーとしても認められたカタスグループと、各国政府の連携による生屍への対応行動は、少しずつではあるが安定の度合いを増しつつ、規模を拡大していた。
しかし当然のことながら、それでも、世界中のあらゆる地域に対応出来ているわけではない。
世界の総人口と、1日に発生する死者数というものを鑑みれば、人の住む地をすみずみまで管理下に置くなど、どだい無理な話だからだ。
それゆえに、事故や病気による予期せぬ死からの突発的な生屍の発生が、生活を脅かしたりするのでは――という人々の不安と緊張は、まだまだ消えるにはほど遠かった。
実際、そうした僅かな綻びから、加速度的に被害が拡大し、対応不可と判断されて近隣住民に避難命令が出され……結果、打ち棄てられることになった都市も、1つや2つではない。
しかし――。
こうした状況下にあっても多くの人々は、可能な限り、〈その日〉以前の生活サイクルを守り続けていた。
死に瀕した人間への対応など、変えるべきは変えながら……それでも。
元の日常を、何とか再現し続けていた。
それはきっと、人間の本質の一面なのだろう。
致命的な鈍感さ、浅薄な図太さでもあるが……そこに根を張るがゆえに力強く芽を出す、『適応力』という名の。
* * *
――終業のチャイムが鳴ってから、もう1時間以上になる。
担任に頼まれた資料整理の手伝いをようやく終えて戻ってきた結衣は……。
ほとんどの生徒が帰ってがらんとした教室でたった一人、窓際の席で頬杖を突き、傾き始めた太陽をじっと見据える彰人の姿を見つけた。
それは、今日に限ったことではなかった。
〈その日〉以来、この関西の高校に揃って転校してからというもの……結衣は幾度となく、彰人がそうしているところを見てきたのだ。
そして、そういうときはむしろ気を遣って、あまり邪魔にならないようにしているのだが……今日は結衣にも思うところがあって。
彰人の前の席に、彼とは逆に、窓に背を向ける形で腰を下ろす。
「……あれからもう、1年になるね」
「ああ。そうだな」
返事はないかも知れない、という結衣の考えとは裏腹に。
視線こそ動かさないものの、彰人はすぐに反応した――どこか乾いた声音で。
「結衣……お前と、お前の親父さんには本当に感謝してるよ。
二人がいなかったら、この1年……俺が、こうして真っ当な生活を送るだなんて、絶対にムリだったハズだからな」
「それはもういいって言ってるでしょ?
わたしだって……あのとき、あなたが助けてくれなかったら、今ここにこうして無事でいないハズだし。
ウチのお父さんも、それを感謝しているからこそ、あなたの身元を引き受けたんだから……」
1年前の記憶――。
決して忘れられるはずもない、その壮絶な記憶を引き出しながら……しかし結衣は努めて明るく、さっぱりとした調子で言う。
――〈その日〉からの数日間。
それはまさに、世界中で混乱が最高潮に達していたときだった。
1年経った現在でも、人の生屍への変異について、正確な解明・把握が為されているわけではない。
だがそれでも……どのような形であれ、『死』が絶対的な引き金になっていることだけは周知の事実となっている。
つまりは一般常識として人々の中に、故意でなくとも他者に害を与え、ときに死なせてしまうような可能性のある行為は、直接、後の脅威へ繋がるという強い自覚が出来たのだ――倫理的な問題はもちろん、己の身の安全のためにも控えなければならない、と。
だが、異変が起きてすぐの頃は当然、そんな認識などあるはずもなく――。
死者がバケモノとなって甦る……伝播し、増幅していくその恐怖にパニックになった当時の人々は、己の身を守るべく、狂乱の中、我先にと無秩序に行動してしまった。
無論、理性的にそれを諫めようとした人物も多くいたし、他者を殺してでも保身に走ろうとするような人間など、ほんの一握りだっただろう。
いや……むしろ。
割合だけで言えば、見知らぬ他人でも助けられるなら助けるという、情けまでは捨てきっていない人間の方が、よほど多かったはずだ。
しかし、その中で、たった一人――。
たった一人だけでも、群衆に突き飛ばされ、あるいは踏みつけられでもして、そこに誰の悪意が無くとも、命を落としてしまえば。
それは、新たな火種となり、さらなる恐怖を生む。
いや増す恐怖は、人間の人間らしさをさらに削り、パニックを加速させ、確実に次の犠牲者を作る。
そしてその犠牲者が、また新たな恐怖を撒き散らすのだ――負の連鎖となって。
しばらくの時が経ち、パニック状態でい続けることにも疲れ、半ば諦めをもって生屍を観察する段になって――ようやく。
人々は、生屍が、狩人のごとく執拗に自分たちを追い回すわけではないことや、生きている人間が突然生屍になるわけではないことなどに徐々に気付き始め、落ち着きを取り戻していくのだが……。
〈その日〉から直近の数日間など、当然、まだその段階にはない。
むしろ、『負の連鎖』が、最も猛威を振るっていたときだ。
そして――バスの事故現場から逃げ延びた結衣が、当時仕事の都合で関西にいた、唯一の肉親である父のもとへ向かうことになったのは、まさにそんな最悪の混乱期で。
事実、その道のりでは、生屍との遭遇や、半ば暴徒化した群衆など……今思い出しても背筋が寒くなるような危険な事態にいくつも出くわした。
だから、そのとき一緒にいた彰人が、どのみち自分の家に帰る意味も大して無いから――と、同行して助けてくれていなければ。
父と再会するどころか、生きてさえいられなかった……というのが、結衣の正直な思いなのだ。
「だから、お互いさまだ――って。いつも言ってるじゃない」
「――だったよな。すまん」
ようやく視線を夕日から移し、彰人は相好を崩す。
その笑顔は、形こそ昔と同じだったが……そこに、かつての眩しいような明るさはなく。
翳りさえ、垣間見えるのだった。