〈その日〉――七海の朝
……丘の上から見渡す世界は遍く、夕日に赤々と燃え、黄金に輝いていた。
あるいは、荒涼とした砂漠のように。
あるいは、豊穣の麦畑のように。
それは、ただただ、美しい。
世界のほんの一部に過ぎなくとも、しかし一部であるため、世界すべての縮図でもあるその光景は、醜いものも数え切れないほど含んでいるにもかかわらず――いや、醜いものをもその身の内に包み込むからこそ。
単純に、しかしどうしようもなく……美しかった。
「……だから、僕は寄り添うよ。この世界そのものに。
これからも――ずっと、いつまでも」
広がる世界を見つめたまま、彼は、どこまでも穏やかな声で告げた。
「なら……わたしは」
その背中に向けて、若い女性の声が返る。
「あるべき形へ還る道を探し続ける。求め続ける。
たとえ、あなたと争うことになろうと……どこまでも、いつまでも」
「それが、君の選んだ道なら」
彼は振り返ることなくゆっくりと頷き、わたしの手を取って――丘を下る荒れた道へと一歩を踏み出す。
一歩、また一歩……。
「あなたにとっては、決して良い言葉じゃないだろうけど――」
少しずつ離れていく背中へ、また女性が声を投げかける。
「やっぱり、あなたのような存在こそを……。
やがて人は、神と――そう崇めるのでしょうね」
どこか優しい響きのある声に、彼は足を止め……肩越しにちらりとだけ振り返った。
困ったようなはにかみとともに。
「僕が、そうなら。――君もだよ」
言って、彼は視線を戻した。
荒涼たる死の静寂と、豊穣なる生の喝采を併せ持つ、この世界――。
未だ混沌としながら、しかしどこかへと、確かに進み続けようとする世界へ。
――慈しみを湛えながら、それでいて、どこか羨むような……柔らかな瞳を。
「…………。
何だろ……不思議な夢、見たような……」
……だけど夢は、どうしたって夢でしかない――。
たとえ、それが遠い過去を教えているのだとしても。
あるいは、遙かな未来を告げているのだとしても。
目覚めたときの記憶の縁に、ほんの少し残り香が漂うだけの。
ありもしない儚い幻と同じものなのだろう――。
「だからこその、夢……なんてね」
――伊崎 七海は、さっさとベッドを降りて高校の制服に着替えながら……いつもと違った目覚めの感覚を、そう切って捨てていた。
単に、朝は夢見に煩わされるほど時間に余裕がないから、という理由もある。
だが――実際には。
夢そのものの内容は記憶に残っていないくせに、胸の奥に妙に引っかかる、嬉しさとも哀しさとも取れない、締め付けられるような感情の名残――。
それを、早くどうにか片付けてしまいたかったから、という方が大きかった。
洗濯を済ませ、弁当を作り、軽い朝食を摂り――テキパキと、一般的な家庭が朝を迎える時間になる頃にはやるべき仕事を片付けた彼女は。
通学用のカバンを手に玄関で靴を履いたところで、背後に、寝ぼけ眼を擦りながら部屋を出てきた弟の気配を感じて振り返る。
「――おはよう、彰人。朝ご飯はテーブルね。
あと、あんたの分のお弁当も、いつも通りキッチンに置いてあるから」
「お~……サンキュ、姉貴」
アクビを噛み殺して答える彰人は、七海の1つ下の弟で……同時に世界でたった一人の、本当の意味で彼女にとって家族と呼べる存在でもあった。
幼い頃に実の両親を亡くし、子供の養育に無関心な、形ばかりの親戚に身を寄せる姉弟にとっては――お互いに。
「ああそうだ、あんた、今日放課後ヒマでしょ? ヒマよね?」
「……決めつけるなよ。
まあ、別に何もねえけど……で?」
「ほら、カイリのところ、今日は会合でしょ?
だから――」
姉がそこまで言うと、寝起きの頭でも得心がいったのか、彰人は何度か頷いた。
「ああ、ウチで一緒に晩メシか。
つまり――家まで食材を運べ、と」
「理解のいい弟でおねーさんは嬉しいなあ。
今日はさ、ちょっと遠いほら、あっちの方のディオンでお米が特価らしくて」
「なるほど? デートの締めに寄って帰るから、後で荷物持ちに来いってワケだ。
……まあ、分かったよ。
今夜の分の食材だけならともかく、さすがにこのクソ暑い中、カイリにウチまで米なんて重いモン、持ってこさせるわけにもいかねえしな。
デートの邪魔までしないように、駅前でお行儀良く待ってるとするさ」
「ありがと、助かる。駅近くになったら連絡するから。
……じゃ、お願いね!」
軽快に言って、足も同じく軽やかに玄関を飛び出る七海。
だが――その足は、すぐに止まってしまう。
さっさと忘れてしまったはずの、起き抜けに感じた……あの。
きっと夢見による、胸の奥を締め付けるような感覚が――ふっと、また甦ったからだった。
「はあ……なに、珍しく感傷的ね、あたし」
改めてそれを心の奥底に押し込め、自嘲しながら七海は空を見上げる。
良く晴れた青空を、まだせっかちさが残る9月の太陽は、さっさと高いところまで登ろうとしていた。
今日も暑くなる――。
次に彼女の脳裏を過ぎったのは、そんな当たり前の予感だけだった。