9.〈数字〉がゼロになる日
「――っ……!?」
病院を揺るがさんばかりの、大勢の悲鳴に――ボルクマンははたと気付く。
自分が再度殺し、喰らったのは、同僚の医師だった生ける屍ただ一人だけ。
しかし頭を殴られる前に見た限り、この手術室には――まだ、大本になった患者と、殺された看護師がいたはずだと。
だが、その二人――もはや人と言っていいかは定かでないが――は、既にここにはいない。
それはつまり、原因が病原体の感染のようなものかは分からないが……。
見境なく人を襲い、同種を増やしていく危険な存在が、この手術室よりずっと人間の多い場所へと向かった、と言うことに他ならない。
……正直なところボルクマン自身、自分の身に起きた異変のことで今は頭がいっぱいだった。
だが逆に、それゆえにか――。
その難解な問題から逃れ、いっそ人命救助という医師としての本分に思考を沈めてしまおうとばかりに。
彼は、悲鳴の発生源を追って手術室を飛び出し、人が最も集まっている受付ロビーへと向かおうとする。
しかし――。
力強く駆け出したはずの足は、廊下を数十メートルも進まないうちに、徐々に勢いを失い……。
やがて、とぼとぼという表現がぴったりな歩調に沈んだ。
「……それもそうか」
意識するまでもなく、皮肉めいた苦笑がその顔に浮かぶ。
そうだ――。
自分もまた既に、人から忌避されるような存在となっていたのだ……と。
全身血に塗れた姿……加えて、先に手術室から逃がした人間が、『襲われて殺された』と報告しただろう自分――。
そんな自分が歩き回っていたりすれば、こうなるのは必然だと、自嘲せずにいられない。
廊下で見かけた同僚や看護師たちは、違うのは叫ぶ言葉の内容だけで――例外なく誰もが皆、彼の前から逃げ出していったのだ。
そして……悲鳴と怒号が飛び交い、病院とは思えないほど騒がしい足音物音が、地響きのように建物を揺さぶる大混乱。
そのただ中を、たった一人、蚊帳の外にいるように悠々と廊下を進むボルクマンが、受付ロビーに辿り着いたとき……そこは既にもぬけの殻だった。
待合に放り出された様々な私物や、そこかしこに飛び散った血痕、倒れた観葉植物、割れたガラス、付けっぱなしのテレビのモニター……あらゆる要素が、ここで起きた混乱の激しさを物語っている。
血痕の量のわりに、死体の1つも転がっていないあたり……理屈はどうあれ、あの動く死体が〈仲間〉を増やしたのは間違いないようだった。
階上にはまだ人の気配が感じられたが、あの動く屍が仲間を増やすさまを見たのでは、それらの人々の避難誘導にあたっている人間も、敢えてここを通りたくはないのだろう……気配の動きから、別の経路を使って逃げる気なのだと分かる。
――加えて、あの動く屍の気配も。
どうしたわけか彼は、まるで自分がレーダーにでもなったかのように、ただの勘などではなく、はっきりとその気配を悟ることが出来たのだ。
そして意識をそれらに向けるたびに――あのどうしようもない〈衝動〉が、ドクンと大きく胸を打ち、理性を本能めいた熱さで焼き切ろうとする。
動く屍――その実物が目の前にいれば、どうなったかは分からない。
だが幸いにして視界内にそれがいないために、何とか理性を保てていた彼は……大きく息を吐き出しながら、待合の長椅子の端に腰を下ろす。
そうして、何気なく目を遣った大画面テレビは、ちょうど緊急ニュースとやらを流すところだった。
女性アナウンサーの取り乱した様子に「こんな冗談のような状況の中にいて、今さら大事件も何もない」と、思わず微苦笑を漏らす彼だったが……すぐに、その笑みは凍り付いた。
視線は画面に釘付けに。腰も自然と椅子から離れる。
ニュースとして流される映像は、この病院以外の場所でも、死んだはずの人間が起き上がり、人を襲っている事実を告げていた。
それも、ここオスロばかりでなく、ましてやノルウェーだけでなく――。
世界のあらゆる場所で、同じ事態が発生しているのだと。
「まさか、そんなことが……」
きびすを返し、ロッカールームへと駆け込むボルクマン。
改めて自分でも情報を集めようと、スマートフォンを取り出した彼はそこで、フリーメールに受信があることに気が付く。
発信者は――トルヴァルト・ボルクマン。彼自身だった。
「これ、は……」
発信者名を見た途端、遠い昔の記憶が、意識の底から浮かび上がってくる。
だが、それが形を取るよりも早く――ボルクマンは震える指でメールを開いていた。
『ロアルドのヤツが、人間の中に視えると言った〈数字〉めいたもの。
覚えているか?
日ごと減っていくという、その〈数字〉がゼロになるのが、今日この日だ。
――さあ、今日……何が起こっている?』




