8.血の海の中で
――ノルウェー、オスロ市救急病院。
その第2手術室で、外科医のトルヴァルト・ボルクマンは壁に背を預け、だらしなく座り込んでいた。
「……これ、は……。
いったい……どういうこと、だ……?」
つい先程まで、激しい熱に浮かされたようにぼやけていた彼の意識は……ようやく、落ち着きを取り戻し始めていた。
それに合わせて冷静に、今の状況を――そしてそこに至る経緯を、改めて思い返そうと試みるボルクマン。
……視界の中、手術室には、彼以外の人気は無い。
だがその代わりに、バケツをひっくり返したような大量の血と、かつて人であったものの残骸が散らばっていた。
手術室に血は付き物だ。それだけ見れば別段不可解なことはない。
だが――この量は異常だった。
加えて、あちこちに散らばる肉の塊……。
古いスプラッター映画に出るような、趣味の悪過ぎる肉屋か、狂った科学者の実験室か――と、顔をしかめるしかないような有様だ。
「……そう……私、は……」
――思い出す。
工事現場で事故が起こった――と、大勢の怪我人が一斉に運び込まれてきたのは、朝の10時前のことだった。
その後、担当になった患者の処置をいち早く終えたボルクマンが、容態が急変して苦戦しているという同僚のヘルプにやって来たのが、この第2手術室だ。
開かれた胸部より、文字通り溢れ出さんばかりに出血している患者の様子からは……事前に受けた、最悪の心破裂らしいという報告が事実であることが窺い知れた。
同時に、もはや手遅れだろう、ということも。
だが――人間の生への執着は、ときとして医師の予測を覆し、奇跡的な回復をもたらすこともあるものだ。
何度かそうした場面に出くわしたこともあるボルクマンは、見限るにはまだ早いと、出血を止めるべく奮闘する同僚に手を貸し、治療にあたった。
しかし……結局、垣間見えた運命を、その患者が覆してみせることはなかった。
いや――あるいは。
『覆した』と、そう言えるのかも知れない。
もしくは、『ねじ曲げた』――だろうか。
輸血も止まり、致死量を超えた出血の中に、もう動く気配も見せない心臓を抱いて沈む患者は……間違いなく、死亡していた。
疑いようもなく、確かに。
だが――その患者は、甦った。
唐突にのそりと起き上がったのだ。
あまりの出来事に驚き、時間が止まったような手術室の中――。
甦った患者は、獰猛な肉食獣よろしく、人間離れした素早さで執刀医の首をへし折ると――次いで、看護師の頭を叩き割った。
ここに至り、いち早く我に返ったボルクマンは……手術室にいた、パニック寸前の他の人間を押し出すようにして先に外へ避難させ。
改めて一度、室内を振り返り――そこで、これ以上ない悪夢を目の当たりにした。
ありえない角度に首を曲げられ、絶命したはずの同僚が……その奇怪な姿のまま、彼の眼前に立っていたのだ。
そして、大きく振り上げた腕を、恐ろしい勢いで頭上から叩き付けてきて――。
それが、彼の最期に見た光景だった。
そのとき頭部を襲った衝撃は、喩えようもないほどに凄まじく。
自分の頭蓋が砕ける感触すら感じた彼は、意識が途絶える一瞬のうちに、死を自覚させられた――。
「……そうだ、あれは致命傷だった……私も死んだはずだ、確かに。
だが――」
……彼もまた、目覚めたのだ。
そして――そう、つい先程まで、彼は。
頭の中を焼き尽くさんばかりの、〈衝動〉に突き動かされて。
部屋の中にいた、元は同僚だった動く屍を、圧倒的な力で打ち倒し……その血肉を喰らっていたのだ。
思い出すや否や、反射的に、必死に嘔吐くボルクマン。
しかし、吐瀉物が激しく床を汚すどころか……そうした行為自体が間違いであるかのように、そうした感情そのものが気のせいであるかのように。
彼の胸を焼く嘔吐感は、たちまちのうちに消え失せ……彼自身驚くほどに、心は平静を取り戻していく。
「いったい……いったい、何が……起こっている……!?」
何か分かることはないかと、自らの身体を、頭から、腕、胴、足――と、触れて調べてみるボルクマン。
自分の血か、返り血かは分からないが……血に塗れた身体は、致命傷だったはずの頭部の損傷さえ何事もなかったように元に戻っているという信じ難い事実以外、おかしいところは特にない。
そう――異質と感じるものはなかった。
つい先程まで、生ける屍となった同僚を相手に、人間とは思えない膂力を振るったにもかかわらず――。
彼の自己診断は、彼の身体が、これまで医師として数限りなく接してきた〈人間〉のそれと何ら変わるところがない、という結論に至ったのだ。
もちろん、機械を用いた精密検査となれば、また結果が変わるのかも知れない。
だがそれでも、この身に起きた出来事の大きさと対比すれば、よほどの変化がなければ釣り合わないだろう――。
「……待てよ」
そう考え、ふと思い立った彼は……床に散らばっていたメスの1つを拾い上げ、手の平を切り裂いてみる。
……ぱっくりと開いた傷口は、ものの数秒と経たぬ間に塞がって消えてしまった。
「これは……」
一応は痛みを感じたあたり、自分はまだ人間なのだと確認出来たようで、僅かにほっとするが――。
それは裏を返せば、自分が〈人間のようでいて人間でないモノ〉に変じてしまったのだと、意識の大部分で認めつつあるということだった。
「私は……どうなったと――」
――そのとき。
戸惑いに揺れる彼の思考を、病院中に響く大勢の悲鳴が断ち切った。




