46.誓い合った世界を
――〈暗夜〉どころか〈その日〉以前からも、ベネツィアの地盤沈下は問題視されていたことだ。
それに対処するための化学的な手段も失った今、ただ自然の為すがままとなった水の都は……徐々に、しかし確実に、星へと還ろうとしている。
もっとも、その変化はまだまだ緩やかで……。
大異変以前を知る老人が、ようやく端々で記憶との違いを見出すことが出来る程度だ。
そう――たとえば。
歴史ある邸宅の2階、自室のベッドから窓越しに見える、昼の港の光景に……アントーニオが歳月の流れを感じ取ったように。
「……何か、珍しいものでも見えたの?」
食事の乗ったトレイを手に、部屋に入ってきた結衣が問うと。
アントーニオは窓の外を見やったまま、子供のような笑顔を浮かべる。
「珍しいと言えば珍しいか。
同じ相手に、5回愛を告げて5回振られた場所だからね」
「4回じゃなかった?」
「なら、6回だ。
カウントすらされてないのは、2回分ぐらい哀しいよ」
大ゲサな泣き顔で振り返り、首を竦めるアントーニオに、結衣も笑い返しながら……トレイをサイドテーブルに置き、ベッド脇の椅子に着いた。
――ウラルトゥ事変から、1年。
当時、武力衝突を阻止するため病を押して方々に働きかけ、一軍を組織してまで、先行するバティスティたちを止めようとしたアントーニオ。
それは、半ば隠居した身……さらに創設メンバーではあっても、組織への背信行為として厳罰に処されかねない危険な行為だった。
事実、彼は言葉通りに首を賭けていたのだ――結果がどう転ぼうとも、すべての責任を己が負う覚悟で。
しかし――。
そもそも〈回帰会〉内でも内心戦いを望まぬ者が多かったこと、指揮官だったバティスティが翻意したこと、破壊工作をしてでも戦火を煽ろうとした者がいたという事実の暴露……。
そうした事態が重なり、執行部の行き過ぎた『勢力拡大主義』が問題視され、組織内の勢力図が大きく変化し――回帰会そのものもまた、主義主張よりまず先に『人々の生活を守る』という本来の役割に『回帰』せねばならないと、若手による改革が始まった結果。
アントーニオに下されたのは――『除籍』という、老境かつ病床の身の彼にはむしろ恩賞となるような処分だった。
いや、実際明言はされないが、そういう意味合いがあったのだろう――彼へのその処分を率先して主張したのは、新たな執行部の中心的存在となりつつある、かのバティスティだったのだから。
そうして、本格的に隠居する彼に……結衣はただ、付き添った。
彼がその余生を全うするまで、側に居続けようと。
「……何か食べる?」
「ああ、いや……まだいい。
それよりも、キミと話していたいな――キミという存在自体が、私にとっては何よりの薬だからね、結衣」
「そのフレーズ、ヒドい風邪引いたときと骨折したときと、合わせてもう3回目。
もうちょっと工夫した方がいいんじゃない?」
「いつもながら手厳しいな」
苦笑を漏らすアントーニオ。
こうしてほとんど寝たきりになり、昔の精悍さなど想像も出来ない痩せた顔立ちになっても――その表情は明るかった。
「…………。
結衣――ありがとう。
私の最期の時を、共に過ごしてくれて」
ふと、アントーニオがつぶやいたそんな一言に……結衣は微笑みとともに、静かに首を横に振る。
「わたしこそ……ありがとう、アントーニオ。
わたしを、わたしとして……ずっと好きでいてくれて」
「……ふふ……やはり、私の目に狂いは無かったな。
本当にキミは、世界一の女性だよ――」
満足げに頷きながら……アントーニオは再び、窓の外へと視線を移す。
「……なあ、結衣……。
やはり、元の世界を取り戻すというのは――どだい無理な話だったんだろうか。
その無理を押し通すことは、世界を歪めてしまうのだろうか。
だとすれば私は――私たちのしたことは、徒に世界を――」
「いいえ。わたしは、そうは思わない」
結衣は穏やかに――しかしはっきりと言い切った。
「わたしもね、この短期間に色々なことを見聞きして……色々と考えさせられた。
でもね、それでも……あなたたちの想いを、掲げた理念を、無駄や失敗などとは思わない。
すぐに芽吹くものではなくても、それはいずれ……遠い未来、花を咲かせるための種に成り得るのだから。
そしてもし、そのときが来なくても――花となるものではなかったとしても。
その種が、想いが、人々の心にあること……それはきっと、この先の人々が選ぶ『道』――その標となるはずだから」
「……そうか……」
「ええ。だからねアントーニオ、わたしは――」
穏やかに言って、結衣は――アントーニオのすっかり骨張った手を、そっと両手で包み込んだ。
「これからもずっと探し続けるし、掲げ続けるよ――そう望む人がいる限り。
あなたたちと誓い合った世界――。
人の命が、当たり前に死を迎えられる世界を」




