〈その日〉――二人の夕刻
「ナナ、ねえ……ナナ姉……っ?」
自分のことよりも何よりも、まず先に。
少年――時平 カイリの口を突いて出たのは、その名前だった。
姉のようで、母のようでもある大事な幼馴染み――いや、今はそれ以上に己の半身として、より大切に想う少女の名。――七海。
その無事を願い、姿を求め、そうして名を呼び続けながら。
まともに視えない眼を、まるで動かない身体を――彼はそれでも懸命に動かす。
そうするうち……前後不覚に混乱していた思考が、断片的になっていた映像と記憶を繋げていく。
――路線バスの車内。
乗客は少なかったが、それでも「マナーだから」と、窓の外を確認しつつ小さな声で電話する七海。
そこへ近付いてくる、救急車のサイレン。
速い、と意識する間もないほど一瞬で、対向車線からバスの鼻先へと肉薄する救急車。
そして襲い来る、途轍もなく圧倒的な衝撃……。
その衝撃の『瞬間』は。
何がどうなっているのか、状況を理解する余裕はもちろん――自分たちがどうなるのか、先を予測する猶予もなかった。
ただ、濁流に呑まれる木の葉のように、自分の身体が宙に舞うのを自覚しながら――それでも、意識が途切れるまでの僅かの間に、必死に彼女の手を掴んだはずだった。
そう――お互いに手を伸ばして。
決して離すまいと、堅く結び合ったはずだった。
「……ナナ、姉……!」
その事実を、感触を……思い出す。
折しも、ようやく回復してきた視界を動かしてカイリは……探し求める少女が、床に倒れた自分に覆い被さっていたことに気が付いた。
加えて――。
彼女の背に、何か大きな鉄片のようなものが突き刺さり。
制服が、射し込む夕日の赤よりもなお紅く……不吉なまでに紅く、染まっていることにも。
――庇おうとしてくれたんだ、僕を。こんなときにでも……!
七海の取った行動をカイリはすぐに理解した――彼もまた、同じだったからだ。
二人を襲った暴威の波は、彼らのそんな努力を無駄と嘲笑うばかりに凄まじいものだった。
人間が一人、身を挺して庇ったところで何になるのか、というほどに。
それでも、そうせずにはいられなかったのだ、彼は。
そして、きっと――彼女も。
「ナナ姉……!
しっかりして! ナナ姉……!」
必死に呼びかけ、その身体を揺さぶりながら……そこでカイリは、ふと気が付く。
――そういえば、僕は……?
電気のように意識下を奔ったのは、違和感。
それに伴って甦る彼の記憶は、バスが救急車と衝突して吹き飛んだ際、手すりか何かで背中を打ち付けたことを告げている……それこそ、骨が砕けるほどに激しく。
いや、実際砕けたはずだ、と彼はさらに思い出す。
意識を失う寸前に感じた、理不尽なまでのあの衝撃なら、と。
そしてそんなことになれば、人間は到底生きてはいられないだろうとも。
だが――彼は生きていた。
あまつさえ、意識を取り戻したときには激しく痛み、まともに動かせなかったはずの身体が……この僅かな間に、まるで健康体のような状態に戻っている。
「な、なんで? なんで、僕……」
戸惑うも、彼が何らかの答えを見出そうとするのは、すぐに後回しになった。
彼に覆い被さったまま、身動き一つしなかった七海の身体が――動いたのだ。
「――っ!?
ナナ姉、大丈夫っ!? ナナ姉!!」
その声に応えるように、七海はのっそり、上体とともに――顔を上げた。
「ナナ姉……!」
それは、見慣れようとも決して見飽きない、愛しい者の顔だ。
意志の強さそのままに、小さいながらも引き締まった唇。
ころころと猫の瞳のように、豊かに表情を変えてみせてくれる優しい目元。
本人は気にしていたが、その愛らしさにはまるで影響がなさそうな、やや低めの鼻――。
血の気が引いたように肌が青白いという以外、いつもとまったく変わらない。
だが……刹那。
カイリの内、本能よりも奥底にある何かが――囁いた。
微笑んでいるようにも見える優しげな表情は、虚ろで――。
生気を備え、美しく潤む褐色の瞳は――しかし、輝いてはいないと。
その『囁き』は、思考が追い付くよりも早く、本能が訴えるよりも敏く……それこそを『悟り』というのか。
ごく自然な世界の真理を受け取るように――感情の波すら僅かに立つ間も与えず、すんなりと彼の心に染み渡った。
――浸透、してしまった。
彼女は――伊崎 七海はもう、〈生きて〉はいないのだと。
――その瞬間。
カイリは、自分の中の〈何か〉が切り替わるのを感じた。
鼓動のように、ドクンと――胸を打って。
「………………」
カイリの首へと、七海の両手が、すうっと音も無く伸ばされる。
可憐に優しく触れてくるそれが――花を摘むかのごとく、彼の細い首を手折ろうとしていることを、カイリは理屈も何も無しに、反射的に、ただ理解した。
驚きも恐怖も無く……ただ、当然のこととして。
そして――カイリは、首にかかるその手を撥ね除けると。
そのまま逆に七海の首を掴み、空いた手で――少女の無防備な左胸を刺し貫く。
その一連の動作には、カイリ自身の思考も感情も、一切の介入を許されなかった。
カイリを衝き動かしたのは、まさに――その言葉通りの〈衝動〉だった。
「――――」
明らかな致命傷を受けてなお、痛苦に歪むでもなく虚ろな表情のままの七海は、動きを止めない。
それを、跳ね起きるようにして素早く体の上下を入れ替え、逆に馬乗りに組み敷き、押さえつけ――カイリは。
七海の左胸から抜いた腕、その血塗れの手の中にある肉片を……ぎこちなく、自らの口の中に押し込んだ。
そして、それに飽き足らず――内なる〈衝動〉のままに。
彼は、押さえつけた七海の首筋へと喰らいついた。
腐肉を漁る獣のように、荒々しく貪欲に。
しかし、あるいは――母の乳を求める幼子のように無我夢中に、一心に。
そのさなか、彼が視界の隅に垣間見た、愛する少女の表情は……いつもの優しい微笑みだった。
――彼には、そう思えた。