9.タイムオーバー!
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東の空が白々と明けはじめた。
ろくにまんじりともできなかった。恐る恐る穴から這い出し、テラスから眼下をのぞいてみる。
そう言えば、これまで獰猛な唸り声の合唱は耳にしても、日光のもとで奴らの姿を見たことがなかった。
案の定、狼のような顔つきで、ハイエナみたいに尻のさがった全身灰色の獣だった。下半身には特徴的な斑がある。救いなのは、どれも格別巨体ではなかったことだ。とはいえ集団で襲われたなら、ひとたまりもあるまい。
群れは朝を迎えるとともに諦めたのか、森の奥へ去っていった……。
今になって、やはり塒を塞ぐなり、燻すなりして殺しておくべきだったと臍を噛むのであった。サバイバルに情けは禁物である。人間のエゴだと非難されようが知ったことではない。
いずれにせよ、獣どもは夜間だけ行動するのであって、その点に気を付ければ命の心配はなさそうだ。ツリーハウスの上なら、いくら下で吠えようが、隠田はおかまいなしに眠ることができた。
腕時計にタイマーをかけるのを必須とし、暗くならないうちに帰宅することを心がけた。
来る日も来る日も穴に潜り込み、トンネル掘りに専念した。
鑿の先は欠け、柄もハンマーの衝撃に耐えきれずボロボロになった。
代わりの鉄材を加工して叩いた。が、鍛錬した鋼に比べると硬度は落ちるので、作業は遅々として進まず、やがて穴の外では季節だけが移ろっていった……。
その間も食べていかなければならない。
時には丸1日、追い込み漁に出かけ、捕らえた魚介を干物にしたり、藻塩作りに精を出さなければならなかった。漁場では魚だけではなく、イカやタコまで捕れ、食に変化をもたらすことができた。深いところに潜ればサザエやトコブシを手に入れることができ、単調な日々は多少なりとも慰められた。
隠田は春先に新たな野菜の種を蒔いていた。
畝ごとに、昨年と同じものを植えると生育不良になったり、収穫量が激減したり、病気に冒され枯死してしまうことがある。この現象を連作障害と称することを知っていた。知識は正義だ。
それぞれの畝には、昨年とは異なる作物を作るよう心がけた。ちゃんと記録までつけてあった。
自身の糞尿を溜め、それを施肥するのも忘れなかった。
ときおり嵐が来て、数日にわたって猛威をふるった。自然のサイクルは機械的にくり返された。
ツリーハウスの小屋は何度も屋根を飛ばされ、畑も破壊されそうになった。そのたびに隠田は、我が身を挺して野菜を守った。
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ある日の午後、隠田は飽きもせず穴に入り、隧道掘りに打ち込んでいた。
長きにわたる無人島暮らしで、食生活も偏っていたので、頭がちゃんと回転しない。気は短く、短絡的な思考になりがちだった。
孤独をこじらせ、精神に異常をきたしているのか、あらぬ独り言を呟き続ける。そのくせ五感は研ぎ澄まされていた。
「あン?」
不意に、穴の外で異音を捉えたような気がしたので、ハンマーを振るう手をとめた。
耳に手のひらを当て、聴覚に全神経を集める。
遠くで、バリバリバリバリ……という、大気を切り裂く音。
あれはよもや、エンジン音ではないか?
徐々に近づいてくる。
やがて近くで爆音になり、こだまするほどになった。
隠田はハンマーを捨て、穴から出てみた。計算ではトンネルの開通まで、残すところあと1メートルほどだというのに……。
空飛ぶ黒い物体は爆音を轟かせながら、西側の砂浜の方へ降下していった。
あとを追うべく、浜へ下りてみることにする。
砂地でできた丘陵の頂から明らかになった。
椰子の生えた波打ち際には、哨戒ヘリコプターが着陸していた。ローダーブレイドを回転させているせいで、猛烈な砂塵が舞っている。
エンジンが停められ、やがてその回転もおさまっていった。
隠田は事態を飲み込んだ。
顔をくしゃくしゃにしかめ、両腕を広げ、激しく振って交差させた。
「つ、つ、つ……ついに、助けが来てしまったんだ!」
うめきながら丘をくだった。
足をとられ、尻餅をついたまま滑り台のように下までずり落ちていく。
その姿を認めたらしく、すぐさま哨戒ヘリから男たちがぞろぞろと降りてきた。
遠目にもわかった。隠田の視力は鷹なみに冴えていた。4人の迷彩服姿のアメリカ人と、1人は私服の男も混じっている。
彼らは隠田の恰好を見るなり、身体をこわばらせた。
お互いに顔を見合わせる。アメリカ人の1人など、あんぐり口を開け、両手を広げ、ワオ!とオーバーアクションをした。
なにせ隠田は、ざんばら髪で髭もボーボーの、腰蓑一丁の裸族である。真っ黒に日焼けし、眼つきも尋常ではないほど爛々としていた。おまけに戦闘民族よろしく、木の枝と鋭い鉄材で工作した銛を手にしていた。首にはいくつもの二枚貝をあしらった首飾りを巻いてある。まさしく、鬼ヶ島の鬼もかくやのいで立ちである。
前に進み出た私服姿の男は、れっきとした日本人だった。呆気にとられたような顔つき。
「……おい、無事だったのか? アフリカ行きの便の生き残りだよな? 日本人の乗客の一人、隠田 智也さんじゃないのか?」
「な、な、な、なんで……なんで、今さらなんだよ」と、隠田はがに股になって文字どおり地団駄を踏んだ。「ダメだダメだダメだダメだ!」
「なにをおっしゃる。やっと帰れるんですぞ」
と、日本人の男が言った。声はふるえ、涙ぐんでいた。
アメリカ人がすり寄ってきて、口々に、大丈夫か? 無事だったか?と聞いてくる。
恰幅のいいレイバンのサングラスをかけた男が代表で、長々とまくし立てた。すぐに日本人に顎をしゃくる。どうやら彼は通訳らしい。
「我々は希望を捨てず、ずっと生存者を捜し続けていた。捜索範囲を広げた甲斐があった。まさかこんな絶海の孤島に流れ着いていたとは驚きだ。日本へ帰してやろう。君の家族が待っているぞ――と、中隊長が言っております」と、通訳は言った。隠田に近寄り、たくましい肩に手をやった。「よく生きてたな。飛行機が墜落してから430日――1年と2カ月だぞ。君はよく頑張った、ともおっしゃっています」
「なんだって?」隠田は眼を見開いて口走った。いくつもの歯が欠け、皺が目立った。とても30前には見えない。胸の前で手のひらを見せた。「冗談じゃない。せっかく居住区に水路を引いた。トンネル掘りもあとちょっとなんだ。ここまで来たのに、今さら中断するわけにはいかない! おれはなにがなんでもやり遂げる!」
「ナニをおっしゃるんだ、アンタ」
体格のいいアメリカ人が片言の日本語で言った。今度はなめらかな英語でしゃべり、通訳を介した。
通訳の男はこう言った。
「――なんのために今まで耐えてきたんだ。故郷に帰るために頑張ってきたんだろ。もう終わりなんだ。島での不便な生活とはグッドバイだろ」
言うが早いか、隠田は激しく頭を振った。
「困る困る困る! 今、手は離せん。ここまで掘ってきたんだ。フイにしたくない! おれはなんとしてもトンネルを開通させる! あと1メートルなんだぞ。それまで島から出ん! 一歩たりともだ!」
「なんだ、それ!」
「ユー、クレイジー」
「オー、ジーザスクライスト!」
了
※参考文献
『完訳 ロビンソン・クルーソー』ダニエル・デフオー 増田 義郎訳・解説 中公文庫
『漂流』吉村昭 新潮文庫
『無人島に生きる十六人』須川邦彦 新潮文庫