1.墜落!
F製作所は業界ベスト5に名を連ねる大手電機メーカーである。
世間一般には、Fグループの中核企業にして、世界有数の総合電機メーカーと認知されていた。
にもかかわらず、株主を大事にするくせに、安月給で社員を酷使する典型的なブラック企業だった。
最大100時間を超えるサービス残業は序の口で、上司のパワハラセクハラが横行していた。過酷なノルマを課せられ社員の誰もが疲弊していた。密告すればいいのに、飼い慣らされて洗脳されたか、抵抗する者すら現れなかった。
年度末、ついに営業部の中堅社員、隠田 智也のもとに出向辞令が言い渡された。
ふたを開けてみれば、行く先は南アフリカの過疎地。
思わず天を仰いだ。
F製作所におけるかの地への転勤は、出世街道から脱落したことを意味し、たとえ成果を出したとしても昇進の見込みはない。
28歳になる隠田は独身で、これといって恋人もいなかったので、日本を離れるのに未練はなかった。なんだかんだ言ってポジティブ思考で、これまでいくつもの苦難を乗り越えてきたのだ。
いっそのこと、F製作所に見切りをつけてもよかった。今からならいくらでも仕事は乗り換えられるだろう。さしたるスキルも持ち合わせていなかったが、どうせこの時世、売り手市場は引く手あまただ。
なのに、結論を後手にまわしていたばかりに、出発の日が来てしまう。
関西国際空港の保安検査所の入口まで足を踏み入れた。営業部の面々と、幹部たちが見送りに来てくれた手前、今さらあとには退けなくなった。
――どうにでもなれだ! うまく行くかもしれないし、行かないかもしれないけど。今まで営業職一本で、なんとか乗り切ってきただろ。前向きに行くしかない!
こうして、隠田は機上の人となった。
なのに、ブラック企業の社畜らしい展開となるとは……。
まずオーストラリアまで飛び、そこから乗り継ぎ、一路ケープタウンに向かう最中のことだった。
フライトが8時間経ったころ、かつてないほどの乱気流で機体は揉みくちゃにされ、本来の行く先とはあべこべの方角をさまよい出したのだ。
さらにテロリスト騒動まで起きるとは、ツイていない。
突如、乗客の5人が立ちあがり、客室乗務員を人質にとった。某国における思想の長口上を述べたからたまらない。
男の1人は腰の革製ベルトをはずし、一人の客室乗務員の首に巻き付けている。一番体格のいかつい男だ。いつでも締めあげられるよう、両手で保持している。
てんやわんやの騒ぎとなった。
女性の悲鳴、子どもの泣きわめく声、男たちの怒号で機内はパニックの坩堝と化した。
そのころ、機長たちも操縦桿と格闘していた。
乱気流のなか、眼下の太平洋も荒れ狂っている。
機体はダッチロール(航空機の横揺れと偏揺れの連成による蛇行運動)しながら迷走していった。機首を大きく下げ、やがて旋回しながらスピードが落ちていく。
隠田はパニックを起こしていた。
そのうちなにを血迷ったのかシートベルトをはずし、窓の外だけは見まいと両腕で頭をカバーして座席の下でうずくまった。
機長たちの健闘むなしく、急角度で大海原に突っ込んでいった。
墜落の衝撃で、乗客は前の座席に激しく頭をぶつけた。テロリストたちは身体を投げ出され、あらぬ方向へ飛んでいく。ありとあらゆる飲み物やら夕食のトレイ、手荷物が宙を舞い、撹拌される。
耳を弄さんばかりの、鉄材が破損する大音響。
誰も彼もが着水の衝撃で気を失った。
そんななか、隠田だけが石頭のおかげで、意識をしっかり保っていた。どうにか座席の下から身を起こした。
即死はまぬがれたらしいが……。
半壊状態の機体から浸水がはじまった。至るところから海水が入り込んできた。
甲高い鉄の嫌な軋みがあがり、ジェットエンジンの唸りが急速に静かになっていく。
「うわあああああああ――――ッ!」
隠田は、まわりの惨状に顔を覆った。
窓からおぼろげな明かりがあり、機内を見渡すことができたのだ。
乗客のほとんどはシートベルトを腰に巻いていたせいで、墜落の衝撃で胴体が断裂していた。グシャグシャに破壊されたフロアには、人体が真っ二つに泣き別れになり、色とりどりの内臓が散乱し、とぐろを巻いていた。床は赤黒い鮮血で池と化している。
海水がどんどん入り込んできた。生存者はいないかどうか声をかける暇すらない。
どうせ誰も微動だにしなかった。うめき声ひとつなく、ただ水漏れの音だけが聞こえる。テロリストたちも生きてはいまい。
天井から潮風が吹き込んでくるようだ。亀裂が生じていた。
隠田はささくれ立った機体の天井のすき間から、どうにか這いずり出た。
外は深夜らしい。ケロシン(ジェット燃料)が流失したらしく、海上のそこかしこで引火し、不気味な野焼きの様相を呈している。
まるで巨人の手のひらのような怒涛が幾重にもうねっている。原型をとどめぬ機体にぶつかるたび、白い波頭が砕け、足元が激しく揺れた。
飛び込むのは、正気の沙汰ではない。
破損した飛行機は鉄特有の断末魔を洩らしながら、今にも水中に没しようとしていた。
グズグズしている場合ではない。
いつまでもしがみついていたら、残骸が沈むと同時に巨大な渦が起き、余波に巻き込まれるだろう。
海面には、おびただしい数の浮き輪がわりとなる荷物やら資材やらが浮いていた。即死したらしい乗客の身体もある。
意を決してダイブ。
誰かのキャリーケースにしがみついた。
荒れ狂ういくつもの波にさらわれ、隠田はなす術もなく漂流するがままになった。